P・シノン『ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言 上・下』("A Cruel and Shocking Act: The Secret History of the Kennedy Assassination" ,Philip Shenon, 2013、邦訳2013年、文芸春秋)は、ケネディ暗殺50年を機に刊行された、渦中のウォーレン委員会関係者のインタビューを中心に構成されたノンフィクションである。
邦題では「50年目の証言」と銘打たれているので、「すわ事件の真相公開か」と期待すると完全に肩透かしを食らう、公式説ベッタリそのまま、というかそれ以上の残念な本である。筆者も上巻を購入し、一読して直ちに後悔した記憶がある。(本書はなぜか図書館の「アメリカ政治史」などの棚にはたいてい置いてあるので、ぜひそちらを当たっていただきたい)
オズワルドとキューバやソ連政府とのコネクション、それをCIAなどが監視下に置いていたことなどをもっともらしく取り上げることで、公式説=オズワルド単独犯行説を120パーセントまで補強することを企図したとしか見えない、まさに「五十年一日」の内容だと言って過言ではない。
全体を論っていると果てしがなくなるので、本連載では関連する部分毎に、これがいかにオズワルト単独犯行説をあくまで維持せんとする、ある種のヒステリックな「護教論」であるかを見て行きたいが、とりあえずここでは概括的に一言しておきたい。
しかし、それもまた結局徒労なのかもしれない。随所に見られる明らかな記述の綻びからすれば、そのことは著書・シノン自身が先刻承知のことだろうからだ。この一種の護教論は、おそらく間違いなく、「正統教義」が現実から遊離したドグマであることを熟知している人物が書いている。
何より、これまで見てきたように例えばザプルーダー・フィルムの僅か一コマが、オズワルドの単独犯行を完全に否定しているのである。
そうである以上、この上下二巻本の主張が真実に反するとの結論はもとより明らかである。膨大な根拠を持ち出して武装した本書の言葉は、それが執筆されたその瞬間に、すでに完全に無意味かつ無価値であったわけだ。
奥付によれば、著者はこの本の取材・執筆に五年をかけて取り組んだのだという。明らかな虚偽を維持せんがために、いかに多くの労力と言葉が費やされていることだろう。
それにしても、一体このシノンなる人物は五年もの年月をかけて何をしていたのか? まあ、人はそれが商売ならどんな汚れ仕事でもたいていは行うことはできる。それが「真実の隠蔽」という仕事であっても。
さて、しかし膨大な資料の裏付けを持つという、その点ではしっかりできたその文献的な体裁から、予備知識がない読者には一定の説得力を持つことだろう。ただし、そのほとんどが報告書とその付属資料ならびに委員会関係者のインタビューで占められていることに、読者はまず注意を要するが。
現に日本語版ウィキペディア「ウォーレン委員会」の出典は、大部分がこの本によって占められているほどだ。
一方、英語版の「warren commission」の記事は、さすが本家と言うべきか、このシノン著は出典としてひとつも挙げられていない(いずれも、2018年11月時点)。まともに取り合うほどのものではないということだろう。
この事件に興味のある方は、ぜひ念入りに眉に唾した上で、お読みいただきたい。
それはさておき、真相追及の観点からはどれほど消極的で空疎な内容であっても、実務者レベルにおいて(意思決定レベルではない)「かくも問題あるウォーレン報告書がいかなる過程で生み出されたのか」を追及するという観点からは、これを読むことにもなにがしかの意味はあるだろう。
要するに、この本の存在自体が、JFK暗殺事件を巡る言説において、現在も情報操作が公然となされていることを如実に示すものとなっている。巧妙化した現代版の世論操作に関する貴重な実例と言ってよい。
本文からも嗅ぎ取れるように、著書・シノンの「大手新聞社の司法省、国防総省、国務省付きの記者」という来歴からは、彼が政府寄りの言論人であることが見て取れる。
何より、本書の執筆の契機が、彼の9.11事件調査委員会に関する前著を見たウォーレン委員会実務者(ただし匿名)からの接触によるものだったことまで、ご丁寧に記されているのだ。
スタートがそうだということ(それすら疑おうと思えば疑えるが)は、この本がもとから公式説を広報すべく構成されるのは当然だったことを示している。
ここに「各種メディアを通じた官製プロパガンダ」という、この事件を巡る言説のお決まりの構図が露わになっている。
この本では、報告の成立過程で悪戦苦闘する委員会関係者の、人間臭いユーモアを交えた、焦点の定まらない平坦な叙述が続く。この読みにくさは訳の問題ではあるまい。
そして当時の委員会が迫り得なかった、オズワルドに関する上述の「限定暴露」が本書の最大の売りと言える。
しかし読み終わってみると「ネズミ一匹」的な印象のそれらを除けば、実は多くのページが、シノンがいう「陰謀説」「陰謀論者」の否定のために割かれている。むしろ実質的な焦点はそちらにあると言ってもよかろう。
しかしそこにはウォーレン報告以上の論拠はなく、あるのは印象操作による「陰謀論」の熱心なレッテル貼りだけである。
例えば先述の名誉棄損裁判を戦い抜いたマーク・レーン(本書では「レイン」)については次のような調子である。
そして件のジム・ギャリソンとその裁判については、邦訳では「イカれた検事ジム・ギャリソン」という短いチャプターで取り上げているが、その見出しのとおりの内容(信用失墜を目的とした一方的な決めつけ)に終始しており、ここであえて引用する気も起きないほどだ。興味のある人は本書を当たっていただきたい。
…いろいろ書いてきたが、要するに「これはひどい」という一言に尽きる。
このように読後に空虚な印象しか残らない本であるが、しかし、公式説側からのいわゆる「陰謀論」への攻撃の論点のすべてが散りばめられており、事件後50年を経て、この事件の真の焦点がどこにあるのかを、皮肉な形で明らかにしているとも見ることもできる。
以下、特に知事及び夫人の証言を委員会がどのように扱ったかを具体的に明らかにした本書のくだりは、ウォーレン委員会そのものの事件に対する姿勢を考える上で重要なので、適宜引用していきたい。
邦題では「50年目の証言」と銘打たれているので、「すわ事件の真相公開か」と期待すると完全に肩透かしを食らう、公式説ベッタリそのまま、というかそれ以上の残念な本である。筆者も上巻を購入し、一読して直ちに後悔した記憶がある。(本書はなぜか図書館の「アメリカ政治史」などの棚にはたいてい置いてあるので、ぜひそちらを当たっていただきたい)
オズワルドとキューバやソ連政府とのコネクション、それをCIAなどが監視下に置いていたことなどをもっともらしく取り上げることで、公式説=オズワルド単独犯行説を120パーセントまで補強することを企図したとしか見えない、まさに「五十年一日」の内容だと言って過言ではない。
全体を論っていると果てしがなくなるので、本連載では関連する部分毎に、これがいかにオズワルト単独犯行説をあくまで維持せんとする、ある種のヒステリックな「護教論」であるかを見て行きたいが、とりあえずここでは概括的に一言しておきたい。
しかし、それもまた結局徒労なのかもしれない。随所に見られる明らかな記述の綻びからすれば、そのことは著書・シノン自身が先刻承知のことだろうからだ。この一種の護教論は、おそらく間違いなく、「正統教義」が現実から遊離したドグマであることを熟知している人物が書いている。
何より、これまで見てきたように例えばザプルーダー・フィルムの僅か一コマが、オズワルドの単独犯行を完全に否定しているのである。
そうである以上、この上下二巻本の主張が真実に反するとの結論はもとより明らかである。膨大な根拠を持ち出して武装した本書の言葉は、それが執筆されたその瞬間に、すでに完全に無意味かつ無価値であったわけだ。
奥付によれば、著者はこの本の取材・執筆に五年をかけて取り組んだのだという。明らかな虚偽を維持せんがために、いかに多くの労力と言葉が費やされていることだろう。
それにしても、一体このシノンなる人物は五年もの年月をかけて何をしていたのか? まあ、人はそれが商売ならどんな汚れ仕事でもたいていは行うことはできる。それが「真実の隠蔽」という仕事であっても。
さて、しかし膨大な資料の裏付けを持つという、その点ではしっかりできたその文献的な体裁から、予備知識がない読者には一定の説得力を持つことだろう。ただし、そのほとんどが報告書とその付属資料ならびに委員会関係者のインタビューで占められていることに、読者はまず注意を要するが。
現に日本語版ウィキペディア「ウォーレン委員会」の出典は、大部分がこの本によって占められているほどだ。
一方、英語版の「warren commission」の記事は、さすが本家と言うべきか、このシノン著は出典としてひとつも挙げられていない(いずれも、2018年11月時点)。まともに取り合うほどのものではないということだろう。
この事件に興味のある方は、ぜひ念入りに眉に唾した上で、お読みいただきたい。
それはさておき、真相追及の観点からはどれほど消極的で空疎な内容であっても、実務者レベルにおいて(意思決定レベルではない)「かくも問題あるウォーレン報告書がいかなる過程で生み出されたのか」を追及するという観点からは、これを読むことにもなにがしかの意味はあるだろう。
要するに、この本の存在自体が、JFK暗殺事件を巡る言説において、現在も情報操作が公然となされていることを如実に示すものとなっている。巧妙化した現代版の世論操作に関する貴重な実例と言ってよい。
本文からも嗅ぎ取れるように、著書・シノンの「大手新聞社の司法省、国防総省、国務省付きの記者」という来歴からは、彼が政府寄りの言論人であることが見て取れる。
何より、本書の執筆の契機が、彼の9.11事件調査委員会に関する前著を見たウォーレン委員会実務者(ただし匿名)からの接触によるものだったことまで、ご丁寧に記されているのだ。
スタートがそうだということ(それすら疑おうと思えば疑えるが)は、この本がもとから公式説を広報すべく構成されるのは当然だったことを示している。
ここに「各種メディアを通じた官製プロパガンダ」という、この事件を巡る言説のお決まりの構図が露わになっている。
この本では、報告の成立過程で悪戦苦闘する委員会関係者の、人間臭いユーモアを交えた、焦点の定まらない平坦な叙述が続く。この読みにくさは訳の問題ではあるまい。
そして当時の委員会が迫り得なかった、オズワルドに関する上述の「限定暴露」が本書の最大の売りと言える。
しかし読み終わってみると「ネズミ一匹」的な印象のそれらを除けば、実は多くのページが、シノンがいう「陰謀説」「陰謀論者」の否定のために割かれている。むしろ実質的な焦点はそちらにあると言ってもよかろう。
しかしそこにはウォーレン報告以上の論拠はなく、あるのは印象操作による「陰謀論」の熱心なレッテル貼りだけである。
例えば先述の名誉棄損裁判を戦い抜いたマーク・レーン(本書では「レイン」)については次のような調子である。
蛙を口からはく男(見出し)
…レインの非公式なケネディ暗殺の調査は、彼の本業となった。彼はケネディの暗殺犯としてオズワルド以外の方向を指し示す証人や証拠をそこらじゅうで探した。
…(以下、証人の証言をレインが捻じ曲げたという事例が挙げられている)
委員会の法律家たちも、ウォーレンと同じようにレインを軽蔑していた。デイヴィッド・べリン(委員会スタッフ)はレインが、「入念に養われた誠意の仮面」を利用して、ケネディ暗殺を「生涯の飯のたね」にしようとしていると考えた。ジム・リーベラー(同。彼については先述)はレインの戦術を、「しゃべるたびに不実な男の口から跳びだしてくる蛙の古い伝説」にたとえた。蛙は男の嘘を表わし、「人はそれをつかむためにあらゆる方向に走らねばならない」のである。
(同264~266頁)
…レインの非公式なケネディ暗殺の調査は、彼の本業となった。彼はケネディの暗殺犯としてオズワルド以外の方向を指し示す証人や証拠をそこらじゅうで探した。
…(以下、証人の証言をレインが捻じ曲げたという事例が挙げられている)
委員会の法律家たちも、ウォーレンと同じようにレインを軽蔑していた。デイヴィッド・べリン(委員会スタッフ)はレインが、「入念に養われた誠意の仮面」を利用して、ケネディ暗殺を「生涯の飯のたね」にしようとしていると考えた。ジム・リーベラー(同。彼については先述)はレインの戦術を、「しゃべるたびに不実な男の口から跳びだしてくる蛙の古い伝説」にたとえた。蛙は男の嘘を表わし、「人はそれをつかむためにあらゆる方向に走らねばならない」のである。
(同264~266頁)
そして件のジム・ギャリソンとその裁判については、邦訳では「イカれた検事ジム・ギャリソン」という短いチャプターで取り上げているが、その見出しのとおりの内容(信用失墜を目的とした一方的な決めつけ)に終始しており、ここであえて引用する気も起きないほどだ。興味のある人は本書を当たっていただきたい。
…いろいろ書いてきたが、要するに「これはひどい」という一言に尽きる。
このように読後に空虚な印象しか残らない本であるが、しかし、公式説側からのいわゆる「陰謀論」への攻撃の論点のすべてが散りばめられており、事件後50年を経て、この事件の真の焦点がどこにあるのかを、皮肉な形で明らかにしているとも見ることもできる。
以下、特に知事及び夫人の証言を委員会がどのように扱ったかを具体的に明らかにした本書のくだりは、ウォーレン委員会そのものの事件に対する姿勢を考える上で重要なので、適宜引用していきたい。
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