大和艦首。
「艦を北へ。向けられないか!」
大和の最期、有賀艦長は茂木航海長へ伝えます。
ですが、大和の舵は最早効きません。
大和は左旋回を続けるばかりでした。
大和の沈没位置が確定し、その様子がNHKで映し出された映像は、父と観ました。
これまで、「軍艦大和戦闘詳報」他、その沈没位置は特定できず、「大和の位置」は不明のままだったのでした。
「海の墓標委員会」では、海底の大和の映像を確認すること。そして出来れば「大和引き揚げ」への可能性を探るものとして発足しております。
その映像を見ていた父。
「何だや、漁船だってすぐいけっとこさぁ沈んでんだっちゃ。親父、泳がんねぇがったのかや」
(東経128度08分08秒。北緯30度42分40秒。日本地形測)
いくらなんでも、それは無理なのです。
そんな事は、口に出した父も解っていると思います。
ですが、そう口に出さざるを得ない。
こうした心境だったと思いました。
酔漢も黙って見ておりました。
石田恒夫、第二艦隊元副官は、その晩年を、この大和探索と戦友遺族達への通信に尽力されておられました。
大和主計長、を歴任しておられました。
少しこわもてのおじいちゃん(というイメージ)ですが、実際はとても優しい方だと父から聞きました。
石田さんは、事ある度に私共へ書簡を送って下さり、現場へ行くことのできない遺族へその詳細を知らせてくださいました。
(寄付金の依頼もしっかり・・です。流石、経24期です・・・・)
この「大和探索」ですが、NHKがドキュメンタリーとして、放映しております。
この放映過程ですが、これまでのドキュメンタリーとは全く違った手法で撮影、構成されております。
半分ライブ映像なのです。
「半分」という表現があっているか、映像に携わる方からすれば、全く素人の思いつきによる言葉ですのでこれはご容赦願うところなのですが、当日の映像をその夜に放映するというものなのでした。
午前中から午後にかけての大和探索へと向かう「パイセスⅡ」。これを母船でもって解析する様子ほか、その数時間後、午後9時の放映に間に合うように編集しております。
撮影しながら編集、放映直前になって検証、再編集。
推察するに極めて時間の制約を受けたドキュメンタリーではなかったのかと。
現場へのスタッフの方々の努力が見えてきそうな緊張感が伝わってまいります。
ですから、この番組を拝見しますと、その質感に驚かされます。
所謂、「沈没船探索」としての科学の視点が大きく、視点の影にある、大和とその艦に関わった人々の様子が淡々と描かれております。
角川と大和会はその後、意見を分かち合う事となるのですが(石田さん書簡他より。当時大和会、→磯風会、二水戦等会がありました。他、石田さん一本でまとまっておりました)、こうした事を差し引きましても、皆、(スタッフを含めて)「大和を探索しそれを映像とする」という前代未聞の難題に挑んでいる。
こうした熱意は、物凄く伝わってまいります。
一部が公開されております。
改めてご紹介いたします。
2/5の映像には、「男たちの大和」のモデルとなられた、「内田 貢」さんが写っておられます。
名前の表記はございませんでしたが、(おそらく番組の最初の方で紹介があったとは思うのですが)副砲長「清水芳人」さんがインタビューを受けてます。
上記、4/5の終わりの方に「牧野茂」さんのインタビューがあります。
これが物凄く貴重な映像です。
嘗て「くだまき」では「牧野」さんの証言を多く掲載しております。
この僅かな映像なのですが、「建造」に携わった、それも設計主任である牧野さんの言葉には非常に重みがあります。
おそらく、この映像をみるまでは、これほどの被害とは想像しておられなかったのではないか。
こう考えます。
福井静男さん(信濃設計主任)がこの映像を見た際、「どうしたら・・こうなるのか。力学的に想定し得ない」と発言されておられます。
まさに、牧野さんも適切な言葉が思い浮かばなかったのではないか。
そう考えます。
そして、その全容が明らかになります。
(学研 歴史群像 1995年6月号 より抜粋)
大和の沈没地点が確定し、ご遺族、ご生還された方々が鎮魂の時間を迎える映像。
父は、自身の身体の都合により参加できなかったことを後悔しておりました。
この番組の公開されている部分は以上です。いずれも「You Tube」より共有いたしました。
再度、申し上げますが、この番組の視点はあくまで「科学」というもの。そして、その科学的な部分に、大和の顛末と遺族、ご生還された方々の思いを淡々と入れている。
それだけに、言葉が少ないものの、「海底での大和」が多くを語っているようでもあるのです。
「無残な姿」「悲惨な状況」どのように形容したらよいものか。
言葉が見つからない。
昭和60年、大和会よりその日誌の抜粋が父宛に届けられました。
石田恒夫さんよりのものです。
これをそのままご紹介いたします。
さて 昭和60年を顧みて
2月11日総会に始まり、4月1日大和神社、4月7日徳之島、呉海軍墓地、9月23日の秋季合同慰霊祭と例年どおりの事業に終わりました。
2月11日
総会は72名の出席者により疑似終了後18時30分まで懇親会と、盛大裡におわりました。議事中、次年度より総会日を気候の良い時期に開催する事に決定。
トラック島への旅行、高雄・台北旅行(台湾海軍幹部との「懇親の夕」)の計画は三か希望者数名となった為中止となりました。
4月1日
大和神社春季大祭後第二艦隊戦死者総員に対する慰霊祭が(3728柱が合祀さている)行われ、会長他15名が参列された。
4月7日
徳之島犬田布岬で伊仙町各関係のご協力により100名が参列された。午後1時までの強風雨の為、今年はじめて屋内で催された。式典終了後例年どおりの岬の突端で投花が行われ、再び屋内へ戻り地元の心づくしの直会に当時を偲びました。毎年のことながら宿への途中には関所があります。
故 松岡一夫 一曹(涼月操舵長)宅で「止マレ」を掛けられ、再度の直会とあいなった次第です。(「生前同様遠来の友を扱うように」と故松岡氏の遺言による由)茲に伊仙町の方々と、松岡家へお礼を申し上げます。
呉海軍墓地慰霊祭 当日は徳之島も本土も風雨がきつく、20数名が参列されて行われました。
英霊の涙が降ったのでしょう。
9月23日
秋季海軍合同慰霊祭(呉海軍墓地)高松宮、妃 両殿下をお迎えして、小雨の降る中で行われた。
130名の方が参列され合同慰霊祭終了後、戦艦大和戦死者之碑へ総員香線をもって御霊安らかなれと鎮魂の誠を捧げられた。記念の集合写真撮影につづいて近くのお寺の本堂へ会場を移し、細田一久広島県代表世話人の挨拶、石田会長の大和探索の報告後昼食を兼ねお供物をいただき懇談・直会を終わりました。
昭和60年戦艦大和会日誌より
昨年末来報道関係筋より「大和の引揚計画があるか」との照会に接するも、当会としては心当たりがなく「その様な計画事実なし」の返事をしていた。
6月14日 読売新聞社東京本社より、大和引揚計画が行われている旨の来電によるも半信半疑。
6月17日 角川書店より同伴につき6月20日当会訪問予定と来電。
6月20日 角川書店より来会。会長 清水芳人 元副砲長、大和会事務局の三者を同伴顧問への要請あり。昨年来の不可解なる来電の謎が判明した。本件、会長 元副砲長へ報告。(本日現在引揚内容不明)
6月21日 引揚計画内容の書類到着(趣意書なし)の時点で引揚内容が判明(←この部分、赤字訂正あり。修正しております)。該事業は大和会員のすべて知らざるにより顧問を辞退する。(本件に関しては大和会員ならびにご遺族総員により決定すべきで、数人の意見により決定すべきものではないと判断)
6月23日 夕刊フジ同計画を一面トップで報道。
6月24日 角川書店気付の海の墓標委員会は、各報道関係へ発表。角川書店から到着の引揚要旨書類各地区世話人へ発送。同件緊急討議の必要を認めたため会議へ出席の要請を各地区世話人へ依頼す。(この間、角川書店より数回協力方依頼の電話あり)
6月30日 大阪で世話人会開催。大和会より17名、辺見じゅん氏、角川書店小畑氏 計19名が出席、1時間半大和会のみで討議の結果、大和会が如何に非協力であっても彼等は引揚事業を行うと云う事を踏まえて、条件つきで協力する事と決定(協力13名、不賛成4名で、4名は各々ご遺族の心境を確認されての上の不賛成であった)つづいて辺見じゅん氏および角川書店 小畑氏へ、遺骨の引揚は止める事。ご遺族の募金はしないこと。などを回答した。
7月12日 同件探査船添乗のご遺族と元乗組員の人選依頼が角川書店よりあり。万が一の事故を考えてご遺族に人選は遠慮した。元乗組員については各地区世話人へ連絡したが、広島地区へ一任となり、広島地区世話人会により三笠逸男元副砲分隊先任下士官が推薦された。(会長は最後に事務局より添乗をお願いした。結局2名を大和会から派遣するという形になった)乗船者名は新聞報道のとおり(←ここでの掲載は控えますが、その各紙切り抜き記事は石田さんより父宛に送られております。機会があれば公開致します)。
7月29日 鹿児島県から読売新聞と角川書店小畑氏より探査のため同日出港する旨来電。(おそらく、この間にページがあるのですが、紛失しております。これは推察ですが)
8月4日 遺骨発見出来ず。遺品32点が引揚へられた。8月15日頃慰霊祭を行おうと思う旨来電(本件自然消滅となった)
8月6日 読売新聞東京本社、井上憲司記者来会 状況報告あり。(報道記事参照←切に抜きはやはり送られております。手元にございます。合わせて時期公開します)
8月末頃 東京を最初に遺品の展示を行いたいので協力方の要請が読売新聞東京本社事業開発部より来電。(その后来電なく不明)
12月上旬 遺品いまいづこ
引き揚げられた遺品については今日まで連絡なく不明。
この顛末については、報告がありませんが、編集後記を合わせてご紹介いたします。
(略)大和引揚が報道関係により公表された後、ご遺族、元乗組員の方々の意見、批判などが寄せられると思いましたが沈黙を守られたのは何故だったのでしょうか。
世話人会で出席者の意見が二分したのは最初より当会へは案内なきためで誠に残念に思われるが、委員長辺見じゅん氏はじめ各位の絶大なる努力に対しては頭の下がる思いがして改めてお礼申し上げる次第です。(以下、次年度総会案内、カレンダー案内←一般に知られる大和公試運転航行中の昭和16年12月の写真 他です。割愛致します)
マスコミに翻弄された、石田会長、三笠広島会世話人、清水元副砲長はじめ、大和会の皆様がその中でもご尽力され、また遺族が蚊帳の外にならないよう、事細かな情報を下さりました。
「本意ではない」
酔漢に今現在のような感覚と知識が当時ありますれば、物を申し上げるところです。が、お歴々の方達のご苦労を思います時、何とも言えない感情が蘇ります。
テレビ番組としては、素晴らしいドキュメンタリ-です。これは、今年今月に放映されました「巨大戦艦大和」よりはるかに訴えてくるものがございます。
ですが、角川の思惑、読売をはじめとする各紙の対応はいずれも「遺族ありき」ではなかった。
こう考える次第です。
「どうぞ、このままにしていただきたい」
牧野茂一號艦設計主任のこの言葉こそ。酔漢の本音なのでございます。
今年4月初め。
野津兵曹長ご遺族から我が家へ一本の日本酒が届きました。
「賀茂鶴」。
「酒保開ケ」は4月6日夜。
添えられた手紙。
「一緒に酒保開ケをいたしませんか」
同夜、大和酒保開ケと同じ時刻に賀茂鶴を愚息と共に頂きました。
投花と共に、海に酒を注ぐ清水元副砲長。
注いでいる酒は「賀茂鶴」でした。
「艦を北へ。向けられないか!」
大和の最期、有賀艦長は茂木航海長へ伝えます。
ですが、大和の舵は最早効きません。
大和は左旋回を続けるばかりでした。
大和の沈没位置が確定し、その様子がNHKで映し出された映像は、父と観ました。
これまで、「軍艦大和戦闘詳報」他、その沈没位置は特定できず、「大和の位置」は不明のままだったのでした。
「海の墓標委員会」では、海底の大和の映像を確認すること。そして出来れば「大和引き揚げ」への可能性を探るものとして発足しております。
その映像を見ていた父。
「何だや、漁船だってすぐいけっとこさぁ沈んでんだっちゃ。親父、泳がんねぇがったのかや」
(東経128度08分08秒。北緯30度42分40秒。日本地形測)
いくらなんでも、それは無理なのです。
そんな事は、口に出した父も解っていると思います。
ですが、そう口に出さざるを得ない。
こうした心境だったと思いました。
酔漢も黙って見ておりました。
石田恒夫、第二艦隊元副官は、その晩年を、この大和探索と戦友遺族達への通信に尽力されておられました。
大和主計長、を歴任しておられました。
少しこわもてのおじいちゃん(というイメージ)ですが、実際はとても優しい方だと父から聞きました。
石田さんは、事ある度に私共へ書簡を送って下さり、現場へ行くことのできない遺族へその詳細を知らせてくださいました。
(寄付金の依頼もしっかり・・です。流石、経24期です・・・・)
この「大和探索」ですが、NHKがドキュメンタリーとして、放映しております。
この放映過程ですが、これまでのドキュメンタリーとは全く違った手法で撮影、構成されております。
半分ライブ映像なのです。
「半分」という表現があっているか、映像に携わる方からすれば、全く素人の思いつきによる言葉ですのでこれはご容赦願うところなのですが、当日の映像をその夜に放映するというものなのでした。
午前中から午後にかけての大和探索へと向かう「パイセスⅡ」。これを母船でもって解析する様子ほか、その数時間後、午後9時の放映に間に合うように編集しております。
撮影しながら編集、放映直前になって検証、再編集。
推察するに極めて時間の制約を受けたドキュメンタリーではなかったのかと。
現場へのスタッフの方々の努力が見えてきそうな緊張感が伝わってまいります。
ですから、この番組を拝見しますと、その質感に驚かされます。
所謂、「沈没船探索」としての科学の視点が大きく、視点の影にある、大和とその艦に関わった人々の様子が淡々と描かれております。
角川と大和会はその後、意見を分かち合う事となるのですが(石田さん書簡他より。当時大和会、→磯風会、二水戦等会がありました。他、石田さん一本でまとまっておりました)、こうした事を差し引きましても、皆、(スタッフを含めて)「大和を探索しそれを映像とする」という前代未聞の難題に挑んでいる。
こうした熱意は、物凄く伝わってまいります。
一部が公開されております。
改めてご紹介いたします。
2/5の映像には、「男たちの大和」のモデルとなられた、「内田 貢」さんが写っておられます。
名前の表記はございませんでしたが、(おそらく番組の最初の方で紹介があったとは思うのですが)副砲長「清水芳人」さんがインタビューを受けてます。
上記、4/5の終わりの方に「牧野茂」さんのインタビューがあります。
これが物凄く貴重な映像です。
嘗て「くだまき」では「牧野」さんの証言を多く掲載しております。
この僅かな映像なのですが、「建造」に携わった、それも設計主任である牧野さんの言葉には非常に重みがあります。
おそらく、この映像をみるまでは、これほどの被害とは想像しておられなかったのではないか。
こう考えます。
福井静男さん(信濃設計主任)がこの映像を見た際、「どうしたら・・こうなるのか。力学的に想定し得ない」と発言されておられます。
まさに、牧野さんも適切な言葉が思い浮かばなかったのではないか。
そう考えます。
そして、その全容が明らかになります。
(学研 歴史群像 1995年6月号 より抜粋)
大和の沈没地点が確定し、ご遺族、ご生還された方々が鎮魂の時間を迎える映像。
父は、自身の身体の都合により参加できなかったことを後悔しておりました。
この番組の公開されている部分は以上です。いずれも「You Tube」より共有いたしました。
再度、申し上げますが、この番組の視点はあくまで「科学」というもの。そして、その科学的な部分に、大和の顛末と遺族、ご生還された方々の思いを淡々と入れている。
それだけに、言葉が少ないものの、「海底での大和」が多くを語っているようでもあるのです。
「無残な姿」「悲惨な状況」どのように形容したらよいものか。
言葉が見つからない。
昭和60年、大和会よりその日誌の抜粋が父宛に届けられました。
石田恒夫さんよりのものです。
これをそのままご紹介いたします。
さて 昭和60年を顧みて
2月11日総会に始まり、4月1日大和神社、4月7日徳之島、呉海軍墓地、9月23日の秋季合同慰霊祭と例年どおりの事業に終わりました。
2月11日
総会は72名の出席者により疑似終了後18時30分まで懇親会と、盛大裡におわりました。議事中、次年度より総会日を気候の良い時期に開催する事に決定。
トラック島への旅行、高雄・台北旅行(台湾海軍幹部との「懇親の夕」)の計画は三か希望者数名となった為中止となりました。
4月1日
大和神社春季大祭後第二艦隊戦死者総員に対する慰霊祭が(3728柱が合祀さている)行われ、会長他15名が参列された。
4月7日
徳之島犬田布岬で伊仙町各関係のご協力により100名が参列された。午後1時までの強風雨の為、今年はじめて屋内で催された。式典終了後例年どおりの岬の突端で投花が行われ、再び屋内へ戻り地元の心づくしの直会に当時を偲びました。毎年のことながら宿への途中には関所があります。
故 松岡一夫 一曹(涼月操舵長)宅で「止マレ」を掛けられ、再度の直会とあいなった次第です。(「生前同様遠来の友を扱うように」と故松岡氏の遺言による由)茲に伊仙町の方々と、松岡家へお礼を申し上げます。
呉海軍墓地慰霊祭 当日は徳之島も本土も風雨がきつく、20数名が参列されて行われました。
英霊の涙が降ったのでしょう。
9月23日
秋季海軍合同慰霊祭(呉海軍墓地)高松宮、妃 両殿下をお迎えして、小雨の降る中で行われた。
130名の方が参列され合同慰霊祭終了後、戦艦大和戦死者之碑へ総員香線をもって御霊安らかなれと鎮魂の誠を捧げられた。記念の集合写真撮影につづいて近くのお寺の本堂へ会場を移し、細田一久広島県代表世話人の挨拶、石田会長の大和探索の報告後昼食を兼ねお供物をいただき懇談・直会を終わりました。
昭和60年戦艦大和会日誌より
昨年末来報道関係筋より「大和の引揚計画があるか」との照会に接するも、当会としては心当たりがなく「その様な計画事実なし」の返事をしていた。
6月14日 読売新聞社東京本社より、大和引揚計画が行われている旨の来電によるも半信半疑。
6月17日 角川書店より同伴につき6月20日当会訪問予定と来電。
6月20日 角川書店より来会。会長 清水芳人 元副砲長、大和会事務局の三者を同伴顧問への要請あり。昨年来の不可解なる来電の謎が判明した。本件、会長 元副砲長へ報告。(本日現在引揚内容不明)
6月21日 引揚計画内容の書類到着(趣意書なし)の時点で引揚内容が判明(←この部分、赤字訂正あり。修正しております)。該事業は大和会員のすべて知らざるにより顧問を辞退する。(本件に関しては大和会員ならびにご遺族総員により決定すべきで、数人の意見により決定すべきものではないと判断)
6月23日 夕刊フジ同計画を一面トップで報道。
6月24日 角川書店気付の海の墓標委員会は、各報道関係へ発表。角川書店から到着の引揚要旨書類各地区世話人へ発送。同件緊急討議の必要を認めたため会議へ出席の要請を各地区世話人へ依頼す。(この間、角川書店より数回協力方依頼の電話あり)
6月30日 大阪で世話人会開催。大和会より17名、辺見じゅん氏、角川書店小畑氏 計19名が出席、1時間半大和会のみで討議の結果、大和会が如何に非協力であっても彼等は引揚事業を行うと云う事を踏まえて、条件つきで協力する事と決定(協力13名、不賛成4名で、4名は各々ご遺族の心境を確認されての上の不賛成であった)つづいて辺見じゅん氏および角川書店 小畑氏へ、遺骨の引揚は止める事。ご遺族の募金はしないこと。などを回答した。
7月12日 同件探査船添乗のご遺族と元乗組員の人選依頼が角川書店よりあり。万が一の事故を考えてご遺族に人選は遠慮した。元乗組員については各地区世話人へ連絡したが、広島地区へ一任となり、広島地区世話人会により三笠逸男元副砲分隊先任下士官が推薦された。(会長は最後に事務局より添乗をお願いした。結局2名を大和会から派遣するという形になった)乗船者名は新聞報道のとおり(←ここでの掲載は控えますが、その各紙切り抜き記事は石田さんより父宛に送られております。機会があれば公開致します)。
7月29日 鹿児島県から読売新聞と角川書店小畑氏より探査のため同日出港する旨来電。(おそらく、この間にページがあるのですが、紛失しております。これは推察ですが)
8月4日 遺骨発見出来ず。遺品32点が引揚へられた。8月15日頃慰霊祭を行おうと思う旨来電(本件自然消滅となった)
8月6日 読売新聞東京本社、井上憲司記者来会 状況報告あり。(報道記事参照←切に抜きはやはり送られております。手元にございます。合わせて時期公開します)
8月末頃 東京を最初に遺品の展示を行いたいので協力方の要請が読売新聞東京本社事業開発部より来電。(その后来電なく不明)
12月上旬 遺品いまいづこ
引き揚げられた遺品については今日まで連絡なく不明。
この顛末については、報告がありませんが、編集後記を合わせてご紹介いたします。
(略)大和引揚が報道関係により公表された後、ご遺族、元乗組員の方々の意見、批判などが寄せられると思いましたが沈黙を守られたのは何故だったのでしょうか。
世話人会で出席者の意見が二分したのは最初より当会へは案内なきためで誠に残念に思われるが、委員長辺見じゅん氏はじめ各位の絶大なる努力に対しては頭の下がる思いがして改めてお礼申し上げる次第です。(以下、次年度総会案内、カレンダー案内←一般に知られる大和公試運転航行中の昭和16年12月の写真 他です。割愛致します)
マスコミに翻弄された、石田会長、三笠広島会世話人、清水元副砲長はじめ、大和会の皆様がその中でもご尽力され、また遺族が蚊帳の外にならないよう、事細かな情報を下さりました。
「本意ではない」
酔漢に今現在のような感覚と知識が当時ありますれば、物を申し上げるところです。が、お歴々の方達のご苦労を思います時、何とも言えない感情が蘇ります。
テレビ番組としては、素晴らしいドキュメンタリ-です。これは、今年今月に放映されました「巨大戦艦大和」よりはるかに訴えてくるものがございます。
ですが、角川の思惑、読売をはじめとする各紙の対応はいずれも「遺族ありき」ではなかった。
こう考える次第です。
「どうぞ、このままにしていただきたい」
牧野茂一號艦設計主任のこの言葉こそ。酔漢の本音なのでございます。
今年4月初め。
野津兵曹長ご遺族から我が家へ一本の日本酒が届きました。
「賀茂鶴」。
「酒保開ケ」は4月6日夜。
添えられた手紙。
「一緒に酒保開ケをいたしませんか」
同夜、大和酒保開ケと同じ時刻に賀茂鶴を愚息と共に頂きました。
投花と共に、海に酒を注ぐ清水元副砲長。
注いでいる酒は「賀茂鶴」でした。
賀茂鶴を大和模型の前に?
今年は、野津様のご厚意により「酒保開ケ」をいたしました。士官は「千福」だと聞きましたが、酒保で求められるのはやはり「賀茂鶴」ですよね。
私も石田さんにお会いしたことがございます。
いつも笑顔のおじいちゃんでした。(私が子供だったからかもしれませんが。
>生還された元乗組員の方たちはどこか「負い目のようなものを持って生きておられる。<
そんな事は無いんです。と、これから語って行こうかと思っております。
ただ、残された御遺族や生還された元乗組員の方のさまざまな思いは未来永劫語り継ぎ残すべきものだと思っています。
内田貢さんのことは辺見じゅんさんの「男たちの大和」の本で知りその壮絶な戦いぶりとすさまじいけがの様子、そして戦後の後遺症との戦いに絶句しました。
また小笠原愛子さん、ご主人の嘉明さんとの浅くも充実した新婚の日々も辺見さんの本で読み、小笠原兵曹長のご遺書を遊就館で拝読し感動した次第です。
生還された元乗組員の方たちはどこか「負い目のようなものを持って生きておられる。
それを強く感じました。
うちにも賀茂鶴があります、年に一度4月6日に私の『大和』の模型の前にお供えしています。
石田副官はなんだか「怖い方」というイメージがあったんですが、そうではないんですね^^。