古浄瑠璃正本集第1の(10)は、「待賢門平治合戦」であるが、内容的には、説経「鎌田兵衛正清」とほとんど同じであった。次の(11)は、「阿弥陀御本地」であるが、後半の三段分しか無い。(24)にも別の「阿弥陀御本地」が収録されているので、これを読んだが、説経「法蔵比丘」と同じ内容であった。以上の様な次第で、これらは、訳出には至らなかった。
古浄瑠璃正本集第1の(12)は、「大橋の中将」である。既に紹介した「はなや」や「むらまつ」「安口の判官」と同工異曲に、お家再興シリーズである。しかし、この刊期も版元も太夫も不明の作品は、「法華経」の法力をからめて、やや説経的なニュアンスが感じられる。この正本は、状態の悪い上巻三段分しか現存していないが、全体を奈良絵本によって補完することができる。なお、画像は、国文学研究資料館所蔵の奈良絵本(デジタル版)を利用した。
ちゅうじょう ①
いまは、右大将、征夷大将軍頼朝公の御治世。鎌倉に御所を造営なされ、草木も靡くばかりです。元々平家方の武士であった「大橋の中将」は、平治の合戦で、頼朝を助けた恩賞によって、壱岐・対馬を給わっています。ところが、梶原景時(かげとき)は、この中将を陥れて、壱岐・対馬を手に入れようと、企んだのでした。景時は、御前に進み出でて、
「我が君様に申し上げます。ご存知の通り、筑紫の国の大橋の中将は、元より敵の武将です。平治の合戦の時、君を討ち取る謀(はかりごと)は様々ありましたが、これを生き抜いてきたのも、君のご運の強さ故であります。しかし、この先、中将を生かしておくならば、再び謀反を起こすかもしれませんぞ。我が君様。」
と、言うのでした。頼朝は、これを聞くと、
「それでは、梶原に、三百余騎を与えるから、筑紫に下って、大橋を退治せよ。」
と、命ずるのでした。景時は、急いで館に帰ると、嫡子の源太(梶原景季:かげすえ)に、こう言うのでした。
「源太よ、よく聞け。お前は、これから、筑紫の国に下向せよ。大橋の中将を退治するのだ。」
そうして、源太は与えられた三百余騎を率いて、筑紫へと向かったのでした。筑紫に着いた源太は、こう思いました。
『有名な武将である中将殿と、直接にやりあっては、適う相手ではないぞ。』
そこで、源太は、軍勢を村々に隠すと、郎等を四五人連れて、鎌倉の使者として、中将殿と対面するのでした。源太は、
「中将殿、鎌倉へ御出仕下さい。頼朝公がお待ちです。」
と、告げますと、中将は、
「おお、かねてより、鎌倉へ出仕しなければと、考えていた所でした。源太殿のわざわざの御下向、誠にありがとうございます。それでは、早速に鎌倉に参りましょう。よろしくお願い致します。」
と、言うのでした。源太は、
「鎌倉での事は、何事も、某にお任せ下さい。」
と、さも頼もしげに答えるのでした。
それから、中将は、一間所へお入りになり、御台所に、
「よいか、御前。よく聞きなさい。鎌倉よりの使者源太が御下向になり、鎌倉に出仕せよとの命令だ。私は、元より平家方の者であるから、鎌倉において、殺されるであろう。お前の胎内には、七ヶ月の嬰児がいるが、もし男子で生まれたのなら、この法華経を、形見に渡してくれ。もし女子ならば、お前に任せる。名残惜しいことだ。」
と、話すと涙に暮れました。これを聞いた御台所は、
「なんという情け無いことでしょうか。あなたが十六、私が十四の春より、ずっと一緒に暮らして来たというのに、あなたが、鎌倉に行ってしまったら、私は、どうやって暮らしていけばよいのですか。」
と泣き崩れる外はありませんでした。この夫婦の人の別れの哀れさは、言い様もありません。
つづく
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