〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

ロストジェネレーション補完計画 4

2007-03-16 | ロストジェネレーション論
4.内面の焦土・外面の危機


 そういうわけで、歴史的な理由も原因もあっての集団的‐内面的な病理情態として、いま多くの同世代の私たちは悲しいことに、「アナタの人生に一切意味はない」「ないないづくしでやりきれない、それでもアナタは生きている」といったニヒルなセリフこそがリアルだと感じられ心の琴線に触れてしまうような空虚な生き方を、選ばざるを得ず選んでしまっているわけです。

(そんなふうに先行世代がわれわれに用意してくれた、いわば「言葉の戯れ」としての「毒」には、きわめて自己欺瞞的で、そしてかなり恥ずかしい錯覚が含まれていることも、本論を通して見ていきたいと思います)

 もちろん比喩としてのイメージにすぎませんが、その様はあたかも、徹底的な焦土化を企図した無差別爆撃が完了し、遠く地平線まで見渡せるようになった白茶けた焼け野原の光景に似ています。
 そんなふうに多くの私たちは、内面の喪失‐崩壊の中で孤独に佇み、茫然としていまだ行き先を知らないかのようです。
 まるで焦土に残された廃墟のように――

 しかし60年前の徹底的な敗戦を経験した私たちの祖父母の世代は、その後の文字通り「ないないづくし」の物質的な窮乏にもかかわらず、あすの生活のため、子供たちのため、まだ見ぬ将来世代のため、それらを包括した新日本の建設のため、眼前の焦土から奮起することのできる内面を持ち合わせていました。

 そんな祖父母の世代が将来に夢見た、しかし当時からすれば考えられなかっただろうくらいの、モノの捨て場に困るような空前の物質的放縦を享受しているはずの私たちが、にもかかわらず彼らに比べてきわめて未熟で脆弱なままの「内面の焦土」とでもいうべき心の貧窮に取り残されているのは、歴史の皮肉とは言えないでしょうか。

 そう、満たされぬものがあまりにも多いという意味で、そしてそのために社会全体および次世代のことを見越した適切な社会的行動がほぼまったくできていないという意味において、残念ながら貧しく病理的であると問題視されてもしかたのない、私たち世代の生き方の現状があるわけです。

 しかし、私たちがこの先社会において責任を担っていく前提として、しそこなってきた発達課題――「大人になる」という――にとりくむためには、アイデンティティ・ロストからくる個人さらには世代一般の問題があることを認めざるをえないし、またその必要があると思うのです。

 できるのなら、終わりなく続く「成熟社会」のなか、親のすねをかじっていつまでもまったりと逃避し、未成熟なまま指をしゃぶってまどろんでいたいところですが、それがもはや私たちの生きる社会の先行きからして許されていないのは、たぶん皆さんもよくご存知のとおりです。
 
 私たちは今後、年齢を重ねるとともに社会の中核としてますます重くなる責任を担わなければなりません。
 そしてそれは同時に、次の世代の子供たちによりまっとうな社会を残す世代的な責任を負っているということです。
 しかもことは全体として持続不可能な危機にすでに突入している世界とりわけ日本においてなのですから、たぶん逃げ場はありません。

 果たしてこのような内面的な惨状で、外面の世界におけるかつてない危機に、いったいどこまで踏みとどまって責任的に対応することができるのか。
 わが世代の一員ながら、それはかなり困難であると思われてならないのです。

 ……むろん、このままであれば。



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