れんげ上人伝記 ②
さて、ここに哀れを留めたのは、豊春の妻、若の前でした。今は、三歳になる嬰児が
一人おりました。夫の豊春が、山において、討ち殺されたと聞き、涙に暮れておりましたが、
『二世の誓いを立てた夫が討たれ、帰らないことを嘆いているよりも、女の身であろうとも、
なんとかして、敵を騙して、恨みの一太刀を報い、夫の供養としよう。』
と、乱れる心の中で思い立ちます。しかし、後ろ髪を引かれるのは、老いた母と幼い
若君のことでした。しかし、心強くも思い切ると、思いの丈を文に書き記し、たった一人
で、敵の館を目指したのでした。
敵の館にやってきた若の前は、門番に近づくと、
「私は、人に騙されて、都から拐(かどわ)かされて来た者です。哀れと思し召して、
下の水仕の奉公にでも、雇っていただけないでしょうか。」
と、誠しやかに言いました。門番は、若の前をじろじろと見て、こう言いました。
「これはまあ、美人な女だな。当家に女房は沢山おるが、こんないい女はいないぞ。い
ったい、何処の者だ。話してみろ。」
と、丁度そこに、外出していた弾正国光が帰宅してきました。国光は、若の前を見るなり、
その美しさに、心奪われて、めろめろになってしまいました。国光は番人に、
「そこの女は、何の用があって、ここに来たのか。」
と、問いました。番人が、
「はい、当家へ宮仕えをしたいと、参った者でございます。」
と答えると、国光は喜んで、
「由緒正しい者であるならば、それそれ、今より直ぐに奉公いたせ。」
と、にこにこして言いました。若の前は、しめしめと心の中で
『よしよし、計略通りに、入り込めた。このまま騙し通して、きっと討ち取ってやる。』
と、勇みました。
さて、それから、国光は、仲居の女房を呼んで、
「さっき参った、旅の女を、急ぎ奥へ通せ。」
と命じました。やがて、女房が、若の前を連れてきました。国光は、入ってきた若の前が、
臆することもなく普通で居る様子を、うっとりと見惚れてしまいました。
「如何に、女。旅の者と聞いたが、生国は何処であるか。」
若の前は、都の者であると答えます。国光は、
「おお、我が故郷も都に近い所だが、いろいろ子細あって、この土地に住んで、もう長い。
今は、こんな所で無為に暮らしておるが、心は都人に劣ることはないぞ。今日は、用事
で出かけて、かなり飲んで来た所だが、せっかくの都の女。今宵は、お前を花と眺めて
酒盛りをすることとしよう。さあそれそれ、酒の用意じゃ。」
と言うと、盛大に酒宴を始めたのでした。やがて、夜も更け、家の人々も皆、寝所へと
下がりました。そこで国光は、若の前に膝枕をすると、
「まったく縁とは不思議なものよ。今日、偶然にも会ったばかりではあるが、どうも他
人とも思えない。これこそ、深い縁というものであろう。情けを掛けてくれよ。」
と、すっかりその気になって、優しい言葉を掛けるのでした。若の前は、
「もったいないお言葉です。私のような卑しい身の上の者を、召し抱えていただき、そ
の上、優しくしていただけるとは、身に余る喜びです。しかしこのようなことは、神仏
の前では、あってはならぬことです。」
と、わざと萎れて言うのでいた。その露を含んだ花の様な顔の、例えようも無い妖艶さです。
国光は、うっとりとしながら、酔いも回り、
「何を、余計なことを考えておるのだ。情けの道に、神も仏もあるものか。その様に、
他人行儀では、互いに心も打ち解けぬではないか。さあ、お前の心に任せるが、もっと
心を打ち解けてくだされ。」
と、言いながら、正体無く寝入ってしまいました。若の前は、
『さて、いよいよ機会がやって来た。その太刀を取って、胸元を突き刺して、夫の敵
を取ってやる。』と思いましたが、
『いや、もう少し待とう。失敗したら一大事だ。まだ、夜も半ば。家内の人々も、まだ
寝入ってはいない。もう一時(いっとき)も待てば、門番ども、きっと寝入るに違い無い。』
と、いろいろ知略を巡らせ、手筈を慎重に考えながら、はやる心を押し静めて、じっと
時の過ぎるのを待つのでした。
一方その頃、豊春は、慈悲心が天に通じて、危うい難儀を鶴に助けられ、宙高く運ば
れたのでしたが、虚空を飛んで気が付くと、知らない森の中に降ろされて、呆然と佇ん
でいます。
「おお、鶴に助けられ、再び地上に戻ったとは、嬉しい限りだが、ここは、いったい何処なのか。」
と、つぶやきながら、辺りを見回すと、どうやら近くに家があるらしく、灯火の光が
見えました。豊春は、その光を頼りに、進んで行きました。忍び忍び近づいて、障子の
隙間より、そっと中を覗いた豊春は、びっくりしました。中に居たのは、疑いも無き敵
の国光が、なんと妻の膝枕で寝ているのです。
「これは、いったいなんたることか。ここは、敵の館か。それにしても、なんで、妻が
ここに居るのだ。よりによって、敵に取り入るとは。」
さて、その時、若の前は、そろそろ良い頃だろうと、国光の太刀を取ろうとして、膝
を少し動かしました。すると国光は、目を醒まし、
「やれ、上﨟よ。最前の情けの言葉の返事はどうなったかな。さあさあ。」
と、迫るのでした。若の前は、はっとしましたが平然として、
「どうして、あなた様の仰せに背くようなことをしましょうか。しかし、今夜は、少し
お召し上がりが過ぎました。もう少しお休みになって、酔いをおさましください。」
といなすのでした。しかし、国光は、答える様も無く、またぐっすりと寝入ってしまいました。
これを、じっと見ていた豊春は、
「ええ、悔しいことだ。俺が討たれたと聞いてあの女、自分の難儀を逃れるために、母
や若を振り捨てて、敵に所で、身を立てる気だな。くそ、憎っくき女め。この所へ、落
とされたのも天の恵み。駆け入って、女房諸共に切って捨ててくれる。」
と、いきり立ちましたが、
「いや、待てよ。俺はまだ後手に縛られたままだ。このまま駆け入っても、返って返り
討ちに遭うだけだ。年来の敵とふしだらな女を目の前にして、討つことができないとは、
天道にみすてられたか。」
と、その場で、涙にくれるしかありませんでした。
その時、若の前は突然、太刀を取り、さっと抜いて、国光の胸に突き立てると、
「如何に、左衛門国光。私こそ、お前が討った豊春の妻女である。報いの程を知れ。」
と、一気に刺し通そうとしました。国光は反射的に起きあがり、太刀をはね除けましたが、
夢うつつのまま正体無く、若の前の突き刺す太刀を避けながら、あちらこちらとはいずり回りました。
やがて、障子に追いつめられた国光が、
「しばし、しばし。」
と、言う所で、外に居た豊春は、すかさず障子をはったと蹴倒し、国光諸共踏みつけると、
「俺だ、豊春だ。女房よ。よくぞやったり。さあ、早くこの縄を解いてくれ。」
と、大声を出しました。驚いた若の前が駈け寄って、縄を切り落としました。豊春は、
ばっと敵を取り伏せて、
「如何に国光。巡る因果を思い知れ。年来の本望、今、遂げん。」
と、国光の首を、討ち落としたのでした。
それから豊春は、若の前を肩に担ぐと、塀の上を乗り越え、飛び越えて、家に帰った
のでした。これは、石山寺の観音様を信仰したからこそであると、人々は皆、感心したのでした。
つづく
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