猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ②

2013年03月04日 13時15分19秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

すみだ川 ②

 それから、3年が過ぎました。梅若殿は十三歳となり、明け暮れに父是定の菩提を弔

う殊勝さです。ところが、梅若が元服するまで、吉田家を任された叔父の松井源五定景

は、この頃こんなことを考えていたのでした。

「梅若が、十五歳になったら家督相続の為に参内しなければならないが、このまま、梅

若の下で仕えるだけというのも口惜しいことだ。いっそのこと、梅若を殺してしまい。

この俺が、吉田の家を継いでやろう。」

と、世にも恐ろしい企みを企てたのでした。松井は、山田の三郎を呼んでこう言いました。

「安親殿よ。お前に頼みたい事があるのじゃが、引き受けてくれるならば、話してやろう。」

山田三郎安親は、

「何でもお聞きいたしましょう。」

と言うので、松井は喜んで、恐ろしい計画を話したのでした。

「話しと言うのは、別でもない。実は、梅若を殺して吉田の家を俺が継ぐならば、山田殿

にも、過分の恩賞を取らせるという話しじゃ。どうじゃな。山田殿。」

山田はこれを聞くと、

「しぃ。声が高い。私が一味すれば、対する敵もありませんな。粟津の六郎利兼をなん

とかせねばなりませんが、奴は、元より大酒飲み。沢山酒を飲ませておいて、何とか

話しを付けましょう。もし、うんと言わなければ、その場でばっさりやってしまえば良

いでしょう。」

と話しに乗ったのでした。松井は、

「よしよし、それなら、お前は一旦戻っておれ。俺は、これから利兼を呼び出す手筈を

調えよう。」

と言うと、様々な肴を用意して、粟津六郎利兼に急ぎの使いを送ったのでした。何事か

と利兼は、急いで駆けつけて来ましたが、酒宴が準備されていて、ただ酒を勧められる

ばかりです。やがて、松井は人払いをすると、梅若殺害計画を切り出しました。

「かようかようの企てじゃが、おぬしも乗らぬか。」

粟津は、これを聞いてはっとしましたが、さらぬ体に聞き流して、

「おや、これはお恥ずかしいことを。私の心を引き計ろうとされるのですか。」

と答えました。松井は更に、

「いやいや、これは偽り事ではないぞ。山田殿も既に一味に加わっておる。おぬしもこ

の計画に加わらぬか。」

と誘いました。粟津は、座り直すと、

「のう、松井殿。梅若殿は、あなたの甥ではありませんか。この粟津六郎利兼は、その

ようなことに聞く耳はもちませんぞ。」

と、言うなり太刀を抜いて松井に斬りかかりました。松井は、危うい所をかわすと、飛

んで逃げ出しました。粟津は、追っかけて討ち殺そうとしましたが、

「いや待てよ。うかうかしていると、一味した山田が、梅若殿を殺しに向かうかもしれぬ。

ここは先ず、御台様や梅若殿に事を知らせ、お守りせねば。」

と思い直して、館に急行したのでした。粟津は、御台様の前で、涙ながらに報告をしました。

「松井源五、山田三郎の両名は、結託して、若君を殺して吉田の家を乗っ取ろうと企て

ております。私にも、一味せよとありましたので、座敷を蹴ってここに急行いたしました。

きっと、連中はこれより夜討ちに押し掛けて来ると思われます。さあさあ、直ぐにここ

から落ちますぞ。ご用意を。」

粟津が、大息ついで申し上げると、御台様も梅若殿もどうして良いか分からずに、ただ

泣くばかりです。粟津は、

「そのように、心が弱くてはいけません。とにかく先ず、御台様をお助けいたします。」

と言うと、御台様を坂本(滋賀県大津市坂本)の叔父、権の太夫の館に匿いました。

(※原文では、「西坂本」とあるが、西坂本は比叡山の西側地域修学院付近を指し、北

白川に近接しており、又後段の記述に照らしても地理的な矛盾を生じる。従って本稿で

は、これを比叡山の東側の「東坂本」に読み替えることとする。)

それから、粟津は東白川へ取って返し、約百人程の侍、中間(ちゅうげん)を集めると、

松井の夜襲に備えて、館の守りを固めたのでした。

 一方、松井は、粟津に切り掛けられて、ほうほうの体で逃げ延びましたが、足の震え

はまだ納まりません。山田を呼び出して、事の次第を語ると、山田は、

「時刻を移してはなりませんぞ。」

と、約三百の軍勢を揃えると、一気に北白川へと押し寄せ、鬨の声を上げたのでした。

待ち受けていた粟津は、櫓の上に駆け上ると、

「寄せ来たるは、松井の軍勢と覚えたり。無用の戦はやめ、その陣を退け。」

と言いましたが、一人の武者が進み出て、大音声に名乗りました。

「只今、ここに進み出た者を誰と思うか。松井源五定景の郎等に、兵五の介とは俺のことだ。

侍の身分は、渡り者だ。そっちこそ、今の内に降参せよ。」

これを聞いた粟津は、

「おのれ、三代相恩の主君を忘れ、主に弓引くとは、野干というより外はない。」

と言うなり、ぐっと弓を引き絞ると、びゅんとばかりに弓を放ちました。無惨にも矢は、

兵五の胸板にはっしと突き立ち、ばったりと事切れました。これを戦の初めとして、

敵味方が入り乱れての合戦となりました。しかし、多勢に無勢。やがて、粟津の勢は、

悉く討ち殺されてしまいます。粟津は、梅若殿に急いで、落ち延びるようにと勧めました。

梅若殿は、

「絶対に自害するなよ。お前も落ち延びて、早く合流せよ。」

と言い残すと、粟津の二郎を供として裏門から脱出しました。それから、粟津六郎利兼

は、櫓に上り、

「やあやあ、寄せ手の奴輩。鳴りを沈めて、よっく聞け。梅若殿は自害なされた。ここ

で、剛なる者が腹を切る所を見せてやるから、手本にしろ。」

と言うなり、鎧の上帯を切って捨てると、腹を切る振りをして、裏門へと脱出を計りましたが、

敵勢が大勢打ち寄せて、無念にも絡め取られてしまったのでした。

つづく

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忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ①

2013年03月04日 10時49分44秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

「角田川」は、能の題材でもあり、古説経時代の五説経にも数えられる程、有名な話し

である。歌舞伎にも大きな影響を与えた題材であり、東京都墨田区の木母寺では現在も

3月15日から一ヶ月の間、主人公「梅若」の供養や芸道成就の祈願が行われている。

従って、『忘れられた物語』とは言えないかもしれない。しかし、残念なことに、説経

の古い正本が残っていない。歌舞伎では、「隅田川物」が高名だが、説経としての「角

田川」は忘れ去られているようである。

説経正本集第3(36)角川書店

元禄頃と推定 太夫不明 鱗形屋孫兵衛

すみだ川 ①

 本朝七十三代堀川天皇の御世(在位1087年~1107年)の頃のことです。都の

北白川(京都市左京区東部)に吉田の少将是定(これさだ)という位の高い方がいらし

ゃいました。この是定という方は、自らは五戒を守り、人には仁義をもって接し、詩歌、

管弦、七芸六能(※六芸四能カ:六芸=礼楽射書御(馬)数:四能=琴棋書画)に秀で、

都にその人ありと知られておりました。是定には、二人の子供がありました。嫡男は、

十一歳になる梅若丸。二男は九つになる松若殿と申します。お二人とも、そのお姿は、

花のように美しく、お話になるその幼気なお言葉は、まるで露を散らすように可憐でしたので、

父母から受ける御寵愛も限りがありませんでした。

 ある時、是定は、北の方を近付けて、こう言いました。

「妻よ。聞きなさい。つくづくと思うことは、人の一生は、風前の雲と同じ。命は石の

火の様にあっという間のことだ。二人の子供の内、一人を出家にして、我等が死した後

の菩提を弔わせようではないか。どうじゃ。」

これを聞いた御台は、こう答えました。

「それは、もっともな仰せではありますが、梅若は惣領ですから、吉田の家を継がせな

くてはなりません。松若は、まだ幼少ではありますが、松若を出家させて、我々の菩提

を祈ってもらえば、こんな嬉しいことはありません。」

夫婦揃って菩提心を起こした、その心の内は殊勝なことです。夫婦は松若に、

「お前は、まだ幼いけれども、学問をさせるために、山寺へ登らせることにした。栴檀(せんだん)

は、双葉より芳しい。(※諺:大成する人は幼少より優れる)学問を究めて、吉田の家

の名を天下に示せよ。」

と言うと、山田の三郎安親(やすちか)を供として、東谷の妙法院(京都市東山区)

に入り、日行阿闍梨(にちぎょうあじゃり:不明)の弟子となったのでした。日夜、学

問に精を出したので、その年の暮れ頃には、もう内外すべてのことに精通してしまいました。

人々は、弘法大師の化身だと、羨ましがらない者は無かったということです。しかし、

諸学を修めたことで、松若には高慢な心が芽生えていました。仏神の天罰でしょうか。

ある日、どこからとも無く、山伏が一人現れると、

「松若殿、昼夜の学問に、さぞやお疲れのことではありませんか。私の住み家へいらっ

しゃり、どうぞお疲れの心を癒してください。」

と、言うなり、松若殿を掴み上げて、あっという間に、虚空へと消えたのでした。人々

は驚いて、あちらこちらと探し回りましたが、なにしろ天狗の仕業でしたから、その行

方が分かるはずもありません。お供の安親は、ひとまず北白川に帰り、事の次第を報告

することになりました。

 この事態を聞いた吉田の少将夫妻は、わっと叫んで泣くしかありません。是定は、

「何事も業の定めとは言うものの、こんな事になると知っていたのなら、寺などに入れ

なかったものを。愛おしい松若よ。なんとも恨めしい世の中であるなあ。」

と、口説きました。このことがあってから、是定殿は、俄に体調を崩されて、食事も満

足に取れない状態となってしまいました。御台や梅若丸が、看病を尽くしますが、病は

さらに重くなる一方でした。最期を悟った是定は、舎弟の松井源五定景(さだかげ)や

家来の粟津六郎利兼(としかね)、山田三郎安親を、枕元に呼び寄せると、

「如何に皆の者。私の娑婆での縁も、最早、尽き果てて、これより冥途に向かうであろう。

梅若は、未だ幼少であるから、十五の歳になったなら、参内させて、吉田の家を継がせ

てくれ。それまでの間のことは、定景に頼み置く。利兼、安親は、定景と心を合わせて、

若を盛り立ててくれよ。

 梅若よ。父が死んだ後も、母に孝行を尽くし、立派に吉田の家を継ぐのだぞ。それでは、

さらばじゃ、北の方。名残惜しい梅若よ。」

と言い終えると、念仏を唱えながら亡くなったのでした。御台所も梅若も、おろおろと

泣き崩れる外はありません。御台様の嘆き事も哀れです。

「ああ、なんと儚いことでしょうか。このお殿様と、美濃の国の野上(岐阜県不破郡関ヶ原町)

で出合ってからというもの、片時も離れたことは無かったのに、冥途の旅といって、さ

っさと行ってしまうなんて、あなたは寂しくは無いのですか。私も一緒に、連れて行っ

て下さい。」

と、遺体に縋り付いて泣くのでした。しかし、どうしようも無いことなので、涙ながら

に、野辺送りをし、無常の煙としたのでした。松若は行方知れずとなり、今度は夫を失

った御台様の嘆き悲しみは、一方ならぬものでした。御台様と梅若殿の心の内は、哀れ

ともなかなか、申すばかりもありません。

つづく

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