先日行われた岡山県倉敷市玉島の乙島祭り。戸島神社の祭礼である。この祭礼は千歳楽(いわゆる太鼓台)、御船、獅子だんじりなどが登場するもので、毎年10月最終土日曜日に賑やかに行われる。
この戸島神社の祭礼は江戸時代後期にはほぼ現在の形が完成している。文政9(1826)年の養父母宮(戸島神社の旧名)の「御神幸行列帳」には、「御船」、「御輿太鼓」(現在の千歳楽、中山、川崎、船堀、高地地区)、「男獅子」、「女獅子」(畑、堀貫地区)の記録が見える。
千歳楽や御船は「大場物」といわれ、その巡幸の順番は祭礼に取り入れられた時代順、つまり制作年代順となっている。千歳楽で最初に出るのは、写真で紹介している中山地区のものである。
実はこの中山の千歳楽は、愛媛県に関連する伝承がある。
文政3(1820)年、伊予国で中古の千歳楽(太鼓台)が売り出されていたものを、地元中山の猪木與五兵衛義直が大半の金子を寄付し、購入したものだという。
これは平成7年に乙島祭り保存会が編集、発行した『乙島祭り写真集』に記載されている。
いまから約190年前に、伊予から岡山に太鼓台が渡っていることは非常に興味深い。今回は神社関係者や自治会長さんから事前に電話でお話をうかがって、現地では祭りで出ている中山の千歳楽の撮影に終始したが、文政年間に購入した経緯等を記した一次史料を確認することはできなかった。
しかし、祭礼の巡幸の順序が千歳楽導入の時代順となっており、しかもここでは詳細は省くが中山地区の歴史的な位置づけをいろいろ調べてみると、江戸時代に瀬戸内海を越えて千歳楽(太鼓台)を購入したという伝承には、無理がないような印象を持った。
伊予の側からいえば、東予地方では四国中央市にて「神輿太鼓」が寛政元(1789)年には登場し、同年には近隣の香川県大野原でも「ちょうさ太鼓」が登場している。また、文化3(1806)年には「神輿太鼓」が5台出ていたことが川之江の「役用記」からもわかっており、1800年代初頭には既に四国中央市では祭礼屋台の主流は「神輿太鼓」(いまの太鼓台)であった。1820年に売り出されて中山が購入したという話も、当時の伊予の祭礼の状況を考えても不可思議ではない。
なお、太鼓台といえば新居浜が有名であるが、新居浜における太鼓台の初見は文政5(1822)年であり、1820年に中山が購入が新居浜からだったかどうかは判断できない。新居浜の祭礼については文政9(1826)年の一宮神社の記録に「近年になってみこし太鼓というものがあらわれた」という旨の記述があり、1820年代頃に新居浜も太鼓台を導入したと推察されている。これについては新居浜市が発行している『新居浜太鼓台』に詳しい。
そして新居浜以西には、太鼓台は今治市、上島町、松山市沖の旧中島町、そして南予地方各地あるものの新居浜以東のような彫刻や刺繍飾りの発達したものはみられない。
以上のことから、中山の千歳楽は、四国中央市(川之江、三島)から購入されたと推測するのが妥当だと思われる。
参考までに10年ほど前、愛媛県内から県外に払い下げられた太鼓台を私がリスト化したことがあるが、そのリストメモを紹介してきたい。(大本敬久「愛媛の祭礼風流誌」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号)
香川県 丸亀市 上分の太鼓 昭和初期頃に川之江の上分より
香川県 丸亀市 二軒茶屋の太鼓 昭和初年に川之江より
香川県 坂出市 新浜太鼓台 昭和3年に新居浜田之上より
香川県 坂出市 浜西太鼓台 昭和5年に新居浜中須賀より
香川県 坂出市 新開太鼓台 大正10年代に新居浜より
香川県 観音寺市 西下太鼓台 明治時代後期に新居浜より
香川県 観音寺市 西上太鼓台 大正時代末期に新居浜より
香川県 観音寺市 明下太鼓台 明治32年頃に川之江方面から
香川県 観音寺市 新田太鼓台 明治時代中期に愛媛県から
香川県 観音寺市 室本太鼓台 明治時代中期に新居浜より
香川県 観音寺市 出作北太鼓台 明治28年頃に愛媛県より
香川県 観音寺市 出作南太鼓台 昭和12年頃に東予より
香川県 観音寺市 丸西太鼓台 昭和6年頃に西条より
香川県 観音寺市 丸中太鼓台 昭和11年に新居浜より
香川県 観音寺市 信末太鼓台 大正時代末期に伊予三島より
香川県 観音寺市 奥谷太鼓台 明治20年頃に土居より
香川県 観音寺市 常次太鼓台 明治10年代に愛媛県より
香川県 観音寺市 下野太鼓台 明治時代初期に伊予三島より
香川県 観音寺市 下出太鼓台 大正3年頃に新居浜より
香川県 観音寺市 山田太鼓台 明治18年頃に西条市飯岡より
香川県 満濃町 木の崎太鼓台 明治15年頃に伊予三島方面より
香川県 満濃町 杉の上太鼓台 明治30年頃に愛媛県より
香川県 山本町 下河内太鼓台 愛媛県から購入。年代不詳。
香川県 山本町 山本西太鼓台 昭和初期に新居浜久保田より
香川県 大野原町 本村太鼓台 大正5年に川之江川滝より
香川県 大野原町 中林太鼓台 昭和10年頃に東予より
香川県 財田町 大野地太鼓台 明治時代中期に伊予三島より
広島県 三原市 能地だんじり 明治時代に新居浜大江より大長を経る
広島県 豊町 大長櫓 明治20年頃に新居浜より
このリストメモを見ると、県外へ出た時期はすべて明治時代以降である。今回の中山の千歳楽(太鼓台)が江戸時代の文政年間に伊予から購入したという話は、これまで把握していた太鼓台県外流出の年代観を覆すものであり、1800年代前半には伊予の太鼓台(当時の呼称からすれば神輿太鼓)が新調を重ねるほど定着していたことが見えてくる。岡山県倉敷市の乙島祭り(戸島神社祭礼)は、伊予の祭礼の歴史を考える上で重要といえるのだが、これは乙島祭りに限ったことではない。瀬戸内海近県の祭礼を見ないと愛媛の中だけの材料で祭礼史を理解するのは難しい。
この戸島神社の祭礼は江戸時代後期にはほぼ現在の形が完成している。文政9(1826)年の養父母宮(戸島神社の旧名)の「御神幸行列帳」には、「御船」、「御輿太鼓」(現在の千歳楽、中山、川崎、船堀、高地地区)、「男獅子」、「女獅子」(畑、堀貫地区)の記録が見える。
千歳楽や御船は「大場物」といわれ、その巡幸の順番は祭礼に取り入れられた時代順、つまり制作年代順となっている。千歳楽で最初に出るのは、写真で紹介している中山地区のものである。
実はこの中山の千歳楽は、愛媛県に関連する伝承がある。
文政3(1820)年、伊予国で中古の千歳楽(太鼓台)が売り出されていたものを、地元中山の猪木與五兵衛義直が大半の金子を寄付し、購入したものだという。
これは平成7年に乙島祭り保存会が編集、発行した『乙島祭り写真集』に記載されている。
いまから約190年前に、伊予から岡山に太鼓台が渡っていることは非常に興味深い。今回は神社関係者や自治会長さんから事前に電話でお話をうかがって、現地では祭りで出ている中山の千歳楽の撮影に終始したが、文政年間に購入した経緯等を記した一次史料を確認することはできなかった。
しかし、祭礼の巡幸の順序が千歳楽導入の時代順となっており、しかもここでは詳細は省くが中山地区の歴史的な位置づけをいろいろ調べてみると、江戸時代に瀬戸内海を越えて千歳楽(太鼓台)を購入したという伝承には、無理がないような印象を持った。
伊予の側からいえば、東予地方では四国中央市にて「神輿太鼓」が寛政元(1789)年には登場し、同年には近隣の香川県大野原でも「ちょうさ太鼓」が登場している。また、文化3(1806)年には「神輿太鼓」が5台出ていたことが川之江の「役用記」からもわかっており、1800年代初頭には既に四国中央市では祭礼屋台の主流は「神輿太鼓」(いまの太鼓台)であった。1820年に売り出されて中山が購入したという話も、当時の伊予の祭礼の状況を考えても不可思議ではない。
なお、太鼓台といえば新居浜が有名であるが、新居浜における太鼓台の初見は文政5(1822)年であり、1820年に中山が購入が新居浜からだったかどうかは判断できない。新居浜の祭礼については文政9(1826)年の一宮神社の記録に「近年になってみこし太鼓というものがあらわれた」という旨の記述があり、1820年代頃に新居浜も太鼓台を導入したと推察されている。これについては新居浜市が発行している『新居浜太鼓台』に詳しい。
そして新居浜以西には、太鼓台は今治市、上島町、松山市沖の旧中島町、そして南予地方各地あるものの新居浜以東のような彫刻や刺繍飾りの発達したものはみられない。
以上のことから、中山の千歳楽は、四国中央市(川之江、三島)から購入されたと推測するのが妥当だと思われる。
参考までに10年ほど前、愛媛県内から県外に払い下げられた太鼓台を私がリスト化したことがあるが、そのリストメモを紹介してきたい。(大本敬久「愛媛の祭礼風流誌」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号)
香川県 丸亀市 上分の太鼓 昭和初期頃に川之江の上分より
香川県 丸亀市 二軒茶屋の太鼓 昭和初年に川之江より
香川県 坂出市 新浜太鼓台 昭和3年に新居浜田之上より
香川県 坂出市 浜西太鼓台 昭和5年に新居浜中須賀より
香川県 坂出市 新開太鼓台 大正10年代に新居浜より
香川県 観音寺市 西下太鼓台 明治時代後期に新居浜より
香川県 観音寺市 西上太鼓台 大正時代末期に新居浜より
香川県 観音寺市 明下太鼓台 明治32年頃に川之江方面から
香川県 観音寺市 新田太鼓台 明治時代中期に愛媛県から
香川県 観音寺市 室本太鼓台 明治時代中期に新居浜より
香川県 観音寺市 出作北太鼓台 明治28年頃に愛媛県より
香川県 観音寺市 出作南太鼓台 昭和12年頃に東予より
香川県 観音寺市 丸西太鼓台 昭和6年頃に西条より
香川県 観音寺市 丸中太鼓台 昭和11年に新居浜より
香川県 観音寺市 信末太鼓台 大正時代末期に伊予三島より
香川県 観音寺市 奥谷太鼓台 明治20年頃に土居より
香川県 観音寺市 常次太鼓台 明治10年代に愛媛県より
香川県 観音寺市 下野太鼓台 明治時代初期に伊予三島より
香川県 観音寺市 下出太鼓台 大正3年頃に新居浜より
香川県 観音寺市 山田太鼓台 明治18年頃に西条市飯岡より
香川県 満濃町 木の崎太鼓台 明治15年頃に伊予三島方面より
香川県 満濃町 杉の上太鼓台 明治30年頃に愛媛県より
香川県 山本町 下河内太鼓台 愛媛県から購入。年代不詳。
香川県 山本町 山本西太鼓台 昭和初期に新居浜久保田より
香川県 大野原町 本村太鼓台 大正5年に川之江川滝より
香川県 大野原町 中林太鼓台 昭和10年頃に東予より
香川県 財田町 大野地太鼓台 明治時代中期に伊予三島より
広島県 三原市 能地だんじり 明治時代に新居浜大江より大長を経る
広島県 豊町 大長櫓 明治20年頃に新居浜より
このリストメモを見ると、県外へ出た時期はすべて明治時代以降である。今回の中山の千歳楽(太鼓台)が江戸時代の文政年間に伊予から購入したという話は、これまで把握していた太鼓台県外流出の年代観を覆すものであり、1800年代前半には伊予の太鼓台(当時の呼称からすれば神輿太鼓)が新調を重ねるほど定着していたことが見えてくる。岡山県倉敷市の乙島祭り(戸島神社祭礼)は、伊予の祭礼の歴史を考える上で重要といえるのだが、これは乙島祭りに限ったことではない。瀬戸内海近県の祭礼を見ないと愛媛の中だけの材料で祭礼史を理解するのは難しい。