先だって、祖父が昭和19年11月20日附で「第二艦隊司令部」へ転属となったことを、お話いたしました。
この人事異動は、多くの人の転換となっております。
海軍では通常ではない人事異動が発生しております。いずれも、「第二艦隊」がらみではありますが、レイテ沖海戦での敗因がその背景にあることを読み取ることも出来ると考えます。
レイテ沖海戦直後の大和の動きを少しだけご紹介いたします。
昭和19年
10月28日 レイテ沖海戦を終えた大和はブルネイへ着きます。ヤマトでのレイテの戦死者は23名。その様子は「男達の大和」でも見る事が出来ます。
11月8日 ブルネイへ出撃。レイテ輸送作戦を支援いたします。
11月11日 ブルネイ着
11月16日 再び、内海西部へ出撃いたします。
11月23日 呉着。一度桂島へ。修理の為、呉港へ入ります。
11月24日 呉、入渠。
この11月24日。呉に大和はおります。11月20日に第二艦隊への転属への人事異動が行われます。祖父もそのタイミングで「ウ553司令部」附きとなりました。
レイテでの艦長「森下」さんはこの際、「第二艦隊参謀」として再び大和へ。
先にお話いたしました「伊藤整一」さんが司令長官として着任する一ヶ月前の事です。
祖父は数十年ぶりの艦でした。
「丁度、呉に大和が停泊していたその後、一度だけ酔漢祖父に会いました。このとき酔漢祖父さんは『大和のいたるところに銃弾の跡があって、すさまじい戦闘の様子だったんだなやなと思っていたら、水兵達がなにやら掃除をするために、バケツの中に何かいれてんのっっしゃ。何してんだべっておもったらっしゃ、人の肉さあば拾ってんだおん。おらたまげたっちゃ。まんずこげなとこさぁいらんねぇって思ったっちゃ』って言ってました。これ本音だったっと思います。戦争中だったとはいえ、これまで前線へ行ったことがなければ、そうだと思います」(大高勇治さん証言)
この話は父も聞いたそうです。
レイテは思った以上の損害だったのでした。
祖父は通信でしたから、大和では「第十二分隊」と多く関わっていたと考えます。
ですが、祖父を知っていた方は通信隊が全滅している様子から、生存されている方からのお話を聞くことは出来ません。
大和が沖縄へ出撃する際に「少尉候補生退艦」がありました。(昭和20年4月5日)その中のお一人、埼玉在住の方が祖父を知っておりました。
酔漢実際に会話をしたことがございます。
「酔漢祖父さんは、大和でも有名でね。何せ方言を隠さない、いや隠せないんだな。訛りがね、独特で『おめぇ何もしゃねぇでこの艦さぁ来たんだべ。まんずおら達のやってる事さぁ黙って見てたらいいのっしゃ』って言われました。佐々木更三代議士を見ると思い出します」
祖父は、先の証言からも「前線へ出て行くことが嫌だった」と考えます。
戦時中に、あの発言ですから、本来なら軍人としては「許されない」発言だったかもしれません。
この経緯は、後程語らなければなりません。
話は昭和19年12月24日に進めます。
岩国航空基地へ降り立ちました「伊藤整一」司令長官です。
「長官、ようこそ。お待ちいたしておりました」
大和艦長「有賀幸作」です。(文献には「ありが」とありますが、ご遺族の名簿を紐解きますと「あるが」となっております。ですから「あるが」と姓を読ませます)
「なるほど『ゴリラ』か・・・・」
伊藤は彼の渾名をふと思い出したのでした。
「中澤君がね、君をよろしくと・・・」
「私も中澤先輩から長官の事は聞いておりました」
「諏訪で一緒だったんだね。彼は優秀な人材だね」
「はい、同校(長野、諏訪中学校)始まって依頼の秀才でありました」
この一ヶ月で大和は整備ならびに対空砲火強化艤装を終えました。前大和艦長「森下信衛」が参謀長として専任しておりました。
「明日、大和・・・か」伊藤はまだ実際に見た事もない大和の大きさを想像するだけでした。
「こらー!もとっ気合を入れんか!!」
前日、新司令長官を迎える大和では、ルーティンの甲板清掃が行われております。が、左舷。第二主砲横は念入りに行われているのでした。
「明日ぁ、司令長官が乗艦される!この大和に汚れがあっては我々全員の恥なのだ!もっと腰を落として掃除せんかぁ」
若手の兵曹が水兵達を鼓舞しております。
海軍艦上の甲板清掃です。
大和甲板は木板が敷かれております。武蔵と材質を異にしておったと聞きました。
が、掃除の仕方は変わりません。全員横一列。膝をつけず片足を前に伸ばしたようにして進みます。これ相等きつい。
まねした酔漢です。足つります。
酔漢祖父は「扶桑」「長門」で経験しているのでしょう。
磨き上げた甲板。
昭和19年12月24日は、晴天の呉。
呉港からランチが出ます。大和は柱島で停泊中でした。
ランチがだんだん大和へ近づいております。
「デカイなぁ・・・」
「はっ?長官何か?」
「いやなんでもないヨ!初めて見るが、さすがに大きいねぇ・・」
「そうですね。ですが長官。艦の側に来ると、その大きさが判りますよ。そうですね。目の前が・・・その・・一色しかない景色になるんです」
「どういうことかね?」
「時期にお解かりいただけるかと思います」
なるほど・・伊藤はそう思った。大和へ近づくにつれ、主砲が見えなくなり、艦橋が見えなくなり。上甲板が見えなくなり。目の前に近づいてくるのは「灰色の巨大な鉄の壁」だけになってきたのでした。それを凝視することは目が疲れるどころではなく。頭がくらくらするくらい、恐ろしくも灰色の壁だったのです。
「山のようではあるが・・そんなものでもない」
「長官、ここから舷梯です。森下参謀がお待ちです」
伊藤は、舷梯を上がります。どの艦より長い舷梯でした。
大和上甲板。二艦隊、大和士官達が全員整列している中、伊藤の着任式が行われました。
着任式とは言っても、それとした式次第があるわけでもなく。一通りの敬礼を終えますと、それだけです。伊藤は中央右舷側「長官公室」へ案内されました。
「ひろいなぁ。これが、君『大和ホテル』といわれる所以だね」
「自分はこれまでガンルームしか知りませんでした。この公室へは初めてであります。」
下士官は若かった。その目を見て伊藤はふと自身の息子を思い出すのでした。
「『横山大観』だね」
「その絵の事でありますか?」若い下士官はそう聞き返すのでした。
下士官の顔にははっきり「しまった!」と書いてあります。伊藤は「無理もない」と思うのでした。
椅子と大きな机が部屋の隅に。そして横山大観直筆の「富嶽図」広さは25畳もある長官公室。
「居心地がいいもの・・ではないね」
「かといって艦内をうろうろしては、兵達が緊張するであろうし。こまった」
伊藤は自身の居場所がないことに気づいたのでした。
「長官、ハイリマス!」
森下参謀長でした。
「森下君か、入り給え」
「どうです長官。大和は」
「どうですって、君は全てを知り尽くしているから何とも思わんのだろうが」
伊藤は困惑した表情でそう話すのでした。
森下は自身が大和艦長として着任した初日を思い出すのでした。
「森下君。司令部は確かに大和と共にあるのだが、大和の指揮そのものは、有賀君に任せておけばいいと思うのだが。そうでないと、大和の組織そのものが崩れてしまう。そうは思わんかね?」
「二艦隊司令部全員には今長官が申したことをそのまま話しております。大和各分隊は優秀な兵が揃っております。私は前任の艦長ではありましたが、百戦錬磨の猛者達です。司令部が現場でやることなんてないのが本当です。彼らには前線の経験があります。司令部はどちらかというと、前線経験者は殆どいないのが実情です。艦の事は彼らに任せて間違いないと思っております。この艦では司令部より大和乗組員の方が偉いのです」
森下は笑いながらこう話ました。
「では、長官、艦橋へ行きましょう」
「そうしよう」
伊藤は森下から大和の概要と二艦隊の現状をそこで聞くのでした。
昭和52年。4月7日。大和慰霊祭が靖国神社で開催されました。酔漢も出席しております。(中学3年時)
席順ですが、司令部遺族は末席だったのでした。
大和のご遺族の中には「司令部がいたから大和は前線へ向った」とお話される方も大勢おります。
この気持ちに配慮した席順となっていたのでした。
「戦艦大和及び第二艦隊慰霊際」
正式にはそう言った名のついた慰霊祭だったのでした。
「司令部は大和の運用について直接指示をするものではない」
これは伊藤整一司令長官の命令でもあったのでした。
司令部は大和の邪魔をしないような行動を取るよう、厳命されているのでした。
酔漢祖父は司令部通信。大和第十二分隊にはその長に「山口通信長」がいて、司令部参謀附きとして「小沢信彦通信参謀」がいるのでした。
(この通信参謀。酔漢祖父に取りましては海軍省時代からの直接上司になるのでした)現場の通信は「大和」、GFからの通信には「司令部」というように分割された役割になっておったと聞きました。
この人事異動は、多くの人の転換となっております。
海軍では通常ではない人事異動が発生しております。いずれも、「第二艦隊」がらみではありますが、レイテ沖海戦での敗因がその背景にあることを読み取ることも出来ると考えます。
レイテ沖海戦直後の大和の動きを少しだけご紹介いたします。
昭和19年
10月28日 レイテ沖海戦を終えた大和はブルネイへ着きます。ヤマトでのレイテの戦死者は23名。その様子は「男達の大和」でも見る事が出来ます。
11月8日 ブルネイへ出撃。レイテ輸送作戦を支援いたします。
11月11日 ブルネイ着
11月16日 再び、内海西部へ出撃いたします。
11月23日 呉着。一度桂島へ。修理の為、呉港へ入ります。
11月24日 呉、入渠。
この11月24日。呉に大和はおります。11月20日に第二艦隊への転属への人事異動が行われます。祖父もそのタイミングで「ウ553司令部」附きとなりました。
レイテでの艦長「森下」さんはこの際、「第二艦隊参謀」として再び大和へ。
先にお話いたしました「伊藤整一」さんが司令長官として着任する一ヶ月前の事です。
祖父は数十年ぶりの艦でした。
「丁度、呉に大和が停泊していたその後、一度だけ酔漢祖父に会いました。このとき酔漢祖父さんは『大和のいたるところに銃弾の跡があって、すさまじい戦闘の様子だったんだなやなと思っていたら、水兵達がなにやら掃除をするために、バケツの中に何かいれてんのっっしゃ。何してんだべっておもったらっしゃ、人の肉さあば拾ってんだおん。おらたまげたっちゃ。まんずこげなとこさぁいらんねぇって思ったっちゃ』って言ってました。これ本音だったっと思います。戦争中だったとはいえ、これまで前線へ行ったことがなければ、そうだと思います」(大高勇治さん証言)
この話は父も聞いたそうです。
レイテは思った以上の損害だったのでした。
祖父は通信でしたから、大和では「第十二分隊」と多く関わっていたと考えます。
ですが、祖父を知っていた方は通信隊が全滅している様子から、生存されている方からのお話を聞くことは出来ません。
大和が沖縄へ出撃する際に「少尉候補生退艦」がありました。(昭和20年4月5日)その中のお一人、埼玉在住の方が祖父を知っておりました。
酔漢実際に会話をしたことがございます。
「酔漢祖父さんは、大和でも有名でね。何せ方言を隠さない、いや隠せないんだな。訛りがね、独特で『おめぇ何もしゃねぇでこの艦さぁ来たんだべ。まんずおら達のやってる事さぁ黙って見てたらいいのっしゃ』って言われました。佐々木更三代議士を見ると思い出します」
祖父は、先の証言からも「前線へ出て行くことが嫌だった」と考えます。
戦時中に、あの発言ですから、本来なら軍人としては「許されない」発言だったかもしれません。
この経緯は、後程語らなければなりません。
話は昭和19年12月24日に進めます。
岩国航空基地へ降り立ちました「伊藤整一」司令長官です。
「長官、ようこそ。お待ちいたしておりました」
大和艦長「有賀幸作」です。(文献には「ありが」とありますが、ご遺族の名簿を紐解きますと「あるが」となっております。ですから「あるが」と姓を読ませます)
「なるほど『ゴリラ』か・・・・」
伊藤は彼の渾名をふと思い出したのでした。
「中澤君がね、君をよろしくと・・・」
「私も中澤先輩から長官の事は聞いておりました」
「諏訪で一緒だったんだね。彼は優秀な人材だね」
「はい、同校(長野、諏訪中学校)始まって依頼の秀才でありました」
この一ヶ月で大和は整備ならびに対空砲火強化艤装を終えました。前大和艦長「森下信衛」が参謀長として専任しておりました。
「明日、大和・・・か」伊藤はまだ実際に見た事もない大和の大きさを想像するだけでした。
「こらー!もとっ気合を入れんか!!」
前日、新司令長官を迎える大和では、ルーティンの甲板清掃が行われております。が、左舷。第二主砲横は念入りに行われているのでした。
「明日ぁ、司令長官が乗艦される!この大和に汚れがあっては我々全員の恥なのだ!もっと腰を落として掃除せんかぁ」
若手の兵曹が水兵達を鼓舞しております。
海軍艦上の甲板清掃です。
大和甲板は木板が敷かれております。武蔵と材質を異にしておったと聞きました。
が、掃除の仕方は変わりません。全員横一列。膝をつけず片足を前に伸ばしたようにして進みます。これ相等きつい。
まねした酔漢です。足つります。
酔漢祖父は「扶桑」「長門」で経験しているのでしょう。
磨き上げた甲板。
昭和19年12月24日は、晴天の呉。
呉港からランチが出ます。大和は柱島で停泊中でした。
ランチがだんだん大和へ近づいております。
「デカイなぁ・・・」
「はっ?長官何か?」
「いやなんでもないヨ!初めて見るが、さすがに大きいねぇ・・」
「そうですね。ですが長官。艦の側に来ると、その大きさが判りますよ。そうですね。目の前が・・・その・・一色しかない景色になるんです」
「どういうことかね?」
「時期にお解かりいただけるかと思います」
なるほど・・伊藤はそう思った。大和へ近づくにつれ、主砲が見えなくなり、艦橋が見えなくなり。上甲板が見えなくなり。目の前に近づいてくるのは「灰色の巨大な鉄の壁」だけになってきたのでした。それを凝視することは目が疲れるどころではなく。頭がくらくらするくらい、恐ろしくも灰色の壁だったのです。
「山のようではあるが・・そんなものでもない」
「長官、ここから舷梯です。森下参謀がお待ちです」
伊藤は、舷梯を上がります。どの艦より長い舷梯でした。
大和上甲板。二艦隊、大和士官達が全員整列している中、伊藤の着任式が行われました。
着任式とは言っても、それとした式次第があるわけでもなく。一通りの敬礼を終えますと、それだけです。伊藤は中央右舷側「長官公室」へ案内されました。
「ひろいなぁ。これが、君『大和ホテル』といわれる所以だね」
「自分はこれまでガンルームしか知りませんでした。この公室へは初めてであります。」
下士官は若かった。その目を見て伊藤はふと自身の息子を思い出すのでした。
「『横山大観』だね」
「その絵の事でありますか?」若い下士官はそう聞き返すのでした。
下士官の顔にははっきり「しまった!」と書いてあります。伊藤は「無理もない」と思うのでした。
椅子と大きな机が部屋の隅に。そして横山大観直筆の「富嶽図」広さは25畳もある長官公室。
「居心地がいいもの・・ではないね」
「かといって艦内をうろうろしては、兵達が緊張するであろうし。こまった」
伊藤は自身の居場所がないことに気づいたのでした。
「長官、ハイリマス!」
森下参謀長でした。
「森下君か、入り給え」
「どうです長官。大和は」
「どうですって、君は全てを知り尽くしているから何とも思わんのだろうが」
伊藤は困惑した表情でそう話すのでした。
森下は自身が大和艦長として着任した初日を思い出すのでした。
「森下君。司令部は確かに大和と共にあるのだが、大和の指揮そのものは、有賀君に任せておけばいいと思うのだが。そうでないと、大和の組織そのものが崩れてしまう。そうは思わんかね?」
「二艦隊司令部全員には今長官が申したことをそのまま話しております。大和各分隊は優秀な兵が揃っております。私は前任の艦長ではありましたが、百戦錬磨の猛者達です。司令部が現場でやることなんてないのが本当です。彼らには前線の経験があります。司令部はどちらかというと、前線経験者は殆どいないのが実情です。艦の事は彼らに任せて間違いないと思っております。この艦では司令部より大和乗組員の方が偉いのです」
森下は笑いながらこう話ました。
「では、長官、艦橋へ行きましょう」
「そうしよう」
伊藤は森下から大和の概要と二艦隊の現状をそこで聞くのでした。
昭和52年。4月7日。大和慰霊祭が靖国神社で開催されました。酔漢も出席しております。(中学3年時)
席順ですが、司令部遺族は末席だったのでした。
大和のご遺族の中には「司令部がいたから大和は前線へ向った」とお話される方も大勢おります。
この気持ちに配慮した席順となっていたのでした。
「戦艦大和及び第二艦隊慰霊際」
正式にはそう言った名のついた慰霊祭だったのでした。
「司令部は大和の運用について直接指示をするものではない」
これは伊藤整一司令長官の命令でもあったのでした。
司令部は大和の邪魔をしないような行動を取るよう、厳命されているのでした。
酔漢祖父は司令部通信。大和第十二分隊にはその長に「山口通信長」がいて、司令部参謀附きとして「小沢信彦通信参謀」がいるのでした。
(この通信参謀。酔漢祖父に取りましては海軍省時代からの直接上司になるのでした)現場の通信は「大和」、GFからの通信には「司令部」というように分割された役割になっておったと聞きました。
帰って来た人達が大変うらやましくも思ったそうです。
生き残った人達もそんな遺族の気持ちが痛い程解ったそうです。
1つの艦(ふね)が人の運命を大きく変える。否、戦争自体がすでに多くの人達の運命を変えている。そんな事実を今後語ります。
厳しかったろうなぁ…
厳しいと言うより辛かったのでは…と思います。
異動=命の分岐点
ヤマトから話は離れますが、今、自分の息子が戦争に取られることがあったら、お国の為に頑張れ!と出征させられるでしょうか?
自分には出来ないかもしれません。
いつの世も、親が子を思う気持ちは同じかと…
しかし、環境や権力者の一言で感情や命をコントロールされるのですから恐ろしいですね。
戦争の終盤は将棋の駒の使い捨てでした。
あの時代は当たり前で済んだのかもしれませんね。
隣国は徴兵制をとり、大国は職業軍人です。
戦争はまだ終わっていないことを表しているのではないでしょうか?
戦死者を無駄な死にしてはいけませんね。
あれ、表面だけ見ると確かに「板」だけど、
実際は何センチ角だかの角材なんだそうですね。
角材を鉄板の上に並べてボルトで留め、
角材と角材の間にはピッチを流し込むと聞きました。
普通、甲板に使う材木はチークです。
ところが長門の甲板では、台湾は阿里山の檜が使われました。
長門は呉で作られましたが、工廠にチーク材のストックがなく、
試験的に檜を使ったということです。
一方の陸奥は横須賀で作られました。
こちらにはチークがあったので、もちろんのこと甲板はチーク材です。
ところが檜はチークに較べて傷むのが早いそうでして・・・
長門と陸奥といえば甲板の材質だけでなくて、
艦首の形も違いました。
写真を見てみると、確かに長門の方が「オデコ」のような感じを受けます。
どちらも阿川弘之著『軍艦長門の生涯』に出ています。
大和と武蔵も、甲板の材質が違ったんですね。
小生はそちらの話を知りませんでした。
そういえば同じ軍艦でも、民間の造船所で作ったものの方が居住性がよかったそうです。
だとすれば武蔵の方が大和よりも幾分、住み心地がよかったのでしょうか。
司令部用の施設と通信設備には改良が認められるそうですが。
ですが、レイテでの戦闘が大和クルーの経験値を高めていたことは事実のようです。
あの激戦を経験された方は、「あの戦闘で帰って来た大和だから・・」とよくお話されていたようです。
吉祥寺も佳境ですね。
祖父が戦死した年齢より自分が年を取ってます。
考え深いものがございます。
長門と陸奥も同様であったとか。
是非コメント下さい。
さらに艦長の指揮下にあるものの非戦闘員である機関系統の乗組員
傍目には運命共同体的な集団でありながらの三重構造…
そのうえ戦闘員も非戦闘員も職業軍人と徴用兵士の二重構造…
それぞれ微妙に違いのある思いを乗せて戦場へと出航していったんでしょうね…
江田島も平成の大合併により「市」に昇格しました。
ずいぶんと時が過ぎ去ってしまったものです。
最近「わだつみ」の岩波文庫版を自分の本棚に見つけました。
自分の学生時代の感覚と重なる部分が多く、自分であったらばどう行動したのか、この年齢になっても、深く考え込んでしまいます。
「現場に口出しせず」。
なんだか酔漢さんの日頃の仕事の苦労が、垣間見えてきますよ。
チョコチョコお邪魔してはおったのですが、
紀要原稿の作成やらなにやらで、こちらもバタバタしておりました。
お爺様の話を聞いた大高さんの感想ですが、尤もなことだと思います。
戦時中に航空隊の看護科の下士官だった方の手記に出ていた話です。
その方の同僚で、こんな方がいました。
海軍の衛生兵を務めて除隊した後で、医専門に入学。船医の経験あり。
当然、医師の資格を持っています。
上官の軍医からも、「資格があるのだから、軍医になれ」と奨められていました。
しかし件の下士官は軍医を志願せず、衛生下士官のまま。
不思議に思った著者が尋ねると、返ってきた答えは・・・
「軍医になれば激戦地に回され、生還は期しがたい。たとえ下士官のままでも、自分は内地の航空隊にいたい」。
内地の航空隊にいたい・・・
とりもなおさず「戦場に出たくない」ということです。
自ら特攻兵器の図面を引き、
その兵器に乗って突入した軍人もいました。
しかし小生、この衛生下士官を卑怯とは思いません。
「生きたい」と思うのは、人間の本能です。
(それだけに、進んで死地に赴く人を「凄い」とも思うのですが)。
「お国のために死のう」と思う人もいれば、「生きたい」と思う人もいる・・・
それがありのままの姿ではないでしょうか。
「お国のために死ね」「生き恥をさらすな」・・・
日本の軍隊の話となると、こういった麺のみが強調されがちです。
しかし中野学校の教育はまったくその逆だったと聞きます。
また「死ぬばかりがお国のためではない」と部下を諭した指揮官の話を読んだこともあります。
(それを信じて生還した結末は、何ともやりきれぬ悲しいものでしたが)。
また戦争末期、特攻を頑として拒否し、通常攻撃に徹した飛行隊長もいました。
酔漢さんのお話とは関係ありませんが・・・
諏訪中学、現在の諏訪清陵高校ですね。
作家の新田次郎さんも、諏訪中の卒業生だったと思います。
以前のお話にも、おいおい投稿しようと思います。