〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

『完全自殺マニュアル』批判 5~7

2005-09-28 | 『完全自殺マニュアル』批判
『完全自殺マニュアル』完全批判(5)


 これまで行なってきた『完全自殺マニュアル』を言葉で撃破し葬り去る試みの、本論に移りたいと思う。


 ようやく手に入った1999年発行の本書は、その時点で第82刷を記録している。
 書き始めるまで知らなかったことだが、これは隠れた超ベストセラーといって過言ではないだろう。

 現在どのくらいの版を重ねているのかは知らないし、正直言って知りたくもないが、これほど売れた本があまり古本屋に流通していないことからも、いまだ生きる自信を見失った多くの人が手元に持っていて、水面下で相当な影響力を持っているだろうことは推測できる。

 そして発刊以来、いったいどれだけの数の人間がこの本の「手引き」で死んでいったのだろうか。

 1993年初版の本だから、新奇なものが次々に出ては忘れ去られていくサブカルチャー系の出版業界にあっては、相当古いものに属するということになる(実際その内容も古くさいのだが)。

 しかしにもかかわらず、この本がすでにそれだけ無数に社会にバラまかれていること、そしていまだに売られ続けて、多くの信奉者やネット上の模倣者を産み続けていることを鑑みると、本書を内容的に亡きものにせんとするこのささやかな試みも、少なからぬ意味を持つものと信じる。

 このような病的にフラットで破滅的な言論がもてはやされる現代の無責任な風潮と、その底にあってぼくらが何となくこの世の裏の(つまり本音の)「真理」だと思い込まされている、近代主義-ニヒリズム。それらが深く根ざしているのは、ようするに「世界はバラバラのモノから構成されていて意味もクソもない」というような、もはやあまりに自明化し空気のようになった世界観・宇宙観=“コスモロジー”である。

 すなわち、ぼくらが物心ついて以来たたき込まれてきた、真実に見えるけれどもひどく退屈でじつはすでに決定的に古い、この社会の現行のコスモロジーを相対化することもまた、ここで意図している。

 そして、ぼくらがいつもいたるところで見かける、そのようなニヒリズムを社会に伝染させようとする企て(それこそ「意味もクソもない」はずなのだが)が、とりわけこの本ではきわめて露骨で典型的なかたちであらわれていて、その目的にあたってのいいターゲットだと思われた。

 これはまったくの大風呂敷であり、一方自分が現状非才なことは承知しているつもりだが、しかしメッセージはまず発することが大切であり、また微力はイコール無力なのではない。
 臆せず進んでいこうと思う。


 それにあたり第一に、この本において著者がメッセージらしきものを発していることそれ自体への根本的な疑問を明らかにし、その矛盾の追及を試みる。

 さきの『人格改造マニュアル』批判でそのことを明らかにしたが、ここでもいっそう際だつのは、著者の自覚されざる自己矛盾と途方もないナルシシズムである。
 ようするに彼は社会と人生のすべてを無価値でくだらないと斬って捨てながら、そう評価する自分の立場を相対化することがまったくできていない。

 そして第二に――これが本書についていろいろな指摘がなされながら、決定的に見落とされていると思われるところだが――このような言説が流通することの社会的な問題性を取り上げたい。
 それが社会にとってのいわば毒であり伝染病でありガンであることを、この際はっきりと認識しておこう。

 ポイントは、社会にとって何が悪(言葉を換えれば“ルール違反”)なのかという原則をはっきりさせることと、「自殺するのは読者の勝手」というような最近流行のきわめて安易な自己決定-自己責任論の欺瞞性を暴くこと、そこから“言論の自由”とは単なる恣意ではなく一定の枠と責任を自ずと伴うものあることを確認することにある。

 そしてここでも、本書のような言論活動を行うことそれ自体において、著者の自己矛盾は決定的である。社会のルールに安易に乗っかって守られながら、そのルール自体の基盤を掘り崩す企てを嬉々としてやっているからである。


 そのあとで第三に、「自殺はいけない」という価値判断ができるための、そしてそれを力強く説得できるための、妥当性のある有力な根拠を示していくつもりである。

 著者は常識的で通俗的なニヒリズム、つまりこの社会で「真理」とされている、すべてをバラバラに捉えるような人間観-世界観-宇宙観を暗に絶対化してある種のメッセージを発しているわけだが、それに真っ向から反する、最新の現代科学をもとにいま出現しつつある、世界の新しい見方・コスモロジーを突き付ける。

 これは根拠のない感傷的ヒューマニズムや単に思弁的なだけの弱々しいニヒリズム批判ではない。
 その新しいコスモロジーとは、検証可能で柔軟な現代科学の通説を根拠としており、次の時代の世界観としてきわめて有力な妥当性を持つと評価できるものである。


 なお本論は多くの点において、このブログがそれを紹介するのを半分目的にしている、『生きる自信の心理学』(岡野守也著、PHP新書)という本に依っている。
 とくに現代科学的コスモロジーに関する著者の考えと実践は、ぼくらが何となく感染させられてしまっている近代科学主義-通俗ニヒリズムを脱却するための、現在最有力な方法論だと思われる。

 興味のある方はぜひそちらをご覧いただきたい。


by type1974 | 2005-09-23 14:07 |






『完全自殺マニュアル』完全批判(6)


“幻滅”の再会


 本書を人から借りることができ(有難うございました!)、十年以上ぶりにあらためて読んでみたが、記憶していた以上に浅薄で寒々しいという印象だけが残った。

 人の記憶というのは、その後生きてきた時間や、考えてきたこと、出会った人からの影響、等々によって後からかなり再構成されるものなのだと実感する。もう少し切実な「何か」がここに語られていたように思ったのだが。

 本書のほとんどのページは、自殺の方法、死に関するデータ、死者たちのそこに至る事情を、表面的に興味本位になぞることに割かれていて、距離を置いて見れば、その情報の刺激性でターゲットとしている購買層の興味をそそろうとしているのは明らかだ。

 また、一見乾ききっているようで、どこか人の歓心を買おうとしているのが随所にかいま見えるその語りや、死にたい気分を確実に増幅してくれるであろう温度ゼロのクールな装丁デザインが目を引くばかりで、批判すべき内容がそもそもどの程度あるのかすら、疑問に感じられてしまう。

 あまりにも薄っぺらであることに、かつてこの本に一定の影響を受けた者として、情けないものを感じるのである。こんなものを真に受けて死んだら確実に後悔しただろう(いや、死んだらもちろんこうして後悔もできない。『完全自殺』を読んで死にたい気分の方、ちょっと待ったほうがいい。これから説明するようにこの本はあまりにもかっこわるすぎるから!)。

 しかしそういう「内容」を最初から存在しないことにしようというのが、後で見るようにこの著者の姿勢なのだから、それはじつはしごく当然の印象なのである。

 そこに書いてあるとおり、死ぬのは、多分とても簡単だ。そして若い時分にはそれがとても刺激的な“真理”のように思えたものである。
 本書の死へのそそのかしに疑いも抱かず乗っかって、「いざとなったら首をくくってしまえばいいんだ。みんなはこの“真理”に気づかずアクセク生きてるにすぎない」と、妙な優越感みたいなものを感じながら、重くはないけれどもかなり本気で考えていたのが思い出される。

 ついでにいえば、「『イザとなったら死んじゃえばいい』っていう選択肢を作って、…ちょっとは生きやすくしよう」というこの本の「本当の狙い」は、そういうかつての自分に関していえばまったく外れている。
 逆に自殺をそのように軽く捉えることによって、自分のいのち・存在も同じくどこまでも軽く感じられ、索漠とした気分はますます加速した。

 “より生きやすくするために自殺という選択肢を自分の中に認める”というのは、結局人の意識の本質というか方向性に反していて、主観的な事実として破滅的なのだと思う。

 なぜなら、そう捉えることによってあえて生きる根拠はさらに見失われ、自分の存在はますます軽くなり、逆に心は重くなるばかりだから。
 意識は社会から切り離され浮遊し、自分がそこに生きているはずのリアリティが壁の向こうに白茶けて見えて、自分がいてもいなくてもいい存在に感じられてしまうから。


 さて、今思えば、まさにかつての自分は、この本の著者の意図や出版社の販売戦略に、あまりにも簡単に乗せられてしまっていたということになるだろう。そう、あまりにも素朴に、素直に、疑うことなく。

 免疫がないというのは怖いことだ。それは身体にとっては生命にかかわるきわめて危険な事態を意味する。
 思考もまた言葉に乗って伝染するものだから、安易にこういう有害な言説に感染しないために、心にはそれに対抗する免疫としての思考内容が必要となるだろう。つまり心にも免疫、言葉を換えれば自我防御機制が存在するといえる。これは単なる比喩ではない。

 ぼくらの祖父祖母であれば(世代によるかも知れないが)、本書のような言葉に出会ったら即座に「そんなこと、神様(/仏様/天地自然/ご先祖様、バリエーションはいろいろあるものの人間を超えて見守っている何者か)に申し訳ない!」とびっくりして叫んだに違いない。
 彼らが大切に守っていた神話という心の免疫は、「自殺OK」というような破滅的な言葉の侵入につけ入る隙を与えなかっただろう。

 ぼくらは、ご先祖様たちが持っていた信仰をはなから非科学的だとバカにするよう条件付けられていて、免疫として心を守り支える言葉のシステムという、神話の本来の機能と意味を、もはやほとんど見失ってしまっている。
 それは時代状況としてやむをえなかったにせよ、喪失が喪失であることに変わりはない。

 そして近代化された鉄筋コンクリートの学校で、ぼくらは柔軟な子供時代、一日何時間・十何年にもわたって教室に座らせられ続け、突き詰めれば「すべてはモノだけで意味もクソもない」という結論に到ってしまうような、無味乾燥な“お勉強”をたたき込まれてきた。
 そういうわけで、「いのちの大切さ」というようなきれいでいてじつは根拠のわからないお題目を申し訳程度に聞かされながら、一方「自殺はとてもポジティブな行為だ」というような、破滅的な言葉の病原体に対して効果的な抗体を、ぼくらは少しも身につけさせてもらっていない。

 そうした心の空白、価値判断のマヒ状態は、人を何かの病気に感染させてそこから利益を得ようと狙う者にとっては、格好の隙となるだろう。
 そこに巧みにつけ入って、今でもこの『完全自殺マニュアル』を売りまくっている汚い人間たちがいる。「すべて価値など存在しない」という自分たちの価値を病原体としてばらまきながら、彼らはこの本によって多額の利益を吸い上げている。


 話を戻すと、そういうふうに「死ぬなんて簡単なこと」という考え方にある程度染まったつもりだったが、しかし社会に出、人の中で生き生かされてきて、そして必要なことは学びなおして、人生がけっこう生きるに値するものだと思えるようになると、この本は“自殺”をことさらにあげつらうことでいったい何が言いたかったのか、という感じになってきた。
 そしてそんなことを考えるのも日常の中で面倒くさくなって忘れ、いつしかこの本も手放していた。

 しかしいつもどこかで、この本の存在が気になっていたように感じる。
 この本の言葉の、冷たく切り込んでくるようなメッセージが心のどこかにひっかかっているような気がしていたのだ。

 そのことに違和感をおぼえたのも、こうして書いている動機のひとつとなっている。


by type1974 | 2005-09-25 21:42





『完全自殺マニュアル』完全批判(7)


言葉の、耐えられない軽さ


 さて、本書の内容に取り組むことに移りたい。
 だがその前に、内容それ自体の性質を問題にする必要がある。

 著者は、たとえば「はじめに」のおける“なぜ自殺がOKなのか”という社会批評めいた文章などのもろもろは、すべて営業上の理由でとってつけた「ゴタク」にすぎないのだと述べている。
 つまり、そもそもそういうもっともらしい執筆動機などは初めからなかったと言うのである。

 その言葉を額面通り受け取るなら、自殺についての即物的な記録やデータ以外の、一切の著者のメッセージめいたものは意味のないガラクタと選ぶところはなく、したがってすべて無視して構わないことになり、それはそれで大いに結構だと思う。
 だれも単なる見えすいた営業トークを真に受けて死のうとは思わないだろうから。

 しかし問題は、著者の真意がそうであるとはまったく見えないことにある。
 また、自殺の“手引き”等の記述に込められた、その冷たいメッセージの伝染性ゆえにこそ、この本が強い影響力を持っていることを無視するわけにはいかない。

 すなわち、どう読んでも、冒頭などに述べている空虚な「ゴタク」こそ、著者のある種の意図・動機・目的・メッセージとして先にあり、大部分を占める“死のマニュアル”はそれを伝えるための手段として後にあるとしか見えないのだ。

 それは読み手の主観にすぎない、ということはできないだろう。
 というのも、“マニュアル”部分の一見即物的でドライに見える記述のすべてが、冒頭に表明された著者固有のニヒリスティックなものの見方・文脈に位置づけられるものであることが、意識して見ればおそらく誰の目にも明らかだからである。

 本書は、全編にわたって家電廃棄物の処分マニュアルよろしく、自殺という重いテーマの、単なる事実的・即物的な表面を、軽薄かつドライな言葉でなぞってゆく。
 そして自殺者の死に様と、死の現場の状況と、その周辺的なエピソードとが、文字通り商品カタログのように淡々と陳列されている。

 クスリは何グラムが致死量か、縊死の際の頸とヒモの角度はどうあるべきか、飛び降り自殺ではどんな音がするか、列車の車輪に切断されると死体はどのようになるか、等々。

 いくつかの例外を除き、死者はそもそも人間として扱われていない。
 彼らに苦悩する内面は存在しない。あたかも外面だけ、モノとしての人間だけが真実だと著者は言いたいわけだ。
 共感らしき言葉を述べた箇所もあるが、それらも後で明らかにするようにはっきりと偽善的なものである。著者はある種の高みから距離を置いて観察して、それらの死を“おもしろがって”いるからだ。

 つまり、本書はすべての自殺のケースについて、自殺者の主観を完全に排除ないしひどく矮小化し、モノの集まりにすぎない(『人格改造』で見たとおり)“人間機械”である人間が、社会に適応できない欠陥品、あるいは社会の歯車にすぎないことに自ら気づいてしまった規格外の歯車として、それにふさわしく自己消滅していく様であると、一貫して描いている。
 すなわち「欠陥製品の自己破壊のデータ」というのが彼の自殺に対する不変のスタンスとなっている。

 もちろんこれも一定の読み方と言えないこともないと思われるので、もしそうでない読み方があれば修正する用意がある。その場合はぜひ教えていただきたいと思う。しかしいずれ空虚で陰惨なものであるには違いないだろう。

 ところで、自殺をどう捉えるかということについては、人により文化により思想により、例えば“自殺は罪悪だ!”から“尊厳ある死だ!”まで、“一時の気の迷い”から“運命の必然”まで、“魂の救済”から“虚無への消滅”まで、“悲劇的なロマン”から“実存的苦悩の帰結”まで、“自殺”から“自死・自決”まで、おそらく無限のグラデーションをもった多種多様な見方がありうる。

 その中で、本書の自殺に関するすべての記述は、冒頭に宣言された「生きるなんてどうせくだらない」「自殺は終わらない世界を終わらせるためのポジティブな行為だ」という、一つの特殊なコンテクストだけを選択し、それをどこまでも忠実になぞっているにすぎない。
 「あらゆるベクトルは『どうやって自殺するか』という方向に向いている」のは、著者自身の“ゴタク”で明かされた目的に沿う表現にほかならないのである。

 つまり本書のあらゆるところに、「はじめに」で表明された特有なものの見方へのこだわりを指摘できるということだ。そのフラットを装った表面の下に書き手の隠微な意図が潜んでいるのを、必要であれば随所で論証することもできよう。
 それはおそらくひじょうに徒労感をおぼえる作業になるだろうが。

 このように、著者は卑怯にも外面・表層の言葉の背後に隠れて、彼自身のナイーヴな動機を存在しないことにしようとしているわけだが、それにしては冒頭のニヒルに徹しきった語りは、陳腐だが執拗で鋭利で、ある種の実感がこもってはいなかっただろうか?

 しかし結局、彼は本書の末尾においても「あれは取って付けた話にすぎない」と、あらためて自分の意図らしきものを全部否定してみせる。あきらかにそれがあると見て取れる彼自身の視点へのこだわりを、そこまで無いものにしておきたいのはなぜなのか?

 それは、あたかも本が先にあって著者が後から出現するというような、ありえないまやかしにほかならないなのだが。


 このように、本書で語られる言葉はどこまでも軽く薄く、そして矛盾に満ちている。

 人の内面を見ることを拒絶し(あるいはほんとうにできないのかもしれない)、にもかかわらず自分の内面の動機を(後で見るようにそれがどのように低劣なものであっても)表現しながら、同時にその動機自体を否定してみせる、著者の皮相で欺瞞に満ちた言葉は、その最初から信用しがたい。

 本書は、自殺を否定し生を肯定しようとする、あらゆる常識的な言葉を、すべて嘲笑し拒絶する。そしてそのことによって、いわば人を生に向けて動機づける一切の言葉への無力感・不信感を表現しようとしている。

 つまり著者は、言葉が心に及ぼす影響力というものを、基本的にまったく信用していないという態度をとっている。流行の価値相対主義の波に乗っかって、言葉に「意味」や「価値」を読み取るのは幻想だ、言葉の影響力を拒絶することこそがクールであり真理だと、そう言いたいのだろう。

 そして、言葉によってリアリティを構築するような幻想に気づき、幻想をすべて拒絶している自分は、その幻の中で“生きる意味”などを“熱く”語ったりしているすべてのくだらない常識的な人間にくらべて、はるか高みに立っているのだ、とでも言いたげだ。

 「自殺を止める有効な言葉はとっくになくなってしまった」と、著者は彼自身の言葉をもって断定する。自分の言葉に限っては、そのように無前提・無根拠な価値判断を下す力があるというわけだ。

 しかし、そうした著者の暗黙の意図は、通俗ニヒリズムという思考内容・思想、つまり言葉のシステムとして彼の内面に構築されたものであるのは確実だ。「こうして無力感を抱きながら延々と同じことを繰り返す僕たち」、すなわち“暴力的に空虚な世界における無力な被害者”という物語として。

 さらにその表現は当然ながら彼自身の言葉に依っており、そのメッセージは本書でやっているごとくすべて言葉によって伝達され、それを真に受けた人間にある種の“真理”の言葉であると受け取られ、相応の影響力を発揮して信奉者を得たりする。

 つまり、言葉一般の真実性を全部否定しさるその自分の言葉だけは疑いのない真実だ、という暗黙の前提がここにある。すべて相対的で正しいものなどない世界でただ一人真理をつかんだ自分、という疑いのないナルシシズム。その根本的な遂行矛盾に気づいているのだろうか?

 読めばすぐに明らかなとおり、(前に扱った『人格改造』と同様に)世の常識的な言葉一般を否定し攻撃する著者は、そうやって自分の語る言葉に限ってきわめて愛着し信頼し、それを伝えることに大いに意味を感じていることは確実だ。

 先に明らかにした自分自身の動機を無いことにしようとする著者の欺瞞的な態度は、その “恥ずかしい” 根本的な自己矛盾を隠蔽するためのものであることが、ここに見て取れるだろう。



 したがって、そのいちいちの言葉をあげつらうのは、煙を手で掴まえようとするのと同じく無意味で、どこまでも後退して逃げる敵に正面から取り組もうとするのと同じくまったく非生産的だ。きっとそれはとても退屈な作業になることだろう。

 だから、そういう空虚な世界を見ている著者の視界の盲点を衝くこと、小さくて薄っぺらくて陰惨な物語を紡ぎ出している彼自身の物語を暴露し解体すること、喋ることに夢中でおろそかになっているその足下を払って引き倒すことに、ここでは集中することにしよう。


by type1974 | 2005-09-28 14:08


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