江戸時代初期の茶人で、茶の湯を大成した千利休の孫の千宗旦は、あるとき自ら創意工夫を凝らして新しい茶室を建てました。
そして今までの不審菴を三男の宗左(表千家の祖)に譲り隠居し、四男宗室と共に移り住みました。
生保三年(1646年)、彼はこの茶室の命名を、日頃尊敬する名刹・大徳寺の清厳和尚にお願いしようと思い、その旨を伝えて和尚を招待しました。ところが、当日約束の刻限が来ても、和尚は現れません。困ったことに宗旦は、その日もう一つ大事な急用が生じ、和尚の接待が済んだら外出することにしていました。時間は刻々と過ぎて、ついに出かけねばならなくなりました。
そこで、宗旦はやむなく弟子に
「もし、和尚さまがお見えになったら、今日の事情をよくお話して、明日もう一度お出かけいただくようにお願い申し上げておくれ」
と言伝して出かけました。
ところが、宗旦が出かけたのと入れ違いに、清厳和尚がやって来ました。和尚は弟子から宗旦の言伝を聞きましたが、せっかく来たのだから新しい茶室を拝見したいと頼みました。
そして茶室を見た後、腰の矢立を取り出して、そこの腰張りに
「懈怠比丘 不期明日(けたいのびく あすをきせず)」
と書き残して帰りました。《懈怠の比丘》とは「怠け者の僧」という意味で、時刻に遅れた自分を謙遜して呼んだものです。つまり、
「怠け坊主のこのわしには、明日ことはわからんので約束はできないのう。」
という意味です。
帰宅し、茶心の腰張りにしたためられた書を見た宗旦は、冷水を浴びせられたような思いがしました。なぜなら、明日はおろか一分一秒先もかわらないのが人生なのに、平気で明日のことを約束する自分の曖昧な生き方を深く恥じたのです。茶を学びながら、茶の心の会得していない未熟な自分に気づき、すぐに大徳寺に清厳和尚を訪ねました。
そして、「明日を期せず」の清厳和尚の教示に開眼した自分の境地を
「今日今日と 言いてその日を 暮らしぬる
明日のいのちは、とにもかくにも」
と呈しました。
この一首は、「明日の命があるかどうかもわからないのに、大切な《今》をおろそかにして、あてにならない明日を期待するのは、愚かなことでございました」という心が込められています。
宗旦は、清厳和尚の教えに感激して、この新茶室を「今日庵」と名づけ、さらに隠居後は自ら「今日庵咄斎」と称しました。以来「今日庵」は裏千家の庵名になっています。
人は明日に希望を抱くことも大切ですが、確実に存在するのは「今日ただいま」のみだということを肝に銘じておかねばなりません。この真実が本当にわかっていれば、明日への先延ばしはできない筈です。