さて、先述のブログ授業では現在、古代の深層心理学とも言える、大乗仏教の一学派“唯識学”が取り上げられている。というと、いわゆる東洋哲学的な難解な文献を想像してしまうがそうではない。むしろ意図的にそういう専門的に難しいことは排除しているようだ。徹底的に、読み手が自分のものとして理解できるレベルで語られていると感じる。
唯識は、人間が自他を悩ませるような行動をついついしてしまうその背後に、深層心理(マナ識)のレベルで凝り固まってしまっている根本的な錯覚があると洞察しているという。
つまりどう考えても、人間はいろいろなつながり(縁起)のなかで一定期間生かされている、いわば現象として存在しているにもかかわらず、ほかと関わりなくクールに存在できているような実体としての自分があると錯覚し、それに執着するという、いわば生の現実に合っていないムリを、常時・無自覚に・深層からやっているということらしい。
つまり人間が悩み、人を傷つけ、戦争をやって、地球環境を破壊しまくるという、そうした“問題行動”の背後に、深層心理的な病理があるということだ。
“根本煩悩”という仏教用語で語られているために自分とは関係ない話のように聞こえるが、根本的で無意識的な理に合わない自己に関わる錯覚・認識不足ということでいえば、これは現に自分を含め誰もが当たり前に営んでいる心のあり方にほかならないだろう。
つまり多かれ少なかれ、ぼくらはみんな深いところから心理的に病気にかかっているということだと思う。
病気の宣告…そうではないと思いたい。しかし、たとえばこのどうかしてしまっている地球環境について、自分のとっている行動を考えればまさにそういう錯覚にもとづいてやっているのは明らかだ。
環境や次世代と関係のないと錯覚している“自分”の、ちょっとしたエゴイズムの集積が、現にこういう事態を招いているのだから。
かなり易しいタッチで書かれているために軽く読み流せるが、これはかなり厳しく痛い指摘だと思う。そんなことはない、自分は健康だ、と思いたいところだが、しかしそういう感情的反発をおいておくと、生の現実が縁起的関係性のなかの現象であるという事実認識、そしてそれに無自覚どころか真っ向から反するような実体視的な錯覚を心の深層でおこなっているということは、テキストを読み、思考実験する限り、否定しがたいと思う。
しかしそういう執着というかたちで問題を引き起こしがちな深層の自我-マナ識を、しかしぼくらはいったん形成しなくてはそもそも生きていくことができないということを現代の心理学は明らかにしているという。だからそういう錯覚をやっているからといって自己非難する必要はまったくないということだ。これにはかなり安心する。
それにしても古代の智恵と現代の心理学がこういうかたちで統合できるということはかなりすごい。おなじ人間の心を扱っているのだから当然といえば当然なのだろうけれども。
引き続き、そういう深層心理・マナ識の病理をどう癒し、そしてそれ自体をどう超えていくかが語られていくとのこと。
厳しい診断だけでなく、その上に心の治療論があるといことで、唯識がまさに心理学でありいわば“医者”であるということがわかる。
大切なことをオブラートに包んで患者に迎合しがちな優しげな“癒し”系の言説が横行する中で、この唯識という厳密きわまる医者の鋭く深い診断は信用できると思った。
この狭い自己意識がある種の病気だとするなら、やはりちょっとでも治療を実践していきたいものだ、と思う。
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唯識は、人間が自他を悩ませるような行動をついついしてしまうその背後に、深層心理(マナ識)のレベルで凝り固まってしまっている根本的な錯覚があると洞察しているという。
つまりどう考えても、人間はいろいろなつながり(縁起)のなかで一定期間生かされている、いわば現象として存在しているにもかかわらず、ほかと関わりなくクールに存在できているような実体としての自分があると錯覚し、それに執着するという、いわば生の現実に合っていないムリを、常時・無自覚に・深層からやっているということらしい。
つまり人間が悩み、人を傷つけ、戦争をやって、地球環境を破壊しまくるという、そうした“問題行動”の背後に、深層心理的な病理があるということだ。
“根本煩悩”という仏教用語で語られているために自分とは関係ない話のように聞こえるが、根本的で無意識的な理に合わない自己に関わる錯覚・認識不足ということでいえば、これは現に自分を含め誰もが当たり前に営んでいる心のあり方にほかならないだろう。
つまり多かれ少なかれ、ぼくらはみんな深いところから心理的に病気にかかっているということだと思う。
病気の宣告…そうではないと思いたい。しかし、たとえばこのどうかしてしまっている地球環境について、自分のとっている行動を考えればまさにそういう錯覚にもとづいてやっているのは明らかだ。
環境や次世代と関係のないと錯覚している“自分”の、ちょっとしたエゴイズムの集積が、現にこういう事態を招いているのだから。
かなり易しいタッチで書かれているために軽く読み流せるが、これはかなり厳しく痛い指摘だと思う。そんなことはない、自分は健康だ、と思いたいところだが、しかしそういう感情的反発をおいておくと、生の現実が縁起的関係性のなかの現象であるという事実認識、そしてそれに無自覚どころか真っ向から反するような実体視的な錯覚を心の深層でおこなっているということは、テキストを読み、思考実験する限り、否定しがたいと思う。
しかしそういう執着というかたちで問題を引き起こしがちな深層の自我-マナ識を、しかしぼくらはいったん形成しなくてはそもそも生きていくことができないということを現代の心理学は明らかにしているという。だからそういう錯覚をやっているからといって自己非難する必要はまったくないということだ。これにはかなり安心する。
それにしても古代の智恵と現代の心理学がこういうかたちで統合できるということはかなりすごい。おなじ人間の心を扱っているのだから当然といえば当然なのだろうけれども。
引き続き、そういう深層心理・マナ識の病理をどう癒し、そしてそれ自体をどう超えていくかが語られていくとのこと。
厳しい診断だけでなく、その上に心の治療論があるといことで、唯識がまさに心理学でありいわば“医者”であるということがわかる。
大切なことをオブラートに包んで患者に迎合しがちな優しげな“癒し”系の言説が横行する中で、この唯識という厳密きわまる医者の鋭く深い診断は信用できると思った。
この狭い自己意識がある種の病気だとするなら、やはりちょっとでも治療を実践していきたいものだ、と思う。
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いま「無我」ということを考えていて、従来は、安直に自我を滅するという方向で解釈されがちだったんですが、自我は滅するものではなく、悟りの智慧に転じていくものと捉えた方がいいのではないかと思うようになりました。これも主幹の著書からの発想なんですけど(もしくはまんま受け売り?)。
過去には禅学の師家(大家)なんかも、自我を滅する方向で「無我」を捉えていたから、戦争肯定、ひいては戦争加担という道に進んでしまったのではと推察しました。
ただ単に自我が滅するだけだと、そこにたとえば国家とか広義の自我が流入しやすい。
オウムの場合だと、麻原の自我が幹部の心を容易に占有したように。
無我の取り扱いって注意が必要ですね。
主幹が言うように、仏教の「無我」というコンセプトは、ちょっと不十分のような気がします。語の印象が、過ちを生みやすい。
なんて、文章の論旨と離れてしまって、すみません・・・。
唯識、一緒に学んでいきましょう。
あ、今日はお通夜で欠席しました・・・。
いつもコメントありがとうございます。
そこらへんの概念の整理は『自我と無我』でほんとうにすっきりわかりますよね。あくまで概念ですが、何を遠い目標として目指せばよいか、混乱がなくなると思いました。このことでいかに日本近代史が葛藤をかかえてきたかがよくわかりました。
オウム事件、あれのインパクトはかなり強くて、ひじょうにいまでもあの教団が存続していること、それをなんとなく許している世間の状況に憤りと気持ち悪さを感じます。
たしかにしっかりした適応的自我がまず先にあるということがはっきりしていなかったために、あんなふうな盲信・盲従が起こってしまったというところがあるような気がします。
そして、そこが自我がいろいろ不安定だとああいうのに引き込まれて信念集団の中で居心地のよさを感じるというのもわかるような気がします。
なので、まずは適応的自我、しっかりやっていきたいなと。それについてはまだまだ偉そうなことは言えません。
あ、お通夜ごくろうさまでした。ブログ拝読しました。若者の自殺…重いですね。
ぜひぜひご一緒に!