猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 14 説経兵庫の築嶋 ②

2012年11月23日 15時03分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ②

 それはさて置き、浄海(平清盛)は、陰陽師安倍晴明の流れである安倍安親、安則の

三代の後胤、安氏という天下の吉凶を占う博士を御前に召して、

「如何に安氏。輪田の岬を筋交いに、海上を三町(約300m)ばかり埋めさせ、嶋を

造り、舟の泊まりを造らせようと思うが、この勧請が成功するか否か占い、また、吉日

を占って、明国の水夫に任せて嶋成就の祈誓を行うように。」

と、命じたのでした。安氏は承って、干支、五行、宿曜、十二道、六明、算術と、あり

とあらゆる王相(おうそう:占星術)を極めて占いました。

「間違いは無いと存じますが、占いにひとつ、不審な点がございます。この嶋は、一度

には、成就はいたしません。占いによりますと、吉日は、三月十八日。辰の一点と出ております。」

これを聞いた浄海は、国綱に奉行を命じて、輪田泊の工事に着手したのでした。

 

 大和、山城、伊賀、伊勢、播磨、摂津、丹波の七カ国から人夫を集め、「武庫山」(宝塚付近)の

岩、岩石を、くわっくわっと引き崩し、輪田の泊まりへと運び出されました。しかし、

潮が速く、埋めても埋めても、翌日には流されて、まるで、蟻が砂を運ぶようなものでした。

五万人の人夫が、十日がかりで、昼夜埋め続けましたが、まったく効果がありません。

国綱が、この有様を浄海に報告すると、浄海は大変に腹を立て、博士の安氏を呼びつけて、

「未だ、ひとつの嶋もできていない。水夫を潜らせて見てみれば、埋めるところには石も

無く、あちらこちらに散らかるだけ。そこには、波も無く、ことの外静かであるという。

いったい、どうしてこのようなことが起こっているのか。まったく無念なことだ。何か

よい方法は無いか。」

と言いました。安氏は、承りましたが、本当のことを言うべきかどうか、迷いに迷って

ようやくこう言いました。

「実は、占いのままに申すならば、我が身の仇となり、言わなければ天子の権威を失墜

させてしまうことになるでしょう。どちらにしても罪を受ける身となりました。

 さて、人間に限らず、生を受けたものには、命以上のい宝は有りません。ですから、

仏の五百戒のその中でも、殺生戒を第一に守れと教化されたのです。

 恐れながら、この大願に咎があると思われます。これは偏に、この安氏の業となるかと

思われますが、人柱を立てなくては、この嶋の成就は無いと占いに出ております。誠に

由々しき罪業となります。しかも、この人柱は、一人ならず二人ならず、全部で三十人

の人柱を立てなければなりません。」

これを聞いた浄海は、手にした扇で、畳の表をちょうどと打つと、

「やあ、このこと、外部に漏れぬようにせよ。何としても、この嶋を完成させなければならない。

堂塔伽藍を建てるにしても、一時は、民の心を悩まし、善も悪を先とする。つまり、善

悪の二法は、裏と表の関係だ。今、この人柱に取られる者にも、必ず過去の宿縁があるのだ。

しかしながら、一気に人柱を集めようとすれば、民の知る所となり、人々の行き来も途

絶えることになろう。少しずつ、気づかれぬように人柱を集めよ。」

と、言うのでした。

 さて、武士達は、生田や昆陽野(こやの)の辺りの草原に身を隠し、京より下る人、初めて京に

上る人を、取って押し込めては、獄中に投じる有様は無惨な次第です。

 突然に投獄された人々が、故郷を恋し懐かしむ有様こそ哀れです。人柱に取られると

わかっているのなら、老いたる親に暇乞いをし、名残惜しい妻子には形見を取らせてき

たものをと、牢の扉に取り付いて、悲しみ合って泣き明かしております。いつまで、こ

うしているのかすら分かりません。突然の行方不明で、捜しようも無いでしょうから、

いくら助けを待っても仕方ありません。自分の運命も尽きて果ててしまったと嘆く様子

は、見るに耐ない有様です。

 一人、二人に留まらす、二十九人を拉致したので、生田、昆陽野の辺りでは、妖怪変

化のものが、道行く人を宙に取ると、巷の噂となりました。

 やがて、親を取られた者、一人持った子を取られた者達が、丹波、播磨、伊賀、伊勢

など近国より、生田の周辺に集まってきて、行方知れずの者達の行方を捜し始めました。

例え魔物が、我が父、我が子を取ったとしても、せめて死骸を見せてくれと、消えた旅

人を探し求める姿は、野飼いの牛が夕暮れに、子牛を捜すが如く、まったく哀れとも、

なかなか喩え様もありません。

つづく


忘れ去られた物語たち14 説経兵庫の築嶋  ①

2012年11月23日 12時42分45秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ①

天下一石見掾正本(天満八太夫) 日比谷横丁又右衛門板 寛文期(1600代後半)

(説経正本集第二 29)

平清盛が行った大輪田泊竣工に関する物語。室町時代の幸若を下敷きとしている。
不明な文言は、永禄三年写本の「築島」を参考とした。(説経正本集第二 付録9)

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、奢れる者久しからず。

ただ、春の夜の夢の如し。猛き人もついには滅びぬ。偏に、風前の灯火。光有りと言えども

悪風に消えぬ。政をも究めず、天下の乱れをも覚らずし、民間の嬉しかる所知らざりしは、

久しからず。

 桓武天皇の第五皇子、一品(いちぼん)式部卿葛原(かずらはら)親王の九代の後胤である

讃岐の守清盛は、御出家されて、浄海(じょうかい)と申されました。天下の政を我が

儘に取り仕切り、津の国(摂津)、兵庫の浦に内裏を建て、福原の新京と呼んで、ここ

に住まわれました。

 これはさておき、難波入り江の三松には、形部左衛門国春という者がおりました。

明月女という娘を持ち、豊かな生活を送っておりました。明月女は、父母の愛情を一身

に受けて、美しく成長しました。明月女、十四歳の春のことです。乳母を伴って、芦屋

の野辺に遊山に出かけました。

 折しもそこに、丹波の国、仁和寺の蔵人兼家の子である藤兵衛家包(とうびょうえいえかね)

は、小鳥狩りに来ていて、偶然に明月女の姿を見かけました。家包は、姫の姿を一目見るなり、

そのムラサキ草のような可憐な姿に魅せられてしまいました。供人を遠くに控えさせると、

ススキの原に身を隠して、姫の姿を追いました。

 それとも知らず、姫君は、コマツナギの一房を手にして、一首の歌を詠じました。

『春はまず こまつなぎにぞ 若葉さす 古葉の色も 見え若葉こそ』

すると、隠れていた家包は、すかさず、

『春の野に 主も見えざる 離れ駒 蜘蛛の糸(い)にても 繋ぎとめばや』

と、強引な歌を返したかと思うと、飛び出して、乳母諸共に奪い取って、丹波の能勢へと

飛んで帰ったのでした。
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 ここに哀れを留めたのは、難波入り江三松の国春夫婦でした。突然の姫君の失踪に嘆き悲しみ、

御台様は、心労から病の床に伏してしまいました。驚いた国春が、いろいろと看病を

尽くしましたが、その甲斐も無く、御台様は、

「これは人間の習いではありますが、他人の良い子よりも、自分の悪い子の方が愛おし

く思われるものです。まして我が子は、仏神に祈誓を掛けて只一人持った子ですから、

世に類も無いと思っていたのに、行方知れずになった今、私はどうしたら良いのでしょう。

人の子は宝でも、我が子は親の敵(かたき)になってしまいました。こんなことを言って

いますが、恨んでいるわけではありません。ああ、恋しい明月姫よ。」

と、言い残すと、三十三歳の若さで亡ってしまわれました。国春は、死骸に取り付き

嘆き悲しんでいましたが、やがて、

「姫には生き別れ、夫には死別し、我が身はなんとするべきか。」

と、妻の野辺送りをすると、出家して、諸国修行の旅に出たのでした。

 さて、一方、神崎(兵庫県神崎郡)の住人で重元(しげもと)という者は、以前より

明月女に気がありましたが、この事件を聞きつけると、郎等の石山源五に、

「如何に源五。かの国春の娘が、仁和寺の家包に奪われたことは、誠に無念なことである。

押し寄せて、きゃつと討ち死にするぞ。」

と言いました。石山も、尤もと、総勢三千余騎の軍勢で、家包の城郭を取り囲むと、鬨の

声を上げました。城内より、桂の左衛門が進み出でて、

「何者だ。名乗れ、名乗れ。」

と言うと、寄せ手の陣から、武者一人が進み出でて、大音声に名乗りました。

「神崎の住人。権藤次重元(ごんとうじしげもと)が郎等、石山源五とは某なり。

難波入り江三松の姫君を奪い取ること、奇っ怪である。今すぐに、姫君を渡せ。さも

なくば、腹を切れ。」

これを聞いて、左衛門は、

「何、権藤次が寄せて来たのか。若君に先を越され、重ねて恥を掻く前に、その陣を退け。」

と、言い返しました。石山は、相手にもせずに、いきなり出陣を下知しましたので、合

戦が始まりました。我も我もと、戦の花を散らしましたが、残念ながら、権藤次、石山

主従、二騎ばかりを残すだけとなってしまいました。重元が、最早自害とするところ、

石山は押しとどめ、重元を落ち延びさせました。石山は、重元を無事に落とすために、

小高き所に立ち上がると、

「重元が郎等、石山が最期、これ見たまえや、人々。」

と、腹を十文字に掻ききって果てたのでした。

かの石山が最期の体、無念なりともなかなか、申すばかりはなかりけり

つづく

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