〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

反・ロストジェネレーション論6

2007-01-31 | ロストジェネレーション論
【表題変更…“名付け親”である朝日新聞特集を取り上げてみた結果、今後書くことがその指し示す内容と相反したものになることが見えてきたためで、メッセージとしては変わらずあくまで「ロストジェネレーション」による同世代論(となる予定)です】


 さて、そういうわけで、単に自分の主観や実感にそぐわないということももちろんあるのだろうが、しかしそれをできる限り措いたつもりで考えてみても、この『朝日』の「ロストジェネレーション」特集における問題の切り取り方は、わが同世代の人生の“もがき”を理解・解釈する上で、ひどく狭く一面的で表層的に過ぎると思われてならないのであった。

 とりわけ、前に少し書いたように同特集において特徴的なのは、この世代の諸問題を、結局、「無職<非正規雇用<正社員<独立・起業」というような線に沿った労働の価値づけや収入、その他外面的な諸関係、ようするにカネの問題に収斂ないし還元してしまう方向付けがひじょうに強いということだ。

 就職、労働、生活、消費、そしてカネ――それらは確かにぼくらの人生、そしてそれを成り立たしめている社会の、きわめて重要な側面・要素には違いない。
 そしてそのあたりこそが、社会適応に弱く現実感覚に乏しいと記事において正確に描写されているように、われら「ロストジェネレーション」世代の“弱点”であるのもまちがいなく事実である。

 しかし、それがすべてなのだろうか?
 ぼくらが生きる地平とは、そういった外面のモノにまつわるあれこれ、ただそれだけなのか?

 しかもそういう基本的な方向付けに基づいて、連載の各エピソードのいずれもが、「勝ち組-負け組」というほとんどグラデーションのない両極端のゲージの上に、あるいはそういう社会的競争のアンチとしての「脱組」として、位置づけられているのを容易に見て取ることができる。
(いうまでもなく、「脱」とは一定の価値軸からの離脱にほかならない)

 そして手元にある(最終回を除く)11回の連載記事のすべて、加えて中途の別面特集の4回ともが、多分にその線を忠実になぞって構成された物語/解説であることから、これが単に主観的な読みに過ぎないのではないことがおそらく言えると思うのだが、いかがだろうか?


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