酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 酔漢的史観 一

2010-01-28 13:52:14 | 大和を語る
大和の顛末を描いた作品は数多くございます。最近では「男たちの大和」が有名ではございますが、嘗てテレビの特集で作られました市川昆監督によります「戦艦大和」がございました。この番組。原作を「吉田 満 著 戦艦大和ノ最期」といたしております。
主人公 電測士「吉田満」を「中井貴一」が、艦長「有賀幸作」を「上条恒彦」を。第二艦隊司令長官「伊藤整一」を「仲代達也」。副長「能村次郎」を「前田吟」。これから先に語りますが「中谷邦夫中尉」を「近藤真彦」がそれぞれ演じておられました。
その中で連合艦隊先任参謀「神 重徳」(かみ しげのり)を「根津 甚八」が演じておりますが、この台詞を一部ご紹介いたします。
場所は連合艦隊司令部です。

「このままでは大和が、かわいそうです」

3月29日。前回大和以下が三田尻沖へ出港いたしましたお話を語りました。
その日、彼らとの思いの外で、ある重大な出来事が起こっております。

軍令部総長「及川古志郎大将」(開戦直前の海軍大臣。元横須賀鎮守府司令官)は宮中へ参内いたします。戦況報告ならびに今後の作戦「天一号作戦」の説明を大元帥、天皇陛下へ説明する為でございます。
一通りの説明が済んだ後、陛下はこの様なお言葉をかけております。
「天一号作戦は、帝国安危の決することであり、挙軍奮闘をもって目標達成に遺憾なきように」と。
「航空機による特攻攻撃を出来る限り激しくやります」
と返答した及川大将です。
その直後、陛下はこう話しておられます。
「海軍にはもう艦はないのか。水上部隊はもうないのか」
及川はその返答をせず、その場を去ります。

及川の胸の内を察すると、このようになるのではないかと考えます。
「『ない』と言えば『嘘』なる。現に第二艦隊は艦隊としての体はなしている。しかし、作戦として使うとなると丸裸の艦隊が前線へ向う事がどういう結果になるか知れている。だが、燃料があるとすれば、大元帥閣下の言葉通りであろう。航空機のみ特攻作戦を行い、水上部隊が陸上でそのままの状態であってよいものだろうか」

及川はそのまま「水上部隊」の作戦を見直すよう豊田副武(そえむ)連合艦隊司令長官に伝えます。
「軍人が大元帥の言葉に対しどのように行動しなければならないか」
そうした視点から見れば軍令部次長 小沢冶三郎中将、大前敏一参謀も反対するわけには参りません。

豊田はGF司令長官名で「1922 GF電」を発信いたします。
「畏レ多キ御言葉ヲ拝シ、恐懼ニ堪ヘズ、臣副武以下全将兵殊死奮戦誓ツテ聖虚ヲ安ンジ奉リ、靭強執拗飽ク迄天一号作戦ノ完遂ヲ期スベキ」

九州鹿屋基地。宇垣纏中将は第五航空艦隊司令長官として陣頭指揮を執っております。
その「戦藻禄」は度々語っておりますが、その内容についてはこう記されております。
「抑々茲に至れる主因は軍令部総長奉上の際航空部隊丈の総攻撃なるやの御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ」とございます。

この天皇陛下の御言葉が発端となり大和以下が沖縄へ出撃する背景になったことは、突き詰めればそうではありますが、ここに日本の軍組織の幼稚さが見え隠れもいたします。
この場に及んで(昭和20年3月29日)大元帥の一言でもって「第二艦隊の使い道」を討議始めるわけですが、この状態では「連合艦隊」や「軍令部」の存在意義が大きく問われてもいたしかたないのです。存在そのものを自ら否定することと同じだと考えます。
先に酔漢の結論を申し上げますれば。
「特攻さきがけ論」だけでは「第二艦隊の沖縄出撃」には説明がつかないのです。

岡山大学文学部紀要 「特攻作戦の人間学 戦艦大和の場合」藤中正義先生 1991年。
上記を抜粋いたしますと。
「天皇という究極的権威への親近性に優越意識と、そうした権威の精神的重みをひしひしと感じている小心な臣下に過ぎない(及川他)。専門軍人と立場から最良と信じる戦略を「陛下に堂々と披瀝する習性」など、期待するのが無理なのだ。だから天皇の御下問は彼らに取っては単なる質問ではありえない。御下問に含まれる全ての潜在的意味を吟味し御下問の真意を把握し、適切な対応をしなくてはならない。及川軍令部総長と海軍首脳部は『海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はにのか』という御下問を深読みし『あるなら使ってはどうか』という(間接的・暗示的な命令)を発見する。連日出動してゆく特攻機群にくらべて、空しく係留・温存されている海上部隊は顔向けができない。
天皇に対しても、特攻機に対しても面子まるつぶれではないか。間接的・暗示的な命令は『あるのに何故使わないのか』という叱正と解され恐懼の感情を誘発し、海上部隊活用への焦りを生む」と。また、「海軍首脳部の職業的優越意識は、天皇という究極的権威への接近によって成立している」と論じておられます。
(引用 先に紹介。東海大学鳥飼研究室HPより)

軍の命令系統を考えますと、この判断自体は当時の海軍が取らなければならない「行動」であることは確かなのです。
「海軍にはもう艦はないのか」=「大和以下沖縄出撃」を決意したGF司令長官の立場では、これは臣下としては取らざるを得ない行動だったと言えます。
このことから
「大和以下沖縄出撃」=「特攻さきがけ」左記の図式ですと、軍命令系統上の天皇の統帥権を「ないがしろにしている」図式だと酔漢は結論づけております。

「特攻さきがけ」だけで大和以下が沖縄へ出撃した理由ではない事を知ります。しかしながら、この後、伊藤整一司令長官と連合艦隊参謀長草鹿との会談の中で「一億総特攻のさきがけとなってもらいたい」との参謀長の発言は、伊藤司令長官を説得・納得させる為のものであったともありますが、そう捉えますと(沖縄出撃に納得せず、命令が出たことに対して、出撃拒否もあり得るような描き方。また、この言葉で伊藤司令長官が全てに納得し沖縄出撃を決断したとの捉え方)軍紀という意味では錯乱状態であると説明せねばなりません。しかし、昭和20年であれ、そこまで海軍の軍紀が乱れておったとは考えておりません。
酔漢は同じ発言があったにせよ、そうした「捉え方」を致しておりません。

もう一度 宇垣纏中将の「戦藻禄」を見て見ましょう。
「帷幄にありて籌劃補翼の任にある総長の責任蓋し軽しとせざるなり」
と厳しい口調で書き留めております。

3月29日。この一連の出来事が全てを物語っているように言えます。
そして、この話を聞きましたある先任参謀は
「わが意を得たり!」
と、そう喜んでおるのでした。
(本当にそうだと考えております)

次回、続きます。

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7 コメント

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ありゃ (ひー)
2010-02-01 20:05:25
コメントを携帯からしたのですが失敗したようです。
次回にします。
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丹治様へ (酔漢です)
2010-02-01 18:52:51
今後語ろうと考えております。
どうも、責任を「神」へ押し付けているようにも感じます。
ですが最終的に大和沖縄突入を反対した者はおりません。
海軍幹部の戦後の責任の取り方を今自身の中で検証しております。陸軍とは違った感じです。
まだ結論を固めておりませんが。
神重徳この人本当に戦艦の構造を知っておったのでしょうか。
陸に乗り上げた途端、主砲が打てない事は常識だと思うのですが、本当に考えていたとすると、おそろしい感じも致します。
「それではよくわかった」
伊藤司令長官の発言は次々回に語ろうと考えております。
「さきがけ論」への反論を深めようとも考えております。この言葉だけで大和は沖縄へ向っておりません。確信いたしました。
またのご教授、よろしくお願い申し上げます。
返信する
クロンシュタット様へ (酔漢です )
2010-02-01 18:45:35
慰霊祭の席上。毎年「天皇陛下」を。と話される方がおられました。(父から聞きました)実際「宮内庁」へは打診したとも。
ですが、どうでしょう。
質問したいことは山程あったのは事実ですが、今となっては歴史の中ですね。
判断が難しいところです。
返信する
トム様へ (酔漢です )
2010-02-01 18:41:47
トム様のブログに以前大和戦闘中の写真がありましたね。その記事に「徳山の話」がございました。意外に知られていない歴史です。
呉から即、沖縄と思っていらっしゃる方が多い事に気付きました。映画でもそんな感じの描き方でしたし。
大嘘ですか?そんな感じですね。
新聞記事を検証しております。
返信する
それならばよく分った (丹治)
2010-02-01 10:56:11
「クリントン国務長官はこちらの立場に理解を示してくれた」という趣旨の発言を鳩山首相が行ないましたね。
あの「理解」って、どういう英語だったのだろう・・・そう思っていました。

せいぜいが I see か I understandでしょう。
少なくともI agreeではなかったと思います。

日本語でも、
むっとした表情で「よく分りました」と言えば賛成の意思表示ではないはずです。

それではたと思い当ったのが、草鹿GF参謀長の発言に対する伊藤二艦隊長官の反応です。

GFの草鹿参謀長と三上作戦参謀(だったでしょうか)を迎えての二艦隊作戦会議は大荒れだったと聞いております。

「GF長官は穴に籠っていないで出て来い」と言ったのは、小滝司令だったでしょうか。
「矢矧を駆って通商破壊戦をやりたい」と言ったのは原艦長だったでしょうか。
それとも古村司令官だったでしょうか。

「一億総特攻の先駆けになって欲しい」
という草鹿参謀長の発言に、
「それならばよく分った」という
伊藤長官の返事。
この一言で、並みいる二水戦幹部の反論がピタリと止んだのでしたね。

しかしこの反応ですが、
「一億総特攻の先駆け」になることを受入れたのでしょうか。

酔漢さんも書いていましたが、
伊藤長官も有賀艦長も
「いかに大和を有効に使うか」ということに腐心していましたね。
そして今回のお話にもありますが、
大和の沖縄出撃は、GFの考えが二転三転して決りました。

「それならばよく分った」とは、
「GF司令部の意図はよく分った」、或いは
「GFがそこまで言うなら反論はしない」だったのではないでしょうか。
少なくとも
「二艦隊が一億総特攻の先駆けになることを受入れる」
ということではないような気がするのです。

それが証拠に
「自分も連れて行ってくれ」というGF参謀の申し出を、
二艦隊の山本先任参謀は峻拒していますね。

軍隊である以上、命令拒否はできません。
「今をおいて桜花を使う時はない」
という上層うぶの発言に、
「湊川だよ」
と言って出撃した神雷部隊指揮官の野中少佐。

どちらにしても、許される範囲での精一杯の抵抗だったと思うのです。

ところでGFの神先任参謀ですが、
「神がかりの神さん」と言われていたとか。
この神さん、サイパン戦の時に、
「自分を戦艦の艦長に任命して欲しい。サイパンに乗り上げて陸上砲台になる」
と意見具申しています。
これが大和を沖縄に出撃させる発想の原型になっているのではないでしょうか。

よく言えば、「攻撃精神旺盛」。
しかし些か周囲の状況が見えない方だったかとも思います。

この神さん、
第一次ソロモン海戦では八艦隊の先任参謀。
キスカ撤収作戦の時には五艦隊所属の木曾艦長でした。

これは余計なことですが、
山本GF司令部の黒島先任参謀(実は黒島「仙人」参謀)、
陸軍の作戦の神様・辻政信(陰では「作戦の貧乏神」と呼ばれていたとか)・・・
当時の軍隊は、こういう「変った人」が
重く用いられる面があったのでしょうか。





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小売業の氷河時代は恐ろしさを感じます (クロンシュタット)
2010-01-30 06:09:55
及川大将や嶋田大将の顔写真を観るにつけ、こんな男たちではいかんともしがたいと感じてしまいます。
統帥権という言葉も、その権力を実際に掌握し運用していたのはそういった軍人たちでした。
かといって、天皇が情報を遮断された操り人形であった、それ故戦争責任は薄いのだとういう論調にも抵抗があります。
いわゆる側近からの情報提供で、天皇は戦況を十分に承知していたように思います。
それでも、それであっても天皇は、根底においては戦争推進論者であったような印象を持ちます。
天皇としての立場やその人間形成過程、さらに突っ込んで言えば世界観や歴史観、国内外の情勢認識・・・さまざまな要因が錯綜してしまいます。
けれども彼がいずれかの戦局で「もういい」と発言してさえおれば・・・歴史のイフではあるのですが。
返信する
三田尻沖 (トムくん)
2010-01-28 21:24:25
三田尻というのは、近くです。
もはや、大和が三田尻沖から出撃
していったということを知る人も
ほとんどいなく寂しい限りです。
歴史を伝承する作業は怠っては
いけないのですね。
しかし、大嘘を伝承する国もあるので
困ったものです。
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