最相葉月さんの‘絶対音感’を読む。
これは、カラオケ好き人間ではあるが恥ずかしげもなく自他共に音痴を自称するわたしにとって、狐につままれたような話の本である。
わたしは当然ながら音楽に関するものは疎い。おたまじゃくしも読めない。楽器演奏もできない。
世間では‘絶対音感’の持ち主を非凡な才能の人とされるようだが、わたしにはただ単に人間、一長一短と思うだけだ。上っ面の話だ。もっとも、これで生活の資を得ているのならば事は違ってくる。
この本では、今までに‘絶対音感’についての学術的な研究がなされずまたその論議の発表の場があったわけではないので、一般的な視点から網羅し、初めてその現状をまとめて論点を整理してくれたもののようである。
これは論文形式のエッセイ、基本的にルポルタージュになるだろう。しかし内容をたどると感心はするが、必ずしも読後感が残るような楽しい本ではない。せっかくのテーマがつまらない。
特に話題の展開の仕方について、文の記述、内容の構成上時系軸でプロセスを記す場合に言えることだが、決して論述だけをしてはならないもの。この場合いわゆる歴史ということになるが、社会・時代背景とか有象無象の細部を丹念に書き込むことが重要だ。でないと平板になりリアリティーが感じられなくなる。
絶対音感の定義は、書中から孫引きすると、『ニューグローヴ世界音楽事典』の、
「ランダムに提示された音の名前、つまり音名がいえる能力。あるいは音名を提示されたときにその高さで正確に歌える、楽器を奏でることができる能力」
ほかに、
「天性のものか、後天的なものかはまだわかっていない」
「絶対音感を持つ人とは、いうなれば、人間音叉のようなものだろうか」
しかし、弊害も言われる。
「絶対音感の音風景とは、それを持たぬものには想像もつかぬほど騒々しい世界ではないかと思われる。音の氾濫する現代の都市社会で、ひとたび間違えばノイローゼになる危険性さえ孕んでいる。」
わたしにとって最相葉月さんの本は、これで‘青いバラ’、‘星新一--一〇〇一話をつくった人’に続いて読んだことになるが、科学技術系のジャーナリストである。
しかし、実は正直に言うと、いずれも、途中あきれてなんども読むのを放棄しながら読み進んだもの。この著者はひょっとして、表現者としては事実を集め組み立てた上でのロジカルな文章表現が出来ても、感受性は鈍いかもしれない。
これは、カラオケ好き人間ではあるが恥ずかしげもなく自他共に音痴を自称するわたしにとって、狐につままれたような話の本である。
わたしは当然ながら音楽に関するものは疎い。おたまじゃくしも読めない。楽器演奏もできない。
世間では‘絶対音感’の持ち主を非凡な才能の人とされるようだが、わたしにはただ単に人間、一長一短と思うだけだ。上っ面の話だ。もっとも、これで生活の資を得ているのならば事は違ってくる。
この本では、今までに‘絶対音感’についての学術的な研究がなされずまたその論議の発表の場があったわけではないので、一般的な視点から網羅し、初めてその現状をまとめて論点を整理してくれたもののようである。
これは論文形式のエッセイ、基本的にルポルタージュになるだろう。しかし内容をたどると感心はするが、必ずしも読後感が残るような楽しい本ではない。せっかくのテーマがつまらない。
特に話題の展開の仕方について、文の記述、内容の構成上時系軸でプロセスを記す場合に言えることだが、決して論述だけをしてはならないもの。この場合いわゆる歴史ということになるが、社会・時代背景とか有象無象の細部を丹念に書き込むことが重要だ。でないと平板になりリアリティーが感じられなくなる。
絶対音感の定義は、書中から孫引きすると、『ニューグローヴ世界音楽事典』の、
「ランダムに提示された音の名前、つまり音名がいえる能力。あるいは音名を提示されたときにその高さで正確に歌える、楽器を奏でることができる能力」
ほかに、
「天性のものか、後天的なものかはまだわかっていない」
「絶対音感を持つ人とは、いうなれば、人間音叉のようなものだろうか」
しかし、弊害も言われる。
「絶対音感の音風景とは、それを持たぬものには想像もつかぬほど騒々しい世界ではないかと思われる。音の氾濫する現代の都市社会で、ひとたび間違えばノイローゼになる危険性さえ孕んでいる。」
わたしにとって最相葉月さんの本は、これで‘青いバラ’、‘星新一--一〇〇一話をつくった人’に続いて読んだことになるが、科学技術系のジャーナリストである。
しかし、実は正直に言うと、いずれも、途中あきれてなんども読むのを放棄しながら読み進んだもの。この著者はひょっとして、表現者としては事実を集め組み立てた上でのロジカルな文章表現が出来ても、感受性は鈍いかもしれない。