(承前)
ペリー医師はウォーレン委員会の聴取において、事件直後の記者会見における上述の簡潔明瞭な説明を翻し、「喉の傷が前か後ろのどちらからのものかは明言できない」と語っている。リフトンは、そこに証言の場での委員アレン・ダレスによる露骨な心理的圧迫があったことを指摘している。
※事件の翌年1964年9月、ジョンソン大統領に報告書を提出するウォーレン委員会メンバーたち。分厚い報告書を手に持つジョンソン大統領の背後に立つ蝶ネクタイの老人がダレスである。彼はケネディが危険視し事件に先立って罷免したCIA長官であり、戦後の米国諜報の立役者である。そんな人物がケネディ暗殺事件の調査委員に名を連ねているのである。後に大統領となるフォードをはじめとする他の委員たちが恭しい態度で大統領に目を向けている中、一人大統領の背後に立ち、あらぬ方向に目を向けて葉巻を手に持つこの人物の態度はこの写真をよる限り相当に尊大で、彼の人となりをよく現しているように見える。
リフトンによる限り、法的ルールにもとづいて下される大統領特別調査委員会の結論に先んじて、それに反する個人的所見を世間に公表し、調査に混乱を招いたことの責任を問われたペリーが、ここに来て判断をあえて差し控えたのは明らかである。
一方、キリスト教の伝統の中にある彼は、宣誓下で虚偽証言をすることもできなかったのだろう。結局、最重要の証言者であるはずの彼は、委員会公聴会において、遺体の状態の説明に関し「入口か出口か」の判断は避ける形で、先述のとおり見た事実だけを淡々と述べることに終始した。「嘘を言うことはできない。事実に基づいて判断はお任せする」ということだったのだろう。
宣誓下にあることが証言の証拠能力を裏付けるほど、米国では宣誓なるものが重視されている(少なくともこの時代には)。その事情は、宣誓とは単に形式上のものにすぎないと思っている日本人にとって実感しがたいものがある。
しかし逆に言うなら、後年のしかも第三者であるわれわれは、米国特有の法的思考にも、「宣誓」なるものにまつわる宗教的束縛にも囚われる必要はない。逆にそうした束縛からフリーで考えることができるはずである。
では、ウォーレン委員会の結論と文字通り180度異なる所見を断定的に語っていた記者会見でのペリー医師の発言について、委員会報告書にはどのように記載されているだろうか。
報告書がこの発言をあえて次のような調子で取り上げていることからも、記者会見での発言がウォーレン委員会で問題視されたことが読み取れる。
この記事所収の発言に関し、報告書は次のような判断をわざわざ下している。
この批判的注釈は、どう読んでも報道にあるペリー医師のコメントの意図的な誤読にもとづくものであり、何か子供じみた強弁とすら見えてしまう。報告書が引用している新聞記事は確かに言葉足らずだが、ペリー医師が記者会見の場で次のように語っていたのに対応しているのは間違いない。
QUESTION-
Doctor, is it the assumption that it went through the head?
DR. MALCOM PERRY-
That would be on conjecture on my part. There are two wounds, as Dr. Clark noted, one of the neck and one of the head. Whether they are directly related or related to two bullets, I cannot say.
質問 先生、その〔頸部から入った〕銃弾が頭部へ抜けていったというのは仮定の話ですか?
マルコム・ペリー医師 それは私の処置した範囲での推測です。クラーク医師も述べたように、傷は頸部に一つ、頭部に一つです。それらが直接関係しているのか、二発の銃弾がかかわっているのか、私には述べることができません。
※パークランド病院での問題の記者会見の様子 中央の講壇に立つのがM・ペリー医師。この時点で大統領の死亡確認からわずか1時間20分足らず、大統領の傷の記憶は明確だったはずで、詰めかけるこれらの報道陣の前で、彼がいい加減な応答をしたとは思えない。
要するに、「確認された傷は喉の小穴と後頭部の大穴の二つのみ。銃撃が一発だったのならば、喉元の銃創が入口である以上、頭部銃創が同じ弾丸の出口だったことも『ありうる』だろう」と語っている。それを省略して、新聞記事が趣旨のみ手短に記述しているのは疑問の余地がない。
にもかかわらず「頸部の傷が銃弾の入口だったことも『ありうる』」という話にすり替えてしまっている。
少し考えれば、報道記事を引用するのになぜわざわざこんな注釈が必要なのかという疑問が直ちに生じる。こうしてわざわざ取り上げている以上、ペリー医師の発言は委員会にとっても明らかに重要なものだったのだ。だとすれば、そうした発言があったという事実を記す以上の事を、事件の調査報告書がすべきとは思われない。
確かにウォーレン報告書は報道された彼の発言(しかもまずい形での要約)をそのまま掲載してはいる。しかし置かれた文脈によって、その意味付けは記者会見の場での発言の単純明快な真意と全く異なるものとなっている。
これぞ、まさしく典型的な「編集の詐術」であろう。
しかし、実際のところこれはかなり稚拙な詐術でもある。不自然な編集をあえて加えることで、却って編集者の意図を暴露してしまっているからである。
この記者会見の前掲の文字起こしはホワイトハウスが行ったもので、リフトンが同書にかかわる調査の中で後年発見したものである。つまりウォーレン委員会の活動期間ではまだ一般に存在が知られていなかった。ウォーレン報告書におけるペリー医師の発言の不自然な曲解は、この文字起こしが存在しないことを前提に書かれているのである。
このため文字起こしが閲覧できる今では、ペリー医師の発言と突き合わせることで、報告書が批判しているまさにその点こそ、編集側にとっての問題の焦点だったことが読み取れてしまうのだ。
ウォーレン委員会の意図とは、それが何を否定しているかに現れている。ペリー医師は喉元の傷が「前から」と繰り返し明言し、あまつさえそれを事件最初期の段階で報道を通じて広く全国に公表してしまった。そのことを否定し去らねばならない。そして「後方からのオズワルドの一発」という虚構に、事実のほうを無理矢理でも合致させねばならない――そんな明確な意志が、ここに皮肉な形で浮き彫りになっている。
注意すべきは、ペリー医師が公聴会でけっして虚偽を述べたわけではないことであろう。逆に銃創に関して経験豊かな現場の医師として、喉元の穴を銃弾の出口とは判定しないとの意思をも暗に示している。その傷をもとの状態のまま見た数少ない人物の一人として、入口であることの明言は避けたものの、それが出口だとの判断もまた拒否しているのだ。医師として、また市民として、神に誓っての良心であっただろう。
以上より、これらパークランド病院の医師たちの証言によって、オズワルドによる背後からの銃撃による頸部被弾が改めて明確に否定され、前方からの狙撃によるものだったことが明らかになった。このことは、ザプルーダー・フィルム227コマ目で生じている頚部被弾と見られる様子に対応している。
「一発説」が虚構であり、前方に別の狙撃手がいたことが、フィルムの視覚的証拠からも救命に当たった外科医の証言からも裏付けられるのである。
※上から、ザプルーダー・フィルムの第226、227、228コマ目(再掲) 大統領は226コマ目まで、両手を胸の高い位置の辺りに当てている。これはちょうど背中の上部(肩の線の下14センチ)に受けた銃弾の位置に対応している。この動きは大統領が看板の陰から再び現れた224コマ目から連続しており、さらに看板に隠れる直前の辺りから続くものだと見受けられる。そして一瞬ブレる227コマ目のあと、228コマ目から急に両腕を水平にして両手を喉元の位置まで上げる動作をしている。手が押さえている位置は、医師たちが証言した「喉仏の下」の辺りである。なお前方からの射撃だとすれば、その位置はリムジンのフロントのウィンドシールドに阻害されない右前方、ザプルーダーの立つ位置に近い背後の辺り(陰謀説の焦点である芝の斜面=グラッシーノール)以外に考えるのは難しい。227コマ目の画像のブレは、彼の近辺で起こった銃声への反応である可能性が高い。224コマ目と確定されるコナリー知事の被弾のあと、大統領の前方からの頸部被弾はわずか3コマ以内の出来事であったことになる。両者の時間間隔はわずか0.1秒未満。ほぼ同時に引き金が引かれた、よく統制された交差射撃だったことが確認できる。誰がどのように統制していたのか、その推測は後ほど述べていきたい。
先述のとおり、フィルムが写し取った大統領は、一瞬コマがブレた227コマ目で頸部の高い位置を押さえる動作に入っている。これは前方からの頸部への被弾に伴う反応と見るのが自然だ。ペリー医師をはじめパークランド病院の医療スタッフが見たのは、この瞬間に生じた銃弾の入り口の穴であったに違いない。
そのことを別の最重要証言もまた裏付けていることを以降で見ていきたい。それはリムジン上の人物の証言である。
ペリー医師はウォーレン委員会の聴取において、事件直後の記者会見における上述の簡潔明瞭な説明を翻し、「喉の傷が前か後ろのどちらからのものかは明言できない」と語っている。リフトンは、そこに証言の場での委員アレン・ダレスによる露骨な心理的圧迫があったことを指摘している。
※事件の翌年1964年9月、ジョンソン大統領に報告書を提出するウォーレン委員会メンバーたち。分厚い報告書を手に持つジョンソン大統領の背後に立つ蝶ネクタイの老人がダレスである。彼はケネディが危険視し事件に先立って罷免したCIA長官であり、戦後の米国諜報の立役者である。そんな人物がケネディ暗殺事件の調査委員に名を連ねているのである。後に大統領となるフォードをはじめとする他の委員たちが恭しい態度で大統領に目を向けている中、一人大統領の背後に立ち、あらぬ方向に目を向けて葉巻を手に持つこの人物の態度はこの写真をよる限り相当に尊大で、彼の人となりをよく現しているように見える。
リフトンによる限り、法的ルールにもとづいて下される大統領特別調査委員会の結論に先んじて、それに反する個人的所見を世間に公表し、調査に混乱を招いたことの責任を問われたペリーが、ここに来て判断をあえて差し控えたのは明らかである。
一方、キリスト教の伝統の中にある彼は、宣誓下で虚偽証言をすることもできなかったのだろう。結局、最重要の証言者であるはずの彼は、委員会公聴会において、遺体の状態の説明に関し「入口か出口か」の判断は避ける形で、先述のとおり見た事実だけを淡々と述べることに終始した。「嘘を言うことはできない。事実に基づいて判断はお任せする」ということだったのだろう。
宣誓下にあることが証言の証拠能力を裏付けるほど、米国では宣誓なるものが重視されている(少なくともこの時代には)。その事情は、宣誓とは単に形式上のものにすぎないと思っている日本人にとって実感しがたいものがある。
しかし逆に言うなら、後年のしかも第三者であるわれわれは、米国特有の法的思考にも、「宣誓」なるものにまつわる宗教的束縛にも囚われる必要はない。逆にそうした束縛からフリーで考えることができるはずである。
では、ウォーレン委員会の結論と文字通り180度異なる所見を断定的に語っていた記者会見でのペリー医師の発言について、委員会報告書にはどのように記載されているだろうか。
報告書がこの発言をあえて次のような調子で取り上げていることからも、記者会見での発言がウォーレン委員会で問題視されたことが読み取れる。
Dr. Perry's recollection of his comments is corroborated by some of the news stories after the press conference. The New York Herald Tribune on November 23, 1963, reported as follows:
Dr. Malcolm Perry, 34, attendant surgeon at Parkland Hospital who attended the President, said he saw two wounds one below the Adam's apple, the other at the back of the head.
He said he did not know if two bullets were involved. It is possible, he said, that the neck wound was the entrance and the other the exit of the missile.
ペリー医師の自身のコメントに関する記憶は、記者会見後の複数の報道記事によって裏付けられる。1963年11月23日付けのニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は次のように報じている。
「パークランド記念病院で大統領の救命処置に当たった外科医であるマルコム・ペリー医師(34歳)は、『喉仏の下と後頭部にある二つの傷を見た』と語った。同医師は『二つの銃弾が関わっているのかはわからない。頚部の傷が入口で、もう一つの傷が銃弾の出口であることはありうる』と述べた」。
Dr. Malcolm Perry, 34, attendant surgeon at Parkland Hospital who attended the President, said he saw two wounds one below the Adam's apple, the other at the back of the head.
He said he did not know if two bullets were involved. It is possible, he said, that the neck wound was the entrance and the other the exit of the missile.
ペリー医師の自身のコメントに関する記憶は、記者会見後の複数の報道記事によって裏付けられる。1963年11月23日付けのニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は次のように報じている。
「パークランド記念病院で大統領の救命処置に当たった外科医であるマルコム・ペリー医師(34歳)は、『喉仏の下と後頭部にある二つの傷を見た』と語った。同医師は『二つの銃弾が関わっているのかはわからない。頚部の傷が入口で、もう一つの傷が銃弾の出口であることはありうる』と述べた」。
この記事所収の発言に関し、報告書は次のような判断をわざわざ下している。
According to this report. Dr. Perry stated merely that it was "possible" that the neck wound was a wound of entrance. This conforms with his testimony before the Commission, where he stated that by themselves the characteristics of the neck wound were consistent with being either a point of entry or exit.
この報道によれば、ペリー医師は単に「頚部の傷が銃弾の入口であることは『ありうる』」と述べているにすぎない。このことは同医師が委員会の前に自ら述べた「頚部の傷の特徴はそれ自体、入口または出口の穴のどちらとも合致する」との証言を裏付けるものである。
(『ウォーレン委員会報告書』90~91ページ)
この報道によれば、ペリー医師は単に「頚部の傷が銃弾の入口であることは『ありうる』」と述べているにすぎない。このことは同医師が委員会の前に自ら述べた「頚部の傷の特徴はそれ自体、入口または出口の穴のどちらとも合致する」との証言を裏付けるものである。
(『ウォーレン委員会報告書』90~91ページ)
この批判的注釈は、どう読んでも報道にあるペリー医師のコメントの意図的な誤読にもとづくものであり、何か子供じみた強弁とすら見えてしまう。報告書が引用している新聞記事は確かに言葉足らずだが、ペリー医師が記者会見の場で次のように語っていたのに対応しているのは間違いない。
QUESTION-
Doctor, is it the assumption that it went through the head?
DR. MALCOM PERRY-
That would be on conjecture on my part. There are two wounds, as Dr. Clark noted, one of the neck and one of the head. Whether they are directly related or related to two bullets, I cannot say.
質問 先生、その〔頸部から入った〕銃弾が頭部へ抜けていったというのは仮定の話ですか?
マルコム・ペリー医師 それは私の処置した範囲での推測です。クラーク医師も述べたように、傷は頸部に一つ、頭部に一つです。それらが直接関係しているのか、二発の銃弾がかかわっているのか、私には述べることができません。
※パークランド病院での問題の記者会見の様子 中央の講壇に立つのがM・ペリー医師。この時点で大統領の死亡確認からわずか1時間20分足らず、大統領の傷の記憶は明確だったはずで、詰めかけるこれらの報道陣の前で、彼がいい加減な応答をしたとは思えない。
要するに、「確認された傷は喉の小穴と後頭部の大穴の二つのみ。銃撃が一発だったのならば、喉元の銃創が入口である以上、頭部銃創が同じ弾丸の出口だったことも『ありうる』だろう」と語っている。それを省略して、新聞記事が趣旨のみ手短に記述しているのは疑問の余地がない。
にもかかわらず「頸部の傷が銃弾の入口だったことも『ありうる』」という話にすり替えてしまっている。
少し考えれば、報道記事を引用するのになぜわざわざこんな注釈が必要なのかという疑問が直ちに生じる。こうしてわざわざ取り上げている以上、ペリー医師の発言は委員会にとっても明らかに重要なものだったのだ。だとすれば、そうした発言があったという事実を記す以上の事を、事件の調査報告書がすべきとは思われない。
確かにウォーレン報告書は報道された彼の発言(しかもまずい形での要約)をそのまま掲載してはいる。しかし置かれた文脈によって、その意味付けは記者会見の場での発言の単純明快な真意と全く異なるものとなっている。
これぞ、まさしく典型的な「編集の詐術」であろう。
しかし、実際のところこれはかなり稚拙な詐術でもある。不自然な編集をあえて加えることで、却って編集者の意図を暴露してしまっているからである。
この記者会見の前掲の文字起こしはホワイトハウスが行ったもので、リフトンが同書にかかわる調査の中で後年発見したものである。つまりウォーレン委員会の活動期間ではまだ一般に存在が知られていなかった。ウォーレン報告書におけるペリー医師の発言の不自然な曲解は、この文字起こしが存在しないことを前提に書かれているのである。
このため文字起こしが閲覧できる今では、ペリー医師の発言と突き合わせることで、報告書が批判しているまさにその点こそ、編集側にとっての問題の焦点だったことが読み取れてしまうのだ。
ウォーレン委員会の意図とは、それが何を否定しているかに現れている。ペリー医師は喉元の傷が「前から」と繰り返し明言し、あまつさえそれを事件最初期の段階で報道を通じて広く全国に公表してしまった。そのことを否定し去らねばならない。そして「後方からのオズワルドの一発」という虚構に、事実のほうを無理矢理でも合致させねばならない――そんな明確な意志が、ここに皮肉な形で浮き彫りになっている。
注意すべきは、ペリー医師が公聴会でけっして虚偽を述べたわけではないことであろう。逆に銃創に関して経験豊かな現場の医師として、喉元の穴を銃弾の出口とは判定しないとの意思をも暗に示している。その傷をもとの状態のまま見た数少ない人物の一人として、入口であることの明言は避けたものの、それが出口だとの判断もまた拒否しているのだ。医師として、また市民として、神に誓っての良心であっただろう。
以上より、これらパークランド病院の医師たちの証言によって、オズワルドによる背後からの銃撃による頸部被弾が改めて明確に否定され、前方からの狙撃によるものだったことが明らかになった。このことは、ザプルーダー・フィルム227コマ目で生じている頚部被弾と見られる様子に対応している。
「一発説」が虚構であり、前方に別の狙撃手がいたことが、フィルムの視覚的証拠からも救命に当たった外科医の証言からも裏付けられるのである。
※上から、ザプルーダー・フィルムの第226、227、228コマ目(再掲) 大統領は226コマ目まで、両手を胸の高い位置の辺りに当てている。これはちょうど背中の上部(肩の線の下14センチ)に受けた銃弾の位置に対応している。この動きは大統領が看板の陰から再び現れた224コマ目から連続しており、さらに看板に隠れる直前の辺りから続くものだと見受けられる。そして一瞬ブレる227コマ目のあと、228コマ目から急に両腕を水平にして両手を喉元の位置まで上げる動作をしている。手が押さえている位置は、医師たちが証言した「喉仏の下」の辺りである。なお前方からの射撃だとすれば、その位置はリムジンのフロントのウィンドシールドに阻害されない右前方、ザプルーダーの立つ位置に近い背後の辺り(陰謀説の焦点である芝の斜面=グラッシーノール)以外に考えるのは難しい。227コマ目の画像のブレは、彼の近辺で起こった銃声への反応である可能性が高い。224コマ目と確定されるコナリー知事の被弾のあと、大統領の前方からの頸部被弾はわずか3コマ以内の出来事であったことになる。両者の時間間隔はわずか0.1秒未満。ほぼ同時に引き金が引かれた、よく統制された交差射撃だったことが確認できる。誰がどのように統制していたのか、その推測は後ほど述べていきたい。
先述のとおり、フィルムが写し取った大統領は、一瞬コマがブレた227コマ目で頸部の高い位置を押さえる動作に入っている。これは前方からの頸部への被弾に伴う反応と見るのが自然だ。ペリー医師をはじめパークランド病院の医療スタッフが見たのは、この瞬間に生じた銃弾の入り口の穴であったに違いない。
そのことを別の最重要証言もまた裏付けていることを以降で見ていきたい。それはリムジン上の人物の証言である。
奧菜って人の記事読んでみろよ
陰謀論憤死(笑)
https://profile.ameba.jp/ameba/jfktruth
論証がバランスを極めて欠いている上に、「陰謀論者」といういわば「敵」を設定して、それに対して絶対正しい公式説及び奧菜氏自身という、単純明快な白黒二分法があまりにもあからさまです。
何か精神的失調の心配される人物という感じがします。だから批判の形であれ陰謀論にのめり込むのか。こうした人物が何冊も本を書いているらしく・・・読みたくね~~