〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

完全自殺マニュアル批判 3~4

2005-09-15 | 『完全自殺マニュアル』批判
『完全自殺マニュアル』完全批判(3)


 『完全自殺マニュアル』を批判する意図で書き始めたが、同書が手には入っていない状態であるためしばらく擱き、ここでは予備的に、古本屋で購入することができた同じ著者による『人格改造マニュアル』を取り上げてみたい。

 それは、著者・鶴見氏が「しょせん人間てのはこんなもんで、変われっこない」と、常識的・通俗的ニヒリズムに安易に乗っかるかたちでひどく矮小な人間像を描いており、それが『完全自殺』の主要な批判されるべきポイントのひとつであること、そして後発の『人格改造』のほうがそのことに関する著者の見解と偏向を、端的に表している思われたためである。

 以下、その人間像が心理学的な洞察に疎いものであること、流行の思想傾向に安易にもたれかかったものにすぎず、いつもどこかで見かけるようなチープで退屈でありふれた内容であることを、いくつかのポイントに分けて明確にしていきたい。なお細かい理屈上の説明は単に煩雑であるため避けている。


1.安易な知識

 同書では全体を通じ、「脳をいじる」方法として、薬物、洗脳、サイコセラピー等の技法が並列的に列挙されている。その説明はいずれもごく表層的で入門書の引き写しの印象があり、誤謬も多いと思われるものである(指摘するのも徒労の感があるが、たとえば「坐禅」の項の初歩的な説明は決定的に誤っている)。

 前半のクスリの項については知識がなく評価できないものの、社会常識を逆なでするような記述からは、おそらくマスコミ的な注目をひくためであろう計算が読みとれる。これはライターとしての独自性・個性を打ち出そういう苦しい努力なのだろう。しかしなぜここまで薬物に固執するのか? そのことは後で考えたい。

 公平のためにいうと、非合理な思考の修正し、自我の拘束が緩和されることで楽に生きようというセラピー論は、半分は正しくもっともだと思われるものである
 たとえば認知療法について、所収のごく初歩のエッセンスだけでも、実行すれば一定の鮮やかな効果があるのは確実と思う。ぼくらはそのような無自覚な認知の歪みに、ともすれば足をすくわれがちだからだ。

 しかし全体を通して言えるのだが、とりわけ心理療法に関して、著者はそのどれにも徹底していない。
 例えば認知の歪みの類型として、自分に対して決めつけを行なう「ラベリング」という典型的なものがある(「自分は○○と思うことが足枷になるのだ」)。そしてそのラベルを貼り替えて自分を楽にするのは、習慣づけさえできればけっして難しくないと述べる。

 にもかかわらず著者は、本書を通じて「キチガイ」という自己言及を繰り返している。もちろんそれは破滅的なラベリングである。認知の修正が不徹底なのか、それとも「キチガイ」とのラベリングに安住して変える気がないのか、さもなければ単に「キチガイ」であると人目をひくポーズをとっているのか、そのいずれかに相違ない。

 これは単に著者の姿勢の矛盾を皮肉っているだけではない。
 つまり、心理学・心理療法をアタマでお勉強として学んで、ちょっと書くことは簡単なことである。しかしそれらの学びにおいて常に問われるのは、理論・技法が自分や人に適用できるまで自分のものになっているかということである。
 表面的・概説的に知識を羅列して、「人間なんてこんなもん、変わるのは簡単だ」というのはあまりに安易なのである。

 同書の背後に大量の参照文献があることが(そのいずれもが悲しいまでに表面的・つまみ食い的・初歩的なものなのだが)著者にとってはかなり意味のあることらしく、「まえがき」にも「あとがき」にもそのことを得意げといった印象で書いている。
 たくさんの心理学の知識や用語で武装している自分は人間心理を究めた、というニュアンスが言外に読みとれると思うのだが、いかがだろうか。
 しかしそれは受験勉強レベル、ないしは「趣味の心理学」レベルの話である。

 すべて権威も価値もないとうそぶいている著者が、知識による権威付けという動機と、知性主義という隠れた価値基準を、しっかり持っていることを読みとることができる。


2.単純で平板な人間意識の理解

 また後で見るように、同書ではそれぞれの技法による「人格の全変容」ということを繰り返し強調しているが、それはひどく大げさである。人間の意識に関する理解があまりにも単純で平板すぎるのだ。

 たとえば認知の修正とは、自我意識のレベルでの「変換」にすぎず、あくまでセルフトークのごく一部を取り替えるものにすぎない。それも不徹底であればすぐに習慣化した認知の歪みにふたたび見舞われるだろう。意識の表層のほんの一部分を変換するのにすら、ぼくらは悪戦苦闘しがちだ。

 さらに重要なことだが、ここでは意識の深層構造が完全に見落とされている。
 表面的な対社会的自我の背後に、深層自我としての無意識、さらにもっと深い無意識の層があるのは、西洋の深層心理学の流れを見ても、東洋古代の智慧とりわけ大乗仏教-唯識の洞察を見ても、人類普遍的な事実といって差し支えないことだ。

 そしてそれら東西の知恵(厖大な文献的・臨床的証拠を含む)によれば、人格変容とは、無意識的な深層から、古い自我を含んで超えるかたちで生ずる人格的成長のことであり、さらに人間の心は驚くべき深み-高みにまで達しうるものなのだという。
 ただしそのためには厳密な理論・方法の適用と、長期にわたる持続的な取り組みが必要なのはいうまでもない。一時的な至高体験があっても、それが習慣化され深く人格化されていなければ、すぐに日常性の意識に戻ってしまうのだという。

 そのことをとっても、一時的な高揚感や感動が人格の全変容であるかのように過度に強調するのは、控えめに言っても誇大宣伝というものだろう。


3.「近代的自我」に関する矛盾と虚偽

 また、「本当の顔などない」「一貫した人格など幻想である」「どんどん人格を変えて使い分けていこう」という本書の基本的な主張は、「近代的自我」など幻想にすぎないというポストモダンの知的流行として、すでにぼくらが見飽きている言説をひどく単純化したものに他ならない。
 ようするに、近代的自我は人間の無垢の自然と本来的自由を抑圧する拘束具にすぎないという人間理解だ。

 しかしこれはあまりに表層的な人間観である。意識的・表面的な自我が、本人も気づくのが困難なほど深く無意識の深層に根ざしているのは説明したとおりだ。つまり、変動する自我意識の背後には、常に一貫した深層自我が存在するのである。
 それは、本書が安易なリラックス法として取り上げている坐禅をちょっと実践してみると、無意識のところから湧き上がってくる言葉に悩まされ続けて集中できないことで、すぐに実感的に理解できることなのだが。

 ところで、そもそも「仮面の交代」や「人格の変換」などと大げさにいわなくとも、表層的な人格の使い分けとは、ぼくらが社会生活をなんとか切り抜けていく上で日常当たり前にやっていることではないだろうか? そしてそれが巧みな人ほど世渡り上手ということになっている。

 一貫した人格というものが存在しないのだと仮定しよう。しかしそうすると、『完全自殺マニュアル』以降一貫したテーマで著作をものし、そこから多額の印税を得、他者から見れば一貫した人格として社会生活を送っているライターとは何者か? いつも同じスタイルで社会を挑発し、自己否定に居直り、人格の分裂に悩んで自殺をしたりせずにいる著者は、いったい誰なのか?

 それはさておき、人格の一貫性の破綻とはとりもなおさず精神病理である。そもそも一貫した人格が存在なければ人は社会生活を営むことができない。そして当然ながら社会生活を営まない人間は想定することすらできない。人間は本質的に社会的存在なのである。

 つまり社会に生きるぼくらは、「私」とはいろんな要素が統合された一貫した自己であること、言い換えれば「近代的自我」であることを否定できないはずなのだが、自らがその中で生きているはずの社会を忘れた、観念的で原子化された「個人」は、そのような曲芸ができると信じているらしい。

 その根本的矛盾に気づかぬふりをしているのか本当に気づいていないのか、同書は無邪気に薄っぺらい言葉の遊びを繰り広げているのである。

(以下続く)


by type1974 | 2005-09-12 15:20






『完全自殺マニュアル』完全批判(4)


4.心というリアリティの否定

 ところで、『完全自殺』に見られる荒っぽい還元主義、いわば人間機械論は、『人格改造』における心理技法などの列挙によって、逆にますますあからさまとなっている。心を外面の相関物・脳に折り畳み、単純に内面のリアリティの存在を無視しているのである。したがって、すべては「脳をいじる」ということになるわけだ。

 しかし脳科学が進めば進むほど、物質としての脳の研究によって心という別次元のリアリティを掴まえることができないことが明らかになってきているのは、著者も認識しているとおりである。
 つまり心というものが、器官としての脳に還元することができない、カテゴリーの異なるリアリティであることは、少なくとも現行の脳科学では否定できないのだ。

 加えて、現段階の科学が最も単純な動物細胞の一個すら、人工的に作り出すことができていないことに注意しよう。外面の脳とは、器官としての組織化-複雑化を究めたものである。それはもっとも単純・基礎的な細胞から始まって、神経組織、神経管、爬虫類的脳幹、哺乳類的脳、大脳新皮質、前頭連合野という多くのレベルを含んで超えて統合した、きわめて(知られている限り宇宙一の)精緻な階層構造のシステムなのであり、その機能については何もわかっていないことがわかり始めている、というのが現状のようなのだ。

 だから同書が一方でメカニカルに記述しているごく単純な脳機能の理解によっては、心について何一つ理解できたことにはならないのは言うまでもない。それは喩えていえば、パソコンを分解して配線のおおまかな仕組みを知って、大喜びで「自分はパソコンを究めた」と言っているような愚かしさに似ている。

 にもかかわらず内面を外面に乱暴に折り畳み、心は単純に脳に還元できるとすることよって、とくに「クスリ」の項に露骨に表されているように、人間は脳内物質の作用による快感をひたすら求める存在に貶められてしまっている。喜びの替わりにドーパミン、幸せの替わりにプロザック、というわけだ。意味や感動ややすらぎというような繊細で同じもののない内面のリアリティは、選ぶところのないモノトーンの快感に粗っぽく還元できるのだという。

 そしてそのようなフラットな人間マシーンにとって、悩みを忘れるために快楽を求めるのも、苦痛から逃れるために自殺するのも、同じ平面の問題であるというのはもっともなことだ。しかしそんなマシーンにいったい誰がなりたいというのだろうか?
 つまり、ことはよく見かける“唯脳論”的な新手の物質還元主義の問題であるわけだ。

 しかし、心は脳の生み出す幻想にすぎないとする人自身が、幻想であるはずの自分の意識の存在をまったく疑うことなく信頼しているように見える矛盾は、いったい何なのだろうか? その人は「幻想である」という自分の信念が脳のどこかに刻印されているのを指し示すことができるだろうか? そしてそもそも内面的な理解がなければ意味を成さないイメージや記号、言語や論理を駆使して、「内面とは幻想である」ということを、ぼくらに内面的に理解させようと押し付けるその意図とは、いったいどういうことなのか?
 そういう「幻想」をリアルというのではないだろうか?


5.「人格改造」の無自覚な動機

 ところで、本書の求めている人格改造の目指すところとは、いったい何なのだろう。
 一読して異様な印象を受けるのは、ページをめくるつど、次のような言葉がきわめて頻繁に出てくることである。その一部を挙げると:

 「変わること」「全くの別人格になって一からやり直し」「別人のように」「人格を変える」「生まれ変わる」「人格の全変容」「ガラリと変わる」「性格を激変させる」「脳をリセットする」「何もかも捨てて」「劇的に変わる」「世界を変える」「別人になる」・・・

 人格改造を読者に勧めているのだから当然といえば当然なのだが、しかしクールでシニカルな記述が続く中で、この点だけには熱気のこもった執拗さが感じられるのだ。単にテーマにかかわる表現というにとどまらない、とにかくいまの自分を根本的に捨て去ってまったく新しい人間になりたいという、書き手の強烈な願望がここに感じとれると思うのだが、どうだろう。

 ところで、新しい自分に生まれ変わりたい、まったく別人になりたい、ということは、いまの自分を捨ててしまいたいということ、つまり現状の自分をまったく受容・肯定・承認できていないということの裏返しである。成長・変容とは、いろいろ欠点もある自分をすなおに受け容れることで、古い自分を含んで超えるかたちで前進することだが、ここで言われているのはとにかく全面的な自己否定なのである。

 ではいったい自分を捨て去って、どういう人間に生まれ変わりたいというのか。これまたきわめて特徴的に、つぎのような言葉が本書のいたるところにちりばめられていて、率直に言って強迫的な印象を受けるのだ。一部を挙げよう:

 「明るい人間に」「ハキハキと」「爽快に」「どっしりと」「活発に」「元気に」「積極的に」「ハイに」「エネルギッシュに」「前向きに」「軽く」「外向的に」「社交的に」「行動的に」「覚醒する」「対人関係で円滑に」・・・

 ここに、明らかにどういう人間像が望ましいかという、著者なりの価値付けを見て取ることができる。いうまでもなく、これは競争をもっぱらとする現代の産業主義社会に適合的な、競争に勝つタイプの人格特性の羅列だ。現在の自分を捨て去って変身すべきは、いわば「成功したビジネスマン」というわけだ。

 社会の価値観一般を冷笑し挑発している本書が、産業社会の典型的な「望ましい人間像」に至上の価値を置いて、それを目指して汲々としているのは、きわめて皮肉なことに見える。そしてそれが著者自身の価値の物差しであることは明らかだ。無自覚な価値付けといってよいだろう。

 むしろ逆に、産業主義的な競争社会の価値観をあまりにも素直に真に受けた人間が、その価値尺度に沿うことができずに、そのような価値観で営まれている社会に反抗し挑発するようになる、もしくは自信を喪失して自殺を考えるというような、よくあるドロップアウトの構図がここに読みとれると思うのだが、いかがだろうか?

 産業主義社会の価値観とは、ここやあそこの会社にあるというものではなく、この社会全体にわたってそれと気づきにくいほど自明化・雰囲気化しているものである。
 そしてそれは、ぼくらがとりわけ学校で身につけさせられてきたものだ。それも個々の先生が押し付けたとかいう話ではなく、学校全体が暗黙の裏プログラムとして、産業主義でバリバリやっていくことのできる人間を大量生産する場だった、ということである。
 だから「のびやかに」「みんななかよく」というような表のプログラムはウソくさくて空虚に聞こえたのだろう。
 企業の業績と同じく、学校で競争と相対評価に基づく成績が至上の価値とされるのは、つまりそういうことであるはずだ。

 そういう学校において、プラスで健全であるとされる性格特徴は、もちろん「明るく」「活発な」「社交性のある」「外向的な」…というものだ。暗く内向的で友だちが少なかったりすると、それはとりもなおさずマイナスであり矯正すべき欠点とされる。

 経験のある方もいるだろうが、そういう「暗い」「内向的な」「社交性のない」生徒には、いまの学校の教室の雰囲気というのは暴力的に感じられるものだ。まして成績が悪かったりすると最悪である。人間関係のルールが成り立っていない状況で、役割もなくただ集まっているだけという無秩序・無目的な集団。裏プログラムの価値観に忠実に、教室では「明るく」「ノリがよく」「友だちが多い」ということが何より価値を持つ。

 たとえば休み時間に教室で一人で「浮いて」しまうことは危険である。一人でいてはならないが、しかし学校にはどこにも一人でいられる場所はない。とにかく集団に合わせて明るくノリよく会話を回さなければならない。そのためには自分を貶めて人を笑わせておくのが安全だ。社会問題とされる「いじめ」の要因は、こういう強迫的な雰囲気を帯びた教室的状況自体に内在する。

 「明るくノリよく人を笑わせる」というのは、こうした教室的状況で集団から浮かないようにぼくらが無意識に身につけた、条件反射化にまで到った処世術でありライフスタイルではなかったか。
 最近のメディア的ないわゆる「お笑い」を、自分はほとんど笑うことができない。その神経症的で強迫的な「人の笑いをとる」という若者の心性に、教室的状況の呪縛にいまだ囚われているのを見て取る思いがするからである。「お笑い」がつねに人を貶める「ネタ」に終始しているのはそのためだろう。

 そしてこの『人格改造マニュアル』全体に、そうした産業主義-競争主義が雰囲気化した、ぼくらが到るところで経験する教室的状況に、何とかして適応したいという痛々しい動機が隠れている。「暗く」「内向的で」「非社交的な」自分は全然ダメな人間で、「明るく」「外向的で」「社交的な」人間に生まれ変わらなければならない。これが本書に一貫した価値軸であるのは明白だ。そして著者は「適応」に必死である。(同書156頁、自己啓発セミナーの価値観に関する著者の言及を参照のこと)

 すなわち、著者は「社会システムなど完全に放っておけばいい」と強がってうそぶき、「身のまわりのことをチマチマやっているしかないのだ」と脱力を推奨しておきながら、一方で社会システムの要請する人間像に「適応」すべく、痛ましくもクスリから洗脳までを使って生まれ変わろうとして、無自覚なダブルスタンダードをやっているわけだ。

 その「明るく」あらねばならないとするオブセッションは、気持ちとしてはたいへんよくわかると言いたいところだが、しかし大の大人になってもいまだそれに囚われて、しかも無自覚にクールぶって斜に構えているのは、あまりにカッコワルイと言わざるを得ない。


6.総括

 以上見てきたとおり、本書において著者・鶴見済氏の書いている内容は、心に関する理論・技法の説明としてひどく浅薄である上、そのメッセージは彼の価値観にかかわる無自覚な矛盾と混乱の表れそのものであった。

 ようするに著者は、自分自身を「キチガイ」であり一貫した人格など持っていないと(これは言葉の上だけのポーズに見えるのだが)全否定して見せた上で、居直って社会を挑発する触法的な言及をくりかえし、自分が正しいと信じるニヒルに徹底した脱力的な生き方を推奨するために、ゴテゴテと「人格改造」の方法を並べ立てているのである。

 しかし、これまた到るところでよく見かける構図なのだが、すべては無意味であり自分は何も信じないとうそぶく者が、そういう自身のニヒルな「信念」を社会に伝播させようとする意図は、そもそも何なのだろうか? 本書の著者がそのことに大きな意味を感じているだろうことは確実だ。
 つまり最後に、著者がこの本を書くことを通じて結局何がやりたかったのか、という疑問が残るのである。

 以下はこれまで述べた『人格改造マニュアル』に関する批評の、主観的な総括である。

 考え方ひとつで人格が変わる、といいながら、この著者が一貫して自分の考えに固執しているのは明らかである。そして人間など脳をいじることでどうでも変われる、としながら、そう語る著者自身はまったく変わることができていないようだ。
 つまり、結局は何も変わりたくないのだと思われる。

 そして厖大な参考文献(と言うほどではないようだが?)がバックにあることを強調しているのに表れているように、知識を積み上げて固めることで、「自分には人の心がわかっている」と自己防衛しているように見えるのだ。

 殺人OKなどというような挑発的言辞が目立つのも、本書の語りの特徴だ。しかし、その挑発に乗らないで読んでみると、著者のニヒルな絶望感がはっきりと見えてくる。またそういう言動をすることで、歪んだかたちではあるが社会的に注目されたい、つまりは認めて欲しいという倒錯した心情がありありと見て取れるのである。

 また著者は「まえがき」で、「どう生きるかなんていうことはどうでもよくなってくるはずだ」といいながら、同時にそのこと自体が「重い重い問題」であることを認めざるをえなかった。そしてそのとおりに、こうした本を書いていること自体において、徹頭徹尾「どう生きるか」という問題にひどくこだわっているように見える。

 だからこそ、そこからいかに逃避するかを追求しているわけだ。
 つまり人間の生きる根本動機である自己成長衝動と、そして本来的な共同体感覚にもとづく社会形成、そのどちらもから逃避する手段があたかも存在するかのようにほのめかし、そして逃避すること自体を正当化しているのが、この本の主旨である。

 いうまでもなく、もしそのとおりに生きるとすれば、いずれ人生は絶望に陥らざるを得ない。そして絶望感を抑圧ないし見て見ぬふりをして、さらに逃避を続けようとする。これは文字通り絶望的な悪循環である。だからクスリによる逃避は破滅的なのだ。

 また著者はすべてに価値がない、どうでもいい、と居直りながら、一方で脱力してちまちま生きるようなことを「正しい」と、恣意的に価値判断をしている。しかしいったいそれが正しいとどうして言えるのだろう。一方で競争主義的な価値観は彼の中ではっきりとはたらいているのである。

 結局、人生の負うべき責任からひたすら逃避しそれを正当化するために、ひどく混乱したコンテクストに自身が囚われていることに無自覚なまま、浅薄な知識で武装し壁を築いて、世の中の常識一般を嘲笑し挑発する空虚な言葉の遊びを際限なく続けているというわけだ(「世の中しょせん『どうでもいい』ことばかり」)。

 ところで、安易に社会を攻撃する者には、往々にして同じ攻撃の矢が返ってくるものだが、そのとき著者はどう答えるのか、なかなか興味深いものがある。

 とはいえ人は、ともすれば自分の認識できる範囲こそが、世界のすべてであり人間の真実であると固執してしまうものだ。人間とは浅薄なものであり何者も信じ得ないという「信念」を持っている著者・鶴見氏のような人は、自身の無自覚な、存在しないことになっている「信念」に従って、それに反する論拠や事実をすべて無視し去るのだろう。


 『完全自殺マニュアル』を完全批判する準備として、同じ著者による本書を取り上げてきた。『完全自殺』が「人間なんてどうせそんなもの」「生きるなんてどうせくだらない」と一見クールに語りかけている背後に、このような語り手自身の、人間観・人生観に関わる、歪んだ意図と物語があるのに、ぼくらは注意をはたらかせる必要があるだろう。


by type1974 | 2005-09-15 20:53

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