市原市議会議員 小沢美佳です

市政や議会の報告、日々の活動や想いを綴ります。
一番身近な地方政治の面白さが、皆さんに伝わりますように・・・

沖縄視察4日目

2014-04-26 | お知らせ
沖縄視察・最終日4日目

読谷村チビチリガマを、元村議会議員で平和運動家・浄土真宗僧侶の知花昌一さんの案内で見学しました。





「チビチリガマの集団自決」

「ガマ」とは、沖縄本島に数多く存在する鍾乳洞の事です。
洞窟に避難し、亡くなった83名の半数以上は、12歳以下の子どもだったそうです。

ガマの前で説明してくださる知花さん。


現在、ガマの中に入ることはできないそうなのですが、今回は特別にお許しを得て入らせていただきました。





ビンや陶器のかけら、櫛なども残され、当時の生活を物語っていました。目を凝らすと、小さなお骨のかけらも見られました。

一方、チビチリガマから約1キロ離れた場所にはシムクガマがあります。



シムクガマには約1000名が避難し、こちらは全員助かりました。チビチリガマとは対照的ですが、その理由はなんだったのでしょうか。

知花さんは、「それは、リーダーの違いです」と答えてくださいました。

チビチリガマのリーダーは、20歳代の看護婦でした。彼女は満州の従軍看護婦で、日本軍の捕虜に対する仕打ちを良く知っていたため、「米軍の捕虜になって、辱めを受けたり惨い殺され方をされるくらいなら、潔く自害した方がよい」と仲間に告げたそうです。
一方、シムクガマには、かつてハワイに移住していた方が二名いました。英語が話せたことも幸いしました。彼らは、「米軍はむやみに捕虜を殺さないのでは」と考え、米軍と交渉し、仲間を説得し、結果的に全員が助けられたのです。

「私たちは、この悲劇を『集団自決』と言わずに、『集団強制死』と言っています。日本の軍国主義に殺されたのです」

知花さんのこの言葉が、胸に突き刺さりました。
「敵に殺される前に自害せよ」というのが当時の教えだったのです。捕虜に対する信じられないようなむごい仕打ち、それを最も実践していたのが、他でもない日本軍だったからなのですね。

シムクガマを出て、途中立ち寄った座喜味城跡


お昼はここ。
先ほど案内してくださった知花さんが理事を務めるNPOが経営しているお店です。
従業員の知的障害者の方々がきびきびと接客していました。


最後の視察場所は、宜野湾市にある佐喜眞美術館です。佐喜眞館長自ら案内してくださいました。
美術館の庭に、沖縄によく見られる大きな亀甲墓が。


常設展である「沖縄戦の図」は、丸木位里・俊夫妻が、沖縄戦を体験した方々の証言をもとに描いたものです。
丸木位里さんといえば、あの「原爆の図」が有名ですが、
「原爆の図を描き、 南京大虐殺を描き、アウシュビッツを描きましたが、沖縄を描くことがいちばん戦争を描いたことになります」
と述べられていたそうです。

屋上の階段。慰霊の日(6月23日)には、太陽が正面の穴にぴたりと位置するように設計されています。設計したのは、視察初日にお話を伺った真喜志さんです。



中身の濃い、あっという間の3泊四日の旅でした。この目で・この耳で感じた沖縄の本当の姿は、私にとって大きな財産です。

豊かな自然と温暖な気候・独特の魅力的な風土を満喫しようと、毎年多くの観光客が訪れる沖縄。
しかし、本島の18.4%の面積を一方的に在日米軍専用施設にされ、大きな制約を受けている沖縄の人々にとって、国内唯一の地上戦が行われた沖縄戦から始まった闘いは、決して終わってはいないのです。
ヒロシマ・ナガサキほど語られることのない沖縄戦について、そして未だにないがしろにされている沖縄の地方自治や人権について、私たち本土の人間はもっともっと知らなければならない、と思いました。
沖縄を知ることは、日本の民主主義や平和の意義を問い直す際の大きなヒントになることでしょう。

最後に、最も感激した辺野古の美しい海・・・

カプリ島の「蒼の洞窟」にも負けないでしょう?!

因みに、もう一つ感激したのは、島らっきょうの塩漬け。初めて食べました。
鰹節をたっぷりかけて、お酒のつまみにはこれさえあればOK(*^^)v

最新の画像もっと見る