〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

内部からの視点――ロストジェネレーション論5

2007-01-29 | ロストジェネレーション論
 今後の書き込みにあたり、話題となったという朝日新聞の企画記事「ロストジェネレーション」を改めて読んでみたが、それは同世代のど真ん中にいる者の“内部”の視点からは、失望というほかにない内容だった。

 これから同連載に対してしばらく展開する批判的な見方は、もちろん書いている自分の視野の狭さがもたらしているものだということは自覚しておきたいと思う。
 結局これも主観的な「読み」の、バリエーションのひとつなのだろう。

 しかしそれだけでなく、世論の方向性を誘導する力のある大新聞が、このような形でわが世代を描き出したことそれ自体に内在する問題を指摘することには、一定の意味があると思いたい。
 またあわせて、今後「ロストジェネレーション」自身による同世代論として書き進めていく上での、ひとつのたたき台にできると考えたのだ。

 主要な批判点としては、読んだ限りで見て取れた、次の三点を取り上げていくつもりである。

1)一連のエピソード的記事の「物語」は、一貫して最近とみに露骨になってきたこの競争社会における「勝ち組-負け組」という価値軸・テーマ・コンテクストをなぞるかたちで構成されたものであり、それが前提としている常識的に典型的な「負け組=被害者」観それ自体が、大多数の「ロストジェネレーション・負け組」の生きる気力を殺ぎ、ある種の絶望感を増幅している、ほかならぬ当のものであること。

2)そういうふうに「ロストジェネレーション」の典型的な「さまよえる」生き方として同特集が読み取り描写しているものが、あまりにも人生の外面、とりわけ労働-雇用の問題に偏っていること、一方で、そういう外的な現象の背景に原因として広く潜在していると思われる(そして同連載も多くのところでそれを示唆していたはずの)この世代の内面・心のある種の脆弱性という根本の問題、そしてそれを押えることではじめて見えてくるであろう指針が、ほぼ完全にないがしろにされていること。

3)そして一連の記事のすべてがほとんど無前提に、それこそ唯一の価値であり同世代が今後追求していくべき希望の薄明かりの根拠であるとしている「個人の自由」なるものが、単に「個人として社会的束縛からフリーである」というような、ひどく狭く限定的な、いわば退行的なレベルにとどまったものであること、その結果、「自由」であり「個人」であることには本来、その存在自体を支えているさまざまなレベルのつながりを維持していく、社会人-大人としての責任が必然的に不可分に伴うという重要な側面があることが、文字通りまったく現われていないということ。

 このように同特集の論調にきわめてわかりやすいかたちで典型的に示されているものとは、現代に生きるぼくらの――そしてたぶんかなり日本特有の――人生観の問題だと思われるのである。
 そしてそれこそが、多くのわれら「ロストジェネレーション」が内に共有している問題の核心にあるものなのではないか。

 それはわが世代にとってほとんど空気のごとく自明となったものの見方であるために自覚しがたく、検討以前に疑いなく「正しい」とされているものだと思われる。
 だからその枠組みの中にいると問題それ自体を認識しがたいし、まして実際に克服する展望を得ることは困難だろう。

 したがって、ぼくらの内にある問題を克服する上で、この記事を俎上にのせて何かを語ることも、それなりに意味があることではないかと思われるのである。


コメントを投稿