今治や宇和島での江戸~明治初期の七夕や盆行事に関する記述の紹介。
事例1 明治時代初期の今治地方の七夕 『国府叢書』巻二十三より
「七夕ノ節句ノ事 七月七日ヲ七夕ノ節句トテ、六日ノ夕ヨリ七夕祭リトテ、笹竹ニ短冊ヲ付シ、之レヲ庭内ニ建、供物等ヲナス事左ニ記ス。机上ニ供アルモノハ、水ノ子(茄子ヲ角ニ切リ、白米ヲ交ヘタル者)ヲ小サキ盆ニ盛リ、田瓜、団子、赤飯等ヲ供ス、又七夕ノ竿ヘハ、茄子、フロヲ及打燈ヲ釣リ、夜間ハ点火ス、七日ノ朝ハ早ク起キテ、男子ハ藁(新稲葉ヲ交ユ)ニテ縄ヲナイ、円形六寸計ノ輪ヲ二ツ拵ヘ、夫レヲ組合シ、之レヲ屋上ニ投シ置キ、女子モ同様早ク起キテ、麻苧ヲ以テ糸ヲ産シ、而シテ其糸ヲ机上ニ置ク、之レ全ク男女共ニ、万術ノ上手ニナラン事ヲ七夕ニ募ヘル義ナリ、建アル笹ハ七日ノ早朝多く海ニ流ス、供物ハ惣テ其夕方廃檀ノ後、之レヲ□□ニ与フルノ習慣トス(挿絵有り)」
*藁で輪を作って屋根の上に投げ上げる行為は、今治地方や周桑地方でも聞くことのできる独特の慣習。これはすでに少なくとも明治時代以前には行われていたことがわかる。
事例2 明治時代初期の今治地方の盆踊 『国府叢書』巻二十三より
「盆躍ノ事 七月八日ハ薬師、十七日ハ観音、廿一日ハ大師、廿三日ハ地蔵等ノ会日ニ付、其日ハ其所江壮年男女寄集リテ、霊前ニテ躍リ、其神佛ヲ慰ム、其外祖先ノ霊魂ヲ慰セントテ、各自庭内ニテ、躍ラシムル者モ多々アリシ、然レ共、藩法ニヨルト、奇異ナル風体ヲシ躍ル事停止セラル」
*「奇異ナル風体」とはどういう格好なのか?明浜や三瓶に残るような歌舞伎くずし踊りのようなものか?
事例3 明治時代初期の今治地方のマンド(万燈) 『国府叢書』巻二十三
「万燈ノ事 七月十四日十五日ノ二夜ハ、万燈ト唱ヘ、毎村山アル所ハ山ニ、山ナキ所ハ堤防或ハ道傍等ニテ、多数ノ篝火或ハ麦藁、松葉等ヲ壱荷位ツツ、数十ヶ所ニ積置キ、一時ニ火付ケ焚ク、其賑ハヒ実ニ盛なり、之モ全ク亡人ノ霊魂ヲ、慰ムル為ナリト云フ。此事ヲ司トルモノハ、毎村トモニ強壮ナルモノ村内毎戸より、右之品ヲ貰請ケテ、執行スルモノ也、今尚行ハルル也」
*マンドは今治地方では盛んだった子供行事だが、今は廃れている。ただ、近年、復活させた地域もあると愛媛新聞の記事で紹介されていた。
事例4 江戸時代中~後期の宇和島地方の盆行事 『桜田随筆』(北宇和郡誌所収)より
「七夕祭、瓜菓のそなへ其外古風に変わることなし。其内七日の夜に祭ることを不知人多しといふこともあれども六日の夜子の刻より七日の夜亥の刻迄は七日の事故家々仕来りの通にてもすむわけなり。
盂蘭盆、うらぼん会十四日、五日。家々のいとなみ古風に違ふ事多し。昔はおしなべて十三日の夜半より団子等を拵へ、夜明けに暖なるを備ふる事を専とせしが、二三十年程前よりは十三日の夕方拵へ、暮頃より備ふる事となれり。之れは夜分蚊に食はるる事を厭へる故と見へたり。亡者への志は薄くなりたる心地す。又おかしきは迂遠の輩は廿四日、五日を裏盆といひて盛物団子を備ふ。表盆・裏盆といふ事更になし。(中略)」
*ウラボンというと、盂蘭盆であり、盆のことを指すのだが、中予地方ではよく盆のあとの行事をウラボン(裏盆)といっているが、江戸時代には既に、ウラボン=盂蘭盆ではなく、「裏盆」と解釈されていたことがわかるのが興味深い。
事例1 明治時代初期の今治地方の七夕 『国府叢書』巻二十三より
「七夕ノ節句ノ事 七月七日ヲ七夕ノ節句トテ、六日ノ夕ヨリ七夕祭リトテ、笹竹ニ短冊ヲ付シ、之レヲ庭内ニ建、供物等ヲナス事左ニ記ス。机上ニ供アルモノハ、水ノ子(茄子ヲ角ニ切リ、白米ヲ交ヘタル者)ヲ小サキ盆ニ盛リ、田瓜、団子、赤飯等ヲ供ス、又七夕ノ竿ヘハ、茄子、フロヲ及打燈ヲ釣リ、夜間ハ点火ス、七日ノ朝ハ早ク起キテ、男子ハ藁(新稲葉ヲ交ユ)ニテ縄ヲナイ、円形六寸計ノ輪ヲ二ツ拵ヘ、夫レヲ組合シ、之レヲ屋上ニ投シ置キ、女子モ同様早ク起キテ、麻苧ヲ以テ糸ヲ産シ、而シテ其糸ヲ机上ニ置ク、之レ全ク男女共ニ、万術ノ上手ニナラン事ヲ七夕ニ募ヘル義ナリ、建アル笹ハ七日ノ早朝多く海ニ流ス、供物ハ惣テ其夕方廃檀ノ後、之レヲ□□ニ与フルノ習慣トス(挿絵有り)」
*藁で輪を作って屋根の上に投げ上げる行為は、今治地方や周桑地方でも聞くことのできる独特の慣習。これはすでに少なくとも明治時代以前には行われていたことがわかる。
事例2 明治時代初期の今治地方の盆踊 『国府叢書』巻二十三より
「盆躍ノ事 七月八日ハ薬師、十七日ハ観音、廿一日ハ大師、廿三日ハ地蔵等ノ会日ニ付、其日ハ其所江壮年男女寄集リテ、霊前ニテ躍リ、其神佛ヲ慰ム、其外祖先ノ霊魂ヲ慰セントテ、各自庭内ニテ、躍ラシムル者モ多々アリシ、然レ共、藩法ニヨルト、奇異ナル風体ヲシ躍ル事停止セラル」
*「奇異ナル風体」とはどういう格好なのか?明浜や三瓶に残るような歌舞伎くずし踊りのようなものか?
事例3 明治時代初期の今治地方のマンド(万燈) 『国府叢書』巻二十三
「万燈ノ事 七月十四日十五日ノ二夜ハ、万燈ト唱ヘ、毎村山アル所ハ山ニ、山ナキ所ハ堤防或ハ道傍等ニテ、多数ノ篝火或ハ麦藁、松葉等ヲ壱荷位ツツ、数十ヶ所ニ積置キ、一時ニ火付ケ焚ク、其賑ハヒ実ニ盛なり、之モ全ク亡人ノ霊魂ヲ、慰ムル為ナリト云フ。此事ヲ司トルモノハ、毎村トモニ強壮ナルモノ村内毎戸より、右之品ヲ貰請ケテ、執行スルモノ也、今尚行ハルル也」
*マンドは今治地方では盛んだった子供行事だが、今は廃れている。ただ、近年、復活させた地域もあると愛媛新聞の記事で紹介されていた。
事例4 江戸時代中~後期の宇和島地方の盆行事 『桜田随筆』(北宇和郡誌所収)より
「七夕祭、瓜菓のそなへ其外古風に変わることなし。其内七日の夜に祭ることを不知人多しといふこともあれども六日の夜子の刻より七日の夜亥の刻迄は七日の事故家々仕来りの通にてもすむわけなり。
盂蘭盆、うらぼん会十四日、五日。家々のいとなみ古風に違ふ事多し。昔はおしなべて十三日の夜半より団子等を拵へ、夜明けに暖なるを備ふる事を専とせしが、二三十年程前よりは十三日の夕方拵へ、暮頃より備ふる事となれり。之れは夜分蚊に食はるる事を厭へる故と見へたり。亡者への志は薄くなりたる心地す。又おかしきは迂遠の輩は廿四日、五日を裏盆といひて盛物団子を備ふ。表盆・裏盆といふ事更になし。(中略)」
*ウラボンというと、盂蘭盆であり、盆のことを指すのだが、中予地方ではよく盆のあとの行事をウラボン(裏盆)といっているが、江戸時代には既に、ウラボン=盂蘭盆ではなく、「裏盆」と解釈されていたことがわかるのが興味深い。