以下は、太宰治の女生徒という作品の一部分である。
お部屋へ戻って、机のまえに坐って頬杖つきながら、机の上の百合の花を眺める。
いいにおいがする。百合のにおいをかいでいると、こうしてひとりで退屈していても、決してきたない気持が起きない。
この百合は、きのうの夕方、駅のほうまで散歩していって、そのかえりに花屋さんから一本買って来たのだけれど、それからは、この私の部屋は、まるっきり違った部屋みたいにすがすがしく、襖ふすまをするするとあけると、もう百合のにおいが、すっと感じられて、どんなに助かるかわからない。
こうして、じっと見ていると、ほんとうにソロモンの栄華以上だと、実感として、肉体感覚として、首肯される。
ふと、去年の夏の山形を思い出す。山に行ったとき、崖の中腹に、あんまりたくさん、百合が咲き乱れていたので驚いて、夢中になってしまった。
でも、その急な崖には、とてもよじ登ってゆくことができないのが、わかっていたから、どんなに魅ひかれても、ただ、見ているより仕方がなかった。
そのとき、ちょうど近くに居合せた見知らぬ坑夫が、黙ってどんどん崖によじ登っていって、そしてまたたく中うちに、いっぱい、両手で抱え切れないほど、百合の花を折って来て呉れた。
そうして、少しも笑わずに、それをみんな私に持たせた。
それこそ、いっぱい、いっぱいだった。
どんな豪勢なステージでも、結婚式場でも、こんなにたくさんの花をもらった人はないだろう。
花でめまいがするって、そのとき初めて味わった。
その真白い大きい大きい花束を両腕をひろげてやっとこさ抱えると、前が全然見えなかった。
親切だった、ほんとうに感心な若いまじめな坑夫は、いまどうしているかしら。
花を、危あぶない所に行って取って来て呉れた、ただ、それだけなのだけれど、百合を見るときには、きっと坑夫を思い出す。
太宰治は、この女生徒に何を言わせたかったのだろう。
本が好きで物事をよく観察している生意気でませた女として描かれている。
電車で隣り合わせた厚化粧の女性に女にある不潔さを感じている反面、母にはこども扱いしてもらいたくない。
少女の純粋さを貴んでおきながら醜い大人にはなりたくないという感情が事細かに表れている。
上の太宰の文章で
普通は手の届かないものには「狐とブドウ」にあるように諦めてしまうものだろう。
インディ・ジョーンズ/最後の聖戦では、ショーンコネリー扮するヘンリーがインディアナ(ハリソンフォード)がイエスの聖杯を
崖から取ろうとするのを「ジュニア!あきらめろ!」と諭している。
独占するなとか、ありのままの花を楽しめとか苦言を呈する大人よりは、無言で百合を手渡す無口な坑夫に美徳を思ったのだろう。
恩着せがましくさも疲れ切って手渡す能弁な美男よりは
無口な坑夫がいい。
ましてユリ一本をみたりにおいを感じるときその男性を思い出すなんて少し素敵だとも思う。
お部屋へ戻って、机のまえに坐って頬杖つきながら、机の上の百合の花を眺める。
いいにおいがする。百合のにおいをかいでいると、こうしてひとりで退屈していても、決してきたない気持が起きない。
この百合は、きのうの夕方、駅のほうまで散歩していって、そのかえりに花屋さんから一本買って来たのだけれど、それからは、この私の部屋は、まるっきり違った部屋みたいにすがすがしく、襖ふすまをするするとあけると、もう百合のにおいが、すっと感じられて、どんなに助かるかわからない。
こうして、じっと見ていると、ほんとうにソロモンの栄華以上だと、実感として、肉体感覚として、首肯される。
ふと、去年の夏の山形を思い出す。山に行ったとき、崖の中腹に、あんまりたくさん、百合が咲き乱れていたので驚いて、夢中になってしまった。
でも、その急な崖には、とてもよじ登ってゆくことができないのが、わかっていたから、どんなに魅ひかれても、ただ、見ているより仕方がなかった。
そのとき、ちょうど近くに居合せた見知らぬ坑夫が、黙ってどんどん崖によじ登っていって、そしてまたたく中うちに、いっぱい、両手で抱え切れないほど、百合の花を折って来て呉れた。
そうして、少しも笑わずに、それをみんな私に持たせた。
それこそ、いっぱい、いっぱいだった。
どんな豪勢なステージでも、結婚式場でも、こんなにたくさんの花をもらった人はないだろう。
花でめまいがするって、そのとき初めて味わった。
その真白い大きい大きい花束を両腕をひろげてやっとこさ抱えると、前が全然見えなかった。
親切だった、ほんとうに感心な若いまじめな坑夫は、いまどうしているかしら。
花を、危あぶない所に行って取って来て呉れた、ただ、それだけなのだけれど、百合を見るときには、きっと坑夫を思い出す。
太宰治は、この女生徒に何を言わせたかったのだろう。
本が好きで物事をよく観察している生意気でませた女として描かれている。
電車で隣り合わせた厚化粧の女性に女にある不潔さを感じている反面、母にはこども扱いしてもらいたくない。
少女の純粋さを貴んでおきながら醜い大人にはなりたくないという感情が事細かに表れている。
上の太宰の文章で
普通は手の届かないものには「狐とブドウ」にあるように諦めてしまうものだろう。
インディ・ジョーンズ/最後の聖戦では、ショーンコネリー扮するヘンリーがインディアナ(ハリソンフォード)がイエスの聖杯を
崖から取ろうとするのを「ジュニア!あきらめろ!」と諭している。
独占するなとか、ありのままの花を楽しめとか苦言を呈する大人よりは、無言で百合を手渡す無口な坑夫に美徳を思ったのだろう。
恩着せがましくさも疲れ切って手渡す能弁な美男よりは
無口な坑夫がいい。
ましてユリ一本をみたりにおいを感じるときその男性を思い出すなんて少し素敵だとも思う。