《§デザインの源泉ということ§
どうしてこういうことをしなければならないのか?私の今までの無骨な生き方を解剖してみたらどうか?この文章の内容は、幾多の困難を経てと言うほどでもないが、私なりの逆説的な内面のストーリーを成功ではなく苦い失敗を梃子にして立て起こした創意、工夫談で裏打ちされている私の人生経験をもって描いていきたい。そしてここに若年期に怠惰な生活を送り文学青年から造園の世界に歩みを変えた者の独白をつづった。まず、表現行為としての造園設計論をくりひろげたい。
はたして、こんな私の芸術的な資質と素養はどこからくるのだろう。創作力と着想のモチーフの源泉はどこにあるのだろう。私が原初的に刷り込まれた(Inprinting)ものは、思いおこすとたとえば、こんな象徴的な散文詩の世界が浮かんでくる。
∞陽春、透けて見える青空と峰々を後景に木々の瑞々しい芽吹き、
若葉の爽気ただよう時季、暖かくなる頃の草原の草いきれの香り
が匂い立つ。
∞アブラゼミの合唱が響きわたりげんなりする暑さの中での沢水に
足をいれた触感とカジカのつかみ捕り。夏の夕べから夜半にかけ
ての押韻をふむような虫のすだく音色がする。
∞寒さに向かう季節の凍りつく平原で爪先立って見る田園を廻る草
紅葉、照柿と群青色の空の下で燃えたぎる木々の紅葉などの天然
色の風景が広がる。
∞山あいには、せせらぎの瀬音に欹ててしんしんと降る静かな降雪
がある。そこでは鈍重な昼の純白と夜半の漆黒の寡黙な世界が演
出されて、清浄な空気とスタティックな厳冬の光景が現われる。
∞森羅万象には、あらかじめ無音という沈黙を下地にした生き物と
自然との交歓が醸しだす、万物の生成過程のささやきともざわめ
きとも言える微音の環境が用意されている。
∞自然という宇宙には、譬えれば山紫水明の世界には、様々なメカ
ニズムを持ちドラマツゥルギーを秘めたダイナミズムと諧調美を
引きつれた旋律を内包している。
私の場合、自然に対峙しどうしても生じざるを得ない人間の心の動きである情緒と、それがゆえの表現である詠嘆調を排し自然の摂理による宇宙にもとづいたこの四季の心象風景を活写し復元することが芸術的な意味での独創性である・・・・。
いつでもデザインの発想の源泉は原風景への回帰を繰り返すものと言えるのではないだろうか。
山村のきわめてシンプルな自給自足の生活、写実的な世界そのものが、私の感性をゆり起こし叙事詩的な世界が心の内奥で胚芽し醸成した美意識に由来して、私の記憶をなしているのだろうか。》
デザインという職能は個人を前提にしている。その能力は専門課程を修了して得られるものではない。知識を習得すれば、あるいは多方面の観念で頭の中をいっぱいにすれば良しとするものではない。人生の初期段階にある若い人たちはそこを勘違いするようだ。色々なことを知っている、上手に表現できるから才能がある、というふうに。残念なことにこの場合、成果品は絶対条件であるオリジナリティに縁遠く単に模倣である場合が多い。個人的所業であれば、その孤独な積み重ねの果てに出てくるものと思う。忍耐をともなうその個人的営為から自然と産みだされるものだ。
ドイツがどうだとか、アメリカ東部の新しいランドスケープなどと、トレンディにないものねだりをした造園設計作品は本当に後世に残るのか。まずは、現場の設計対象をみずからの五感のみを頼りに見つめることからはじまるのに。
多分、あとで反省点として、体のいい自己満足(瞞着)に過ぎないことに気付くはずだ。もっとも、このことはデザイナーの姿勢の問題だが、自己検証あるいは振り返りさえしないかもしれない。
この 極私的造園設計経歴書-自叙伝ふうに-《緑の仕事》 は、わたしにとってランドスケープデザインとはなにかを、徹頭徹尾、追及したもの。そして、その緑の仕事を通じてわたしの50数年の来し方を浮き彫りにさせた。