愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

新刊紹介『猿丸大夫は実在した!』

2001年02月21日 | 口頭伝承
先日、松山市の創風社出版から『猿丸大夫は実在した!』という本が刊行された。著者は南予地方の歴史や民俗に造詣の深い三好正文氏。三好氏の文体や論法は謎解きめいていて、読んでいて非常に面白く、惹き込まれるように読破してしまった。感想については、別途機会を設けて書いてみたいと思うが、一つ気付いたのが、「猿丸大夫」の記述方法である。三好正文氏著では「猿丸大夫」で統一されているが、最近刊行された『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)でひいてみると「猿丸太夫」となっている。『伝奇伝説大辞典』も同じである。「大」ではなく、「太」であった。『日本昔話事典』も「太」である。
ところが、『日本民俗大辞典』と同じ出版社(吉川)から出ている『国史大辞典』では「猿丸大夫」であった。
辞書に頼らず、原典を見てみようと思い、群書類従14「猿丸大夫集」(平安時代初期の成立)を見ると「大」となっている。
歴史系の辞書には「大」を使い、民俗系の辞書には「太」を用いる。これはどういったことなのだろうか。
古代の貴族の世界にあって五位以上を大夫(たいふ)と呼んでいるが、そうなると、猿丸大夫は「さるまるのたいふ」と呼ぶべきものなのだろうか。令外の官につける大夫は「だいぶ」と呼んでいるから、「たゆう」の呼び方はいつからでてくるのか勉強不足で私はよく知らない。よく、大夫は中世以降、太夫と区別されなくなり、神人・芸能集団も太夫(たゆう)を名乗るようになるが、そこで私が思ったこと。
猿丸大夫の伝説は中世以降に、俵藤太のムカデ退治と同様、各地に伝播していったが、中世以降は「大夫」も「太夫」も区別されず、猿丸は「太夫」とも称されるようになったのだろう。民俗系の事典類が「太夫」を採用しているのは、中世以降の伝説を中心に説明しているため、そうなったのではないか。かたや歴史系の事典は文献に忠実にあらねばならぬということで、「大夫」を採用したのだろう。
しかし、三好氏の『猿丸大夫は実在した!』は、南予地方の歴史に興味のある方には是非読んでもらいたいと思う。郷土の歴史に対する熱い思いが伝わってくるのだ。

2001年02月21日
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大正時代のフィルム | TOP | 差別と民俗学 »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 口頭伝承