♪こめはぁ天下のささにしきぃぃ ダンダンズビズビズバダ♪
「ああ宮城県」の歌詞の一部です。
「宮城県産ササニシキ」。
このお米のお話しを先にしなくてはならない。
こう考えました。
この、「美味しんぼ 宮城編」にも、そこに触れております。
仙台平野は、これも皆様ご存知かと思いますが、雄大な「北上川」のより作られた地形です。
大きな川が氾濫を起こす度、その地形を変形させて、そうして、肥沃な土地を形成させていく。
これだけの言葉では、かなり乱暴な表現ではございますが、大方そうであろうと考えます。
伊達藩は、この川をコントロールしようと政策を進めていきます。
開墾に始まり、河川の整備、そうして、米作りの環境を整えていきました。
結果、62万石とも言われる(この数値の検証につきましては、ここでは語るところといたしません)米どころとなってまいります。
しかしながら、その年貢徴収につきましては、独特の制度もございます。
「米の藩による買い取り制度」です。
「江戸の米の三分の一は伊達の米」
この言葉は誇張ではありません。
しかし、当時の「本石米」(→「本穀米」が江戸時代の帳簿上「本石米」と記帳されることが多くなっています。)
江戸でも格付けは「中の上」であって、全体の約4番目あたり。
決して、「上質で旨い米」ではありませんでした。
仙台藩は、納屋米(生産後、すぐに、廻船で米を運搬させていた為に、保管される米が非常に少ないのも特徴)の移動が少ないのも特徴です。
そして、その余剰をすぐさま把握でき、貢租米徴収後の余剰米を強制的に買い付けることが可能となります。
藩財政は、逼迫している状況(何せ支出がべらぼうな金額であるわけで・・)ですから、藩はこれを強制的に買い上げ、転売し収入を得るようになりました。
これは「藩祖 正宗公」の発案とされております。
「御祖法の御買い米」とし、これがそのまま「買い取り」となって、藩庁に買米本金そ称する基金を蓄えます。春ごろ、農民の望みによって、無利息前金を貸下げ、農事の使途のみに使う事を許可させて、秋の収穫時期になるとその貸付金の相当する米を収納(時価評価)するのでした。
この制度は、4代綱村公(1675年)が「御先代の御非分」=「理屈に合わぬ道理的政策」とされ、廃止となりますが、制度自体は、幕末まで形を変えて続いて行きます。
この制度ですが、農民が自分で口にする米をかなり少なくさせております。
ですが「米偏重」には、変わりなく、他の作物も作るには作ってはおるのですが、藩政によりそれも発達することはなかったのです。
司馬遼太郎氏は、「街道を行く 奥州」に於いて、「仙台藩(宮城)は米が豊富であったから、それに甘えてしまい、他の産業を遅らせた。それは文化にも表れている」と論じておられるが、これはいささか、極論にすぎないか。これは酔漢の私見です。
さて、話しは少しばかり固くなりましたが、「美味しんぼ」では「山岡」が伊達子孫の話しとして、「宮城の米の歴史」を語らせております。
これが、その部分ですが、詳細が省かれておりましたので、少しばかり解説させて頂きました。
本題にすこし戻ります。
「究極のメニュー」と「至高のメニュー」の対決ですから、「至高のメニュー」側「海原雄山」は、また別の視点でもって、仙台藩の米の歴史を語り始めます。
上記のように、「天明飢饉が、宮城の料理の発展を遅らせた」。こう話しております。
実際は、どうであったのか。これを見ていく必要があると考えました。
故郷の秋を思えば 長月の、照るかけさへも 見る空そなき 伊達十ニ代藩主 斉邦
参勤交代で江戸滞在中の斉邦が、仙台の米の作況を心配して詠んだ句です。
「凶作により夜な夜な寝る事も出来ない」こうした意味です。
実際、天保7年(1836年)の飢饉の方が宮城全体では大きな被害を出しております。
この年は記録に残された中でも最大クラスの冷害でした。
現在の数値に置き換えますと、「米の作況指数は12」。平年の約10%弱でしか収穫出来ていない状況です。
「地表面に近い大気の科学」(東京大学出版会)、図9.8 より転載
その後、平成の飢饉まだ遡ったグラフが上記のものです。
如何に、天保飢饉が大きい被害をもたらしたかが分ります。
米が大量に不足する深刻な事態を招いた。仙台藩士・五十嵐荘左衛門が記録した「飢饉録」によると、郡村の留穀によって仙台城下の米が不足したため、安倍は米の払い下げを実施したのだが、価格が市中の価格よりも高く供給量も不足した。また、安倍が私欲のため不正な廻米を行ったという噂が広がり、天明3年9月19日に安倍の屋敷が城下の住民によって打ち壊される騒動が発生した(柴田町史編さん委員会編1989:863)。この騒動の後、仙台藩領の飢饉被害は深刻化し、餓死者や疫病による死者が大量に発生した。米価は天明4年5月をピークとして高騰し続け、死者もその時期に米価は天明4年5月をピークとして高騰し続け、死者もその時期にピークに達した。穀物の代用食として、藁を粉にして餅にした藁餅が食されたとい
う。胆沢町の村では、1905(明治38)年に発生した冷害による大凶作時においても、藁餅や家畜用の大根干葉が食されたという記録が残されている
天明飢饉期・東北農村の人口変動と死亡構造
-仙台領3ヶ村の事例-
山 本 起世子氏論文より抜粋
この数値と状況を見ると「海原雄山」の語ったところは的を得ているといえると考えます。
ただし、飢饉直接的な要因、例えば餓死者というものは、天保の頃に顕著であって、天明の飢饉に於いての宮城県農村(若柳→当時の下柳)の死者別数値を見ると、4月~7月に集中していると、山本氏は論じておられ、その原因を「疫病による集団感染」と推察されておられます。
いずれにしろ、飢饉によって、宮城県内では多くの死者を出していることには変わりありません。
「海原雄山」のいう推察論「開藩以来、発展し続けた仙台の食文化が一機に崩れ落ちた」こうした見方は、あり得る。こう考えます。
しかし、ながら「米どころ」宮城は、その生産量の多さで、日本の食糧事情を支えていく。これには変わりありません。
この碑は、現大崎市に門沢地区の開墾の碑です。
仙台平野の北部に位置し、山形県の県境にも近い同地区。山を切り開き、土地を耕し、県内屈指の米農家が育って行きます。
この碑に「曽祖父」の名が刻まれております。母方祖母の祖父と父。所謂「地主」という立場でした。
自費で水道を作り、川をせき止め、開墾に汗を流した。
そうした苦労が「米、宮城」を支えてきた農家の努力なのだろうと、考えます。
宮城米=ササニシキ。
ですが、この品種が全国的に評価されるまで、「宮城米=味が良い」という事にはなりません。
ササニシキ。この品種を少し整理してまいりましょう。
昭和38年(1963年)古川農業試験場で「ハツニシキ」と「ササシグレ」との交配で誕生した品種です。
僕らの世代と変わらない年齢なんですね。
全国的な評価を得ます。
この米の特徴は「アミロース含有量」が多いという事です。
「すし酢と合わせても、粘り気がべとつかない」これがこの米の特徴です。
また個別に語りますが、「宮城で鮨屋が多いのは、このササニシキが一役買っているのではないか」こうした推察を持っております。
最近のラジオ番組で「永六輔」氏が「ササニシキが軟質米で『鮨やおこわ』に会っていて、コシヒカリが硬質米で『弁当には最適』」こう話しておりました。
これは、米区分では、間違いの説明で、もともと天日干しの時代に東北の米は、乾燥状態がそうでもなくて、他地方の米よりはやわらかい新米となる。
こうした意味から、「硬質米」「軟質米」と市場では言われるようになった。
このような背景があるわけです。
この永六輔氏の言葉を借りるなら「アミロース含有量」に置き換えれば合点がいくお話しになりますが。
この「美味しんぼ」では、数々の米レシピが登場致しております。
「究極のメニュー」からは「どじょうの蒲焼丼」そして「至高のメニュー」からは「かて飯」→「まぜごはん」として。
「ずんだ飯」「ワカメ飯」「大根飯」が紹介されます。そしてその「至高のかて飯」として紹介されましたのが、下記のページです。
「阿武隈川で捕れたもずく蟹を使った蟹飯」と「フカヒレ飯」です。
いずれも、私は食したことがありません。
これらの紹介は、単に具材がどうとかこうとかに終始しております。
しかし、「酔漢のメニュー」としては、「ここに使っていいる米の氏素性を明かす必要があるのではないか」こう考えました。
「ササニシキ」の紹介も、昭和38年の品種改良の事のみ紹介されているだけです。
「ササニシキ」が、具材と会う品種。「鮨」であるとか「寿司」や「炊き込みご飯」「かて飯」に最適なのは明らかなのに、その詳細を知らしていない。
「宮城を語るには片手落ち」ではないのだろうか。
平成の飢饉以降、ササニシキの作付面積が大幅に減少しております。
「いもち病」に非常に弱く、冷害にも大きく左右される。手間暇がかかる。こうした理由が挙げられます。
ですが、ササニシキが「単に、鮨職人の為の米」だけしか価値がないのでしょうか。
そうではない。「酔漢のメニュー」ではこの「宮城県産ササニシキ」に頑としてこだわって行きます。
確かに、「ただの弁当ごはん」では「コシヒカリ」に負けてしまう。ですが、宮城の食材を生かす為にはどうしても必要な品種と考えます。
「かて飯」海原雄山は、「もずく蟹」「フカヒレ」を使って作りました。
「酔漢のメニュー」では、このような珍しい食材を使うものではありません。
ですが、酔漢的に言えば「陸前、三大海鮮ごはん」をご紹介していきたいと思います。
その内の一つは、皆様も良くご存知の「ごはん」なのですが、「宮城のものでないと、本当にまずくなるだけ」というご飯なのです。
その訳も含めて、今後、お話しを語ります。
♪こめぇはぁぁ天下のささにしきぃぃ ダンダンズビズビズバダ♪
「ああ宮城県」の歌詞の一部です。
「宮城県産ササニシキ」。
このお米のお話しを先にしなくてはならない。
こう考えました。
この、「美味しんぼ 宮城編」にも、そこに触れております。
仙台平野は、これも皆様ご存知かと思いますが、雄大な「北上川」のより作られた地形です。
大きな川が氾濫を起こす度、その地形を変形させて、そうして、肥沃な土地を形成させていく。
これだけの言葉では、かなり乱暴な表現ではございますが、大方そうであろうと考えます。
伊達藩は、この川をコントロールしようと政策を進めていきます。
開墾に始まり、河川の整備、そうして、米作りの環境を整えていきました。
結果、62万石とも言われる(この数値の検証につきましては、ここでは語るところといたしません)米どころとなってまいります。
しかしながら、その年貢徴収につきましては、独特の制度もございます。
「米の藩による買い取り制度」です。
「江戸の米の三分の一は伊達の米」
この言葉は誇張ではありません。
しかし、当時の「本石米」(→「本穀米」が江戸時代の帳簿上「本石米」と記帳されることが多くなっています。)
江戸でも格付けは「中の上」であって、全体の約4番目あたり。
決して、「上質で旨い米」ではありませんでした。
仙台藩は、納屋米(生産後、すぐに、廻船で米を運搬させていた為に、保管される米が非常に少ないのも特徴)の移動が少ないのも特徴です。
そして、その余剰をすぐさま把握でき、貢租米徴収後の余剰米を強制的に買い付けることが可能となります。
藩財政は、逼迫している状況(何せ支出がべらぼうな金額であるわけで・・)ですから、藩はこれを強制的に買い上げ、転売し収入を得るようになりました。
これは「藩祖 正宗公」の発案とされております。
「御祖法の御買い米」とし、これがそのまま「買い取り」となって、藩庁に買米本金そ称する基金を蓄えます。春ごろ、農民の望みによって、無利息前金を貸下げ、農事の使途のみに使う事を許可させて、秋の収穫時期になるとその貸付金の相当する米を収納(時価評価)するのでした。
この制度は、4代綱村公(1675年)が「御先代の御非分」=「理屈に合わぬ道理的政策」とされ、廃止となりますが、制度自体は、幕末まで形を変えて続いて行きます。
この制度ですが、農民が自分で口にする米をかなり少なくさせております。
ですが「米偏重」には、変わりなく、他の作物も作るには作ってはおるのですが、藩政によりそれも発達することはなかったのです。
司馬遼太郎氏は、「街道を行く 奥州」に於いて、「仙台藩(宮城)は米が豊富であったから、それに甘えてしまい、他の産業を遅らせた。それは文化にも表れている」と論じておられるが、これはいささか、極論にすぎないか。これは酔漢の私見です。
さて、話しは少しばかり固くなりましたが、「美味しんぼ」では「山岡」が伊達子孫の話しとして、「宮城の米の歴史」を語らせております。
これが、その部分ですが、詳細が省かれておりましたので、少しばかり解説させて頂きました。
本題にすこし戻ります。
「究極のメニュー」と「至高のメニュー」の対決ですから、「至高のメニュー」側「海原雄山」は、また別の視点でもって、仙台藩の米の歴史を語り始めます。
上記のように、「天明飢饉が、宮城の料理の発展を遅らせた」。こう話しております。
実際は、どうであったのか。これを見ていく必要があると考えました。
故郷の秋を思えば 長月の、照るかけさへも 見る空そなき 伊達十ニ代藩主 斉邦
参勤交代で江戸滞在中の斉邦が、仙台の米の作況を心配して詠んだ句です。
「凶作により夜な夜な寝る事も出来ない」こうした意味です。
実際、天保7年(1836年)の飢饉の方が宮城全体では大きな被害を出しております。
この年は記録に残された中でも最大クラスの冷害でした。
現在の数値に置き換えますと、「米の作況指数は12」。平年の約10%弱でしか収穫出来ていない状況です。
「地表面に近い大気の科学」(東京大学出版会)、図9.8 より転載
その後、平成の飢饉まだ遡ったグラフが上記のものです。
如何に、天保飢饉が大きい被害をもたらしたかが分ります。
米が大量に不足する深刻な事態を招いた。仙台藩士・五十嵐荘左衛門が記録した「飢饉録」によると、郡村の留穀によって仙台城下の米が不足したため、安倍は米の払い下げを実施したのだが、価格が市中の価格よりも高く供給量も不足した。また、安倍が私欲のため不正な廻米を行ったという噂が広がり、天明3年9月19日に安倍の屋敷が城下の住民によって打ち壊される騒動が発生した(柴田町史編さん委員会編1989:863)。この騒動の後、仙台藩領の飢饉被害は深刻化し、餓死者や疫病による死者が大量に発生した。米価は天明4年5月をピークとして高騰し続け、死者もその時期に米価は天明4年5月をピークとして高騰し続け、死者もその時期にピークに達した。穀物の代用食として、藁を粉にして餅にした藁餅が食されたとい
う。胆沢町の村では、1905(明治38)年に発生した冷害による大凶作時においても、藁餅や家畜用の大根干葉が食されたという記録が残されている
天明飢饉期・東北農村の人口変動と死亡構造
-仙台領3ヶ村の事例-
山 本 起世子氏論文より抜粋
この数値と状況を見ると「海原雄山」の語ったところは的を得ているといえると考えます。
ただし、飢饉直接的な要因、例えば餓死者というものは、天保の頃に顕著であって、天明の飢饉に於いての宮城県農村(若柳→当時の下柳)の死者別数値を見ると、4月~7月に集中していると、山本氏は論じておられ、その原因を「疫病による集団感染」と推察されておられます。
いずれにしろ、飢饉によって、宮城県内では多くの死者を出していることには変わりありません。
「海原雄山」のいう推察論「開藩以来、発展し続けた仙台の食文化が一機に崩れ落ちた」こうした見方は、あり得る。こう考えます。
しかし、ながら「米どころ」宮城は、その生産量の多さで、日本の食糧事情を支えていく。これには変わりありません。
この碑は、現大崎市に門沢地区の開墾の碑です。
仙台平野の北部に位置し、山形県の県境にも近い同地区。山を切り開き、土地を耕し、県内屈指の米農家が育って行きます。
この碑に「曽祖父」の名が刻まれております。母方祖母の祖父と父。所謂「地主」という立場でした。
自費で水道を作り、川をせき止め、開墾に汗を流した。
そうした苦労が「米、宮城」を支えてきた農家の努力なのだろうと、考えます。
宮城米=ササニシキ。
ですが、この品種が全国的に評価されるまで、「宮城米=味が良い」という事にはなりません。
ササニシキ。この品種を少し整理してまいりましょう。
昭和38年(1963年)古川農業試験場で「ハツニシキ」と「ササシグレ」との交配で誕生した品種です。
僕らの世代と変わらない年齢なんですね。
全国的な評価を得ます。
この米の特徴は「アミロース含有量」が多いという事です。
「すし酢と合わせても、粘り気がべとつかない」これがこの米の特徴です。
また個別に語りますが、「宮城で鮨屋が多いのは、このササニシキが一役買っているのではないか」こうした推察を持っております。
最近のラジオ番組で「永六輔」氏が「ササニシキが軟質米で『鮨やおこわ』に会っていて、コシヒカリが硬質米で『弁当には最適』」こう話しておりました。
これは、米区分では、間違いの説明で、もともと天日干しの時代に東北の米は、乾燥状態がそうでもなくて、他地方の米よりはやわらかい新米となる。
こうした意味から、「硬質米」「軟質米」と市場では言われるようになった。
このような背景があるわけです。
この永六輔氏の言葉を借りるなら「アミロース含有量」に置き換えれば合点がいくお話しになりますが。
この「美味しんぼ」では、数々の米レシピが登場致しております。
「究極のメニュー」からは「どじょうの蒲焼丼」そして「至高のメニュー」からは「かて飯」→「まぜごはん」として。
「ずんだ飯」「ワカメ飯」「大根飯」が紹介されます。そしてその「至高のかて飯」として紹介されましたのが、下記のページです。
「阿武隈川で捕れたもずく蟹を使った蟹飯」と「フカヒレ飯」です。
いずれも、私は食したことがありません。
これらの紹介は、単に具材がどうとかこうとかに終始しております。
しかし、「酔漢のメニュー」としては、「ここに使っていいる米の氏素性を明かす必要があるのではないか」こう考えました。
「ササニシキ」の紹介も、昭和38年の品種改良の事のみ紹介されているだけです。
「ササニシキ」が、具材と会う品種。「鮨」であるとか「寿司」や「炊き込みご飯」「かて飯」に最適なのは明らかなのに、その詳細を知らしていない。
「宮城を語るには片手落ち」ではないのだろうか。
平成の飢饉以降、ササニシキの作付面積が大幅に減少しております。
「いもち病」に非常に弱く、冷害にも大きく左右される。手間暇がかかる。こうした理由が挙げられます。
ですが、ササニシキが「単に、鮨職人の為の米」だけしか価値がないのでしょうか。
そうではない。「酔漢のメニュー」ではこの「宮城県産ササニシキ」に頑としてこだわって行きます。
確かに、「ただの弁当ごはん」では「コシヒカリ」に負けてしまう。ですが、宮城の食材を生かす為にはどうしても必要な品種と考えます。
「かて飯」海原雄山は、「もずく蟹」「フカヒレ」を使って作りました。
「酔漢のメニュー」では、このような珍しい食材を使うものではありません。
ですが、酔漢的に言えば「陸前、三大海鮮ごはん」をご紹介していきたいと思います。
その内の一つは、皆様も良くご存知の「ごはん」なのですが、「宮城のものでないと、本当にまずくなるだけ」というご飯なのです。
その訳も含めて、今後、お話しを語ります。
♪こめぇはぁぁ天下のささにしきぃぃ ダンダンズビズビズバダ♪
さて「美味んぼ」の当該部分は酔漢さんが抜粋したところしか読んでいないので、正確な論旨は分かりませんが、腑に落ちないところがありますね。
そもそも飢饉に関する資料はほとんどが当てになりません。「享保の大飢饉」の死者は出典によって約1万人程度から約97万人まで百倍近い違いがあったりしますしね。
とりあえずそこは置いておいて論理的に考えてみると、江戸期は飢饉に限らず、全体を通して凶作の年が多かったのは周知の事です。もし本当に「天明の大飢饉」が「宮城の料理の発展を遅らせた」のだと仮定するなら、たとえば西日本に大被害を与えた「享保の大飢饉」の結果、西日本でも大きな食文化の停滞をおこしていないとおかしい。それなのに宮城県だけがそうだと言う理由はなんでしょう?そこをはっきりさせないと海原雄山の論理は成り立ちません。
また海原雄山は、米だけでなく飢饉対策として備荒作物も作っておかなかったのは「人災」だとしています。もちろんこの時に仙台藩主の失政があったのは周知の事実ですから「人災」の面があったのは確かです。しかし海原雄山が指摘するような「人災」はどうでしょうか?
どういう資料を根拠にしたのか分かりませんが、仙台藩内でも備荒貯蓄している農村の記録が残っているし、全国に有名な仙台味噌を作っていますから大豆は相当量作っていました。
歴史的視点として重要なのは天明の大飢饉が5、6年間にも及んでいる事です。それだと備荒貯蓄も底をつきます。また備荒作物はある面で農民の負担でもあるわけで、どうあれ収穫まで人手が必要なわけですから、酔漢さんが指摘するように疫病による被害も重なるなどして働き手を失えばどうしようもありません。
そもそも論として、当時の感覚からすれば、米を作れるならば出来る限りそうするのが当たり前です。江戸時代は米本位制ともいうべき経済システムでした。江戸幕府は幕臣という非生産者たる者を大量に抱え、給与として米を配給し、幕臣はその一部を換金して生活していました。つまり江戸期おいて米は通貨ともいうべき機能を有していたわけです。ですから米相場の動向は江戸幕府そのものを揺るがしかねない事件でした。少なくとも平成の世のように、米を単なる食糧という感覚で論じられる時代ではありません。そして江戸期を通して安定的に米を流通させたのは主に仙台藩であって、それが幕府や江戸庶民の支えになったのは紛れもない事実なわけです。「享保の大飢饉」では仙台藩の米がなければ、江戸はもっと大混乱となっていたでしょう。
また収穫量を上げるための新田開発は同時に治水工事を伴うわけで水害対策にもなりますし、大量輸送のために水路や道路などインフラ整備にもつながったのです。仙台藩において環境条件と収益性を考え合わせれば、米作りを増やすというのが一番合理的な選択だったという事です。それが天災で裏目に出た部分があったにせよ、即ち「人災」だと言ってしまうのは首を傾げます。
私は宮城県の料理の発展が本当にどこかの地点で遅れたのだとすれば、それは飢饉よりもむしろ戊辰戦争の結果だと思います。論拠を書くとまた長くなるのでやめておきますが。
米と藩の話も切り離せない話しですね。
泰宗さんの顔がそっくりです。
そろそろ復活しようかと、もう少しで片付きそうです。
時間がかかりました。
海原雄山の台詞は、でも信憑性もあって、その裏付けをしてみました。
君の言っている「戊辰戦争」もしかりですね。
司馬遼太郎氏は「副産物」例えば「蕎麦」であるとか「他の雑穀」の栽培面積が宮城の場合、他県よりかなり少なかったと論じておられますが・・・。
それも、はたしてどうだったか。。。疑問ですね。
素晴らしいお家ですね!