先日、商用で三日町の小嶋家を訪れた。
小嶋家は現在でも山形の実業家で広く活躍している小嶋家一族の総本家である。
初代小嶋源兵衛は、天保期の1830年代に銀町の小嶋源右衛門家(宗家)から分家して三日町に居を移した。
安政期までの小嶋家は、荒物・紙・扇子・傘・茶・五十集物(いさばもの)・砂糖・反物・古着・繰綿・油・蠟燭などを
卸売することを基本に中規模商人として成長していった。
幕末維新期にかけては、菜種の大量買い付けを前提とした油絞り業・油商売を展開している。
また菜種粕・荏粕などの油粕を中心とした肥料商いも従事した。
幕末期から蔵米(領主米)の買い付けを始め、米穀商業にも参画するようになった。
明治初年からは経営の比重を主要輸出業になった養蚕生糸・製茶に移していった。
明治30年代半ばから大正期にかけては、内外米・大豆粕・搗麦・麩(ふすま)などの米穀商業・肥料・飼料商いに集中し
とくに輸入南京米などの卸売りを活発に行っている。
昭和戦前期には、小嶋源兵衛は山形米穀商業組合長や山形商工会議所議員を歴任している。
小島総本家からはそれぞれ子供が分家し、オビイチ・オビニ・オビサン・オビゴ・オビロク・オビシチ・オビハチ・オビク・オビジュウ
と分かれていった。オビとは商人が着る着物の角帯のことである。オビヨンはなく、オビジュウも商売は行わなかったようである。
現在、オビサンは紙事業・包材事業を展開し、オビゴは仏壇・仏具で有名な小嶋源五郎である。
オビロクは木製品、紙、パルプなどを扱う会社で、オビハチは小嶋商事を経営し、肥料や特産農産物、蔵オビハチなど
広く事業を展開している。
他にオビジョウ家具、オビマス商店が著名だが、どの分家から分かれたかは私は知らない。
もともと小嶋家は荒物・煙草などの萬商い(よろずあきない)で成長していき、遠く奥州伊達郡(現 福島県北部)へも
萬商品を売りさばいて行った。
そうした商売のノウハウと人脈は代々緻密に受け継がれていったものと思われる。
小嶋家は現在でも山形の実業家で広く活躍している小嶋家一族の総本家である。
初代小嶋源兵衛は、天保期の1830年代に銀町の小嶋源右衛門家(宗家)から分家して三日町に居を移した。
安政期までの小嶋家は、荒物・紙・扇子・傘・茶・五十集物(いさばもの)・砂糖・反物・古着・繰綿・油・蠟燭などを
卸売することを基本に中規模商人として成長していった。
幕末維新期にかけては、菜種の大量買い付けを前提とした油絞り業・油商売を展開している。
また菜種粕・荏粕などの油粕を中心とした肥料商いも従事した。
幕末期から蔵米(領主米)の買い付けを始め、米穀商業にも参画するようになった。
明治初年からは経営の比重を主要輸出業になった養蚕生糸・製茶に移していった。
明治30年代半ばから大正期にかけては、内外米・大豆粕・搗麦・麩(ふすま)などの米穀商業・肥料・飼料商いに集中し
とくに輸入南京米などの卸売りを活発に行っている。
昭和戦前期には、小嶋源兵衛は山形米穀商業組合長や山形商工会議所議員を歴任している。
小島総本家からはそれぞれ子供が分家し、オビイチ・オビニ・オビサン・オビゴ・オビロク・オビシチ・オビハチ・オビク・オビジュウ
と分かれていった。オビとは商人が着る着物の角帯のことである。オビヨンはなく、オビジュウも商売は行わなかったようである。
現在、オビサンは紙事業・包材事業を展開し、オビゴは仏壇・仏具で有名な小嶋源五郎である。
オビロクは木製品、紙、パルプなどを扱う会社で、オビハチは小嶋商事を経営し、肥料や特産農産物、蔵オビハチなど
広く事業を展開している。
他にオビジョウ家具、オビマス商店が著名だが、どの分家から分かれたかは私は知らない。
もともと小嶋家は荒物・煙草などの萬商い(よろずあきない)で成長していき、遠く奥州伊達郡(現 福島県北部)へも
萬商品を売りさばいて行った。
そうした商売のノウハウと人脈は代々緻密に受け継がれていったものと思われる。
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