「あんだ、今日けぇんのすか」と、母。
中身の濃い五日間でした。
「今日はぶらついてくっからっしゃ」
と、残暑が厳しい中。市内をぶらつくことにいたしました。
「どこさぁいぐべ」と思案中。
ふと思い出しましたのが、「塩竈様さぁ行ってねぇべ」
やはり、帰りますと、「塩竈様に寄る」これは欠かせないことなのでした。
境内は、人もまばらでした。
ところどころ青いシートがかぶせられ、まだ地震の後が残っておりましたが、雰囲気はそのままでございました。
途中、「亀井邸」へ立ち寄りました。
「いつ以来だべ」
ここを訪れた記憶は遠い昔。
おそらく、酔漢が幼稚園か小学生低学年の頃だったと思います。
母が誰を訪ねたのか、それも記憶にはありません。
「懐かしいなや」
そう思いながら門をくぐりました。
案内してくれる方がおられました。
「昔のまんますね」
「来られた事があるんですか」
「遠い昔だっちゃ。イベントとかやってんだすぺ?」
「昨日はお月見の会がありまして、相当の方がいらしたんですよ」
今のところ見学者は酔漢一人。
「廊下ば走ってっしゃ、(写真の廊下)『おだってんでねぇ』って怒られたんだおん」
相変わらず、重厚な建築物。
ですが、地震の話になりまして。
「四月七日の地震で壁が相当いたんだんですよ。地震だけだったら、震災の地震より凄かった」
そういえば、三月十一日の地震ではなんでもなかった近所の塀が、四月七日の地震では崩れております。
母も「四月も方がこえかった」と話しておりました。
見事な欄間です。
裏面と表面が違っています。
おそらく、四季、行事で変えていたのだと推察します。
ですから、何枚か組になっているのだと思いました。
「じゅんいち先輩は元気かなぁ」
など、考えながら、亀井邸を後にしました。
境内の萩が満開。
昨日の名月(十五夜で満月)ですと、「お菓子の名前にぴったりだったんだなや」と独り言。
お参りを済ませて、表参道をおりて、ふと思いつきましたのが。
「おさんこ茶屋のずんだ餅。喰いてぇな」と。
買い求めましたのが、「ずんだ6個とあんこ1個、くるみ1個」それぞれ餅を持ち帰り。
あんこは、母が、くるみは父が好きでした。
「この甘さがまた、いいんだべ!」
裏道を通ります。
「祓川」の案内が。
「町はきれいになったけんど、川がすっかしねぐなったなや」とぶらついておりましたら。
嘗て、川だった名残でしょうか、「水神」の碑がございます。
むかしのむかし・・これによじ登った記憶がぁ。
こまっつぁきの家まで戻る途中。寄り道。
女郎山(信号灯のある山)を通り北浜の岡へ向かいました。
途中、「ゴエモン様」ご自宅前を通りました。
かつて、造船所や住宅のあった場所が更地になっておりました。
水野蒲鉾の工場が、大きく目立っております。
「本当に何もねぐなって・・・・」
しばし、この風景を眺めておりました。
「んで、丹治さんの家に寄ってからけぇっから」
と実家を後にしましたのが、午後四時過ぎ。
丹治さんご自宅での夕食。
くだまき読者諸氏には、まだ紹介しておりませんが、丹治さん、料理が上手です。
今回は「鮭のカルパッチョ風」と「豆を主にした冷製パスタ」がメインでした。
「酔漢の学年は凄いよね、普通百人も集まらんだろ。俺らの学年だって、去年50名位だし、今年は数名・・」
「さうら君が一生懸命にやってんだおん。それと、今年はいろんな事が重なったからっしゃ」
「それにしても・・・すごいぞ」
やはり、中学時代の話に終始しました。
ふと。
「おい、月下美人が咲いたゾ」
と見ますれば。
「二輪もさいてっちゃ」
丹治さんのお母様が育てた月下美人です。
満月の夜を計ったかのように咲きました。
「今度、こっつぁくんのは来年か?」
「んだ。親父の三回忌で、五月になっと思うのっしゃ」
塩竈を後にいたしました。
「もっと、普段の風景を写真にしておけば・・・」
これは新幹線の中で考えた事でした。
普段、気にも留めなっかった、風景が、懐かしく、いとおしくなる日は、来る。
来てもらいたくもないけれど、そうなってしまう。
震災後、そう意識していたのかもしれません。
「くだまき」初期の頃より写真が多いよね。
ある人から言われました。
自分では気にしておりませんでしたが、「なるほどそうだったのか」
そんな事にようやく気付きました。
故郷は・・遠きに・・・。
中身の濃い五日間でした。
「今日はぶらついてくっからっしゃ」
と、残暑が厳しい中。市内をぶらつくことにいたしました。
「どこさぁいぐべ」と思案中。
ふと思い出しましたのが、「塩竈様さぁ行ってねぇべ」
やはり、帰りますと、「塩竈様に寄る」これは欠かせないことなのでした。
境内は、人もまばらでした。
ところどころ青いシートがかぶせられ、まだ地震の後が残っておりましたが、雰囲気はそのままでございました。
途中、「亀井邸」へ立ち寄りました。
「いつ以来だべ」
ここを訪れた記憶は遠い昔。
おそらく、酔漢が幼稚園か小学生低学年の頃だったと思います。
母が誰を訪ねたのか、それも記憶にはありません。
「懐かしいなや」
そう思いながら門をくぐりました。
案内してくれる方がおられました。
「昔のまんますね」
「来られた事があるんですか」
「遠い昔だっちゃ。イベントとかやってんだすぺ?」
「昨日はお月見の会がありまして、相当の方がいらしたんですよ」
今のところ見学者は酔漢一人。
「廊下ば走ってっしゃ、(写真の廊下)『おだってんでねぇ』って怒られたんだおん」
相変わらず、重厚な建築物。
ですが、地震の話になりまして。
「四月七日の地震で壁が相当いたんだんですよ。地震だけだったら、震災の地震より凄かった」
そういえば、三月十一日の地震ではなんでもなかった近所の塀が、四月七日の地震では崩れております。
母も「四月も方がこえかった」と話しておりました。
見事な欄間です。
裏面と表面が違っています。
おそらく、四季、行事で変えていたのだと推察します。
ですから、何枚か組になっているのだと思いました。
「じゅんいち先輩は元気かなぁ」
など、考えながら、亀井邸を後にしました。
境内の萩が満開。
昨日の名月(十五夜で満月)ですと、「お菓子の名前にぴったりだったんだなや」と独り言。
お参りを済ませて、表参道をおりて、ふと思いつきましたのが。
「おさんこ茶屋のずんだ餅。喰いてぇな」と。
買い求めましたのが、「ずんだ6個とあんこ1個、くるみ1個」それぞれ餅を持ち帰り。
あんこは、母が、くるみは父が好きでした。
「この甘さがまた、いいんだべ!」
裏道を通ります。
「祓川」の案内が。
「町はきれいになったけんど、川がすっかしねぐなったなや」とぶらついておりましたら。
嘗て、川だった名残でしょうか、「水神」の碑がございます。
むかしのむかし・・これによじ登った記憶がぁ。
こまっつぁきの家まで戻る途中。寄り道。
女郎山(信号灯のある山)を通り北浜の岡へ向かいました。
途中、「ゴエモン様」ご自宅前を通りました。
かつて、造船所や住宅のあった場所が更地になっておりました。
水野蒲鉾の工場が、大きく目立っております。
「本当に何もねぐなって・・・・」
しばし、この風景を眺めておりました。
「んで、丹治さんの家に寄ってからけぇっから」
と実家を後にしましたのが、午後四時過ぎ。
丹治さんご自宅での夕食。
くだまき読者諸氏には、まだ紹介しておりませんが、丹治さん、料理が上手です。
今回は「鮭のカルパッチョ風」と「豆を主にした冷製パスタ」がメインでした。
「酔漢の学年は凄いよね、普通百人も集まらんだろ。俺らの学年だって、去年50名位だし、今年は数名・・」
「さうら君が一生懸命にやってんだおん。それと、今年はいろんな事が重なったからっしゃ」
「それにしても・・・すごいぞ」
やはり、中学時代の話に終始しました。
ふと。
「おい、月下美人が咲いたゾ」
と見ますれば。
「二輪もさいてっちゃ」
丹治さんのお母様が育てた月下美人です。
満月の夜を計ったかのように咲きました。
「今度、こっつぁくんのは来年か?」
「んだ。親父の三回忌で、五月になっと思うのっしゃ」
塩竈を後にいたしました。
「もっと、普段の風景を写真にしておけば・・・」
これは新幹線の中で考えた事でした。
普段、気にも留めなっかった、風景が、懐かしく、いとおしくなる日は、来る。
来てもらいたくもないけれど、そうなってしまう。
震災後、そう意識していたのかもしれません。
「くだまき」初期の頃より写真が多いよね。
ある人から言われました。
自分では気にしておりませんでしたが、「なるほどそうだったのか」
そんな事にようやく気付きました。
故郷は・・遠きに・・・。
祓川と新河岸川。
すっかり、川が無くなって碑だけがあります。
道路が広くなって、匂いもなくなったのですが、あの裏道には、まだ家々に橋が架かっておりました。
懐かしい風景でした。
ところであの碑。
ひー様のご解説を待ちたいところではございます。
風景が変わってしまい寂しいものがありますが、そのまま残っているものを見ると、これまた感動するものです。
珍しく写真が並ぶ記事でしたね。
やはり、研究室にお戻りになられたのですね。
と、尤も、これしか手がございませんでしたか。
今日、月曜は、授業が集中している日。
体調いかがでしょうか。
さて、昨日ですが、出勤時には小雨。
帰宅時には、交通機関も復旧し、風が少し強い程度で晴れの天気。
ピークの時は建物の中。という、案外恵まれた環境での台風直撃でした。
でもですね、仕事は、大変だった・・・。
一節には、子育ても一段落した、元女生徒が参加しやすいから・・とのことですが。
諸説多く、はっきりとはわからないのでした。
月下美人は、花が咲いて香を楽しもうとしたのですが、(丹治さんと)お互い酔っぱらっておりましたもので、よく分からなかったのでした。残念。
あそこ、住人にとっては
「塩竈神社」でなくて
「塩竈さま」だし「お山」なんですよね。
塩竈櫻の写真を撮りたくて参拝した時(否、
写真機を持って参拝したら偶然にも塩竈櫻がさいていたのでした)、
今回の写真と同じ、石燈籠が倒れた参道を見たのでした。
北浜の更地・・・お気持ち、よく分ります。
酔漢さんの菩提寺の様子を見に行った際に目にした光景と同じ。
あれだけの天災があったことがウソのように
日はうららかで波は穏やかでした。
「年々歳々・・・」の詩に
「スデニ聞ク松柏ノクダカレテ薪トナルヲ
マタ見ル桑田ノ変ジテ海トナルヲ」
のくだりがありますが、正にその思いです。
おい、酔漢!
今日だげんと、無事に家(え)さ帰った(けった)が?
このブログの読者の皆様、
今日の台風の被害はありませんでしたか。
クリスさん、帰宅できましたか。
JR在来線は終日運休。
家に電話したら、自宅近辺は冠水。
現代版「備中高松城の水攻め」です。
タクシーをつかまえても帰宅は不可能です。
さういふ訳で、研究室に戻りました。
以下、工大教職員の閲覧を「不許可」とします。
通販であった乾パンはあるし、
札幌ソフトの買い置きはあるし、
同じ階は他に誰もいないし・・・(*)
寮歌演習を敢行します。
コノ状況ハ天ノ赦ス所
楽マズンバコレ如何セム
受領ハ倒ルルトコロニ土ヲツカメ
転んでもただでは起ぎねど
*:性格に申し上げれば、買い置きではありません。
札幌ソフトは事実ですが、
ある年の札幌行の帰り、
帰宅する前に出勤しました。
その時にたまたま部屋に置いていたのを
いまだに家に持っていっていないだけの話です。
その証拠に十本買ったソフトが十本とも手つかずで置いてあります。
研究室で飲もうという腹で買ってきたのなら、
一週間以内に蒸発していたはずです。
アルコールは揮発性の液体ですから・・・
酔漢様のブログに度々お邪魔するようになったのは、塩竈在住の丹治先生の震災後の安否が知りたかったからで、あの記事を目にして、居ても立ってもいられず、縋るような思いでコメントを書かせて頂いたのでした。
震災があったあの日以降、いつも『大丈夫、きっと元気だろう』とばかりに疎遠になっていた友人知人に、たくさん安否確認のメールしたり、連絡先が分からずに手紙を出したり、とにかく自分の知る人達が無事であって欲しくて、祈るような日々でした。
昨年秋、我が高校の同窓会総会と、第9期生の同期会がありました。聞けば、毎年30歳になる代の同期会がメインで、前後2期程度には連絡が行くらしいです。まだ20年程度の歴史しかないので、1期生も世間で言うところのアラフォーで現役バリバリ、中堅として活躍している世代ですね。
我が校はクラス替えなる制度の無い専門高校ですので、3年間クラスメイトも担任も一緒でした。毎年、年末にクラス会をやっているので、あまり新鮮味はありませんでしたが、他クラス同期生や先生とは久しぶりに顔を合わせることができまして、なかなかに楽しい会でした。
今年は震災後初開催で、上の弟の代、10期生の同期会です。みんな何事もなく集まれることを、心から祈りたいですね。
月下美人、素敵ですね。うちの祖父も昔育てていました。花が咲くと、甘い香りがしたことは覚えているのですが、どんな香りだったかまでは覚えていないのが悔やまれます……。
あの建物「なんだろう」と思っておったのですが、免税店とは知りませんでした。
「水野蒲鉾」の周辺は、小さな造船所があったりして、結構建物が多かったと記憶してます。
鮎川へボランティアに行った同僚が、地盤沈下と高潮が復興を遅らせていると話しておりました。
そうですね。そんな偶然の積み重ねで、人は繋がっていくだな・・・と、最近しみじみ考えるようになりました。
息子はあの日、この場所でピンクの建物の後ろの家が津波で流され、パチンコ屋にぶつかり大破する光景をリアルタイムで見ていたそうです。口が開いたまま何も言葉が出なかった、と。
今日、仕事で野々島に行きました。長靴なしでは歩けない位、夕方は冠水していました。高齢者しか住んでいないそうです。島の店は無くなり塩竃から食料など売りに来ていた業者さんも来ず不便な生活をしているそうですが島を離れないのは人との繋がりだ、と島のばっぱは言っていました。
酔漢さんのブログでお知り合いになれたのも住んでいた、住んでいる、地域がきっかけだったりする訳で、帰りの船の中、家や仕事が無くなってもそこにいたい、という思いは人との繋がりなんだなぁと改めて実感したのでした。