猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 36 古浄瑠璃 ゆみつき②

2015年02月24日 12時34分00秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
弓継 ②

そうして、玉松は比叡山へと向かいましたが、哀れにも玉鶴は道に迷ってしまい、帰る道が分かりません。そうこうしているうちに、能登国の人商人が、玉鶴を見かけるのでした。人商人が
「どこから来たのか。」
と尋ねますと、玉鶴はまだ十一才です。有りの儘に答えてしまうのでした。人商人は、喜んで、筑紫船に玉鶴を売りました。筑紫の人商人が買い取って、又あちらこちらと売られて行きました。そして、とうとう太宰府の山田右五右衛門という裕福な家に買い取られました。ここで、玉鶴は、蚕を飼う仕事を与えられ、毎日桑取りをする生活を送るのでした。
 その頃、筑紫の国司は、橘の国光卿でしたが、御門よりの宣旨があり、上洛することになりました。さて、国司様の行列がやって来ます。桑畑に差し掛かりますと、沿道には、国司様をひと目見ようと、人々が押し寄せていました。国光が、遙かの桑畑を見回しますと、ひとりで仕事をしている玉鶴の姿が目に入りました。国光は、
「私は、この国の国司として、いろいろ見聞してきたが、あの少女のように、ひとり真剣に仕事をする者を見たことが無い。何か事情があるのかもしれない。あの女を連れて参れ。」
と命じました。家来達が、急いで玉鶴を連れて来ると、国光は、
「私は、この国の国司であるが、おまえ一人が、真剣に桑摘みをしているのには、何か訳があるのか。子細があれば、申してみよ。」
と、問い掛けました。玉鶴は、
「はい、私は、加賀の国、頭川の者なのですが、人商人に拐かされ、この太宰府の山田の庄司と言う人に買い留められております。蚕を飼う仕事を命ぜられ、桑の葉を摘まなければならないので、御国司様のお通りを拝みたくても、手を離すことができませんでした。」
と泣く泣く答えるのでした。これを聞いた国光は、
「それは、気の毒なことであった。中国にも、ある娘が薪を拾っていて、王の御幸を拝まなかった話しがあるが、その娘も、この少女と同じ答えをしたという。その王は、人に仕える心の誠実さに打たれて、その娘を最愛したということだ。よし、お前達。この少女の身の代を主に与えて、身請けしてこい。」
と、命じたのでした。周りで見ていた大勢の女房共は驚いて、我も我もと、館に飛んで帰って、この事を山田の庄司に知らせるのでした。
 山田の庄司は、大変に腹を立てて、五人の子供らを集めました。子供達は、
「ええ、馬鹿にしくさって。その娘が欲しいのならば、一言、言ってくれれば、嫌とは言わないものを、なんと礼儀知らずな国司であるか。急ぎ追っかけ、討ち殺せ。」
と、五人の子供を大将に、その勢二百余騎で飛び出して行きました。やがて、山田の軍勢は、追いついて、鬨の声を上げました。
 ここに、国光の郎等、高馬(たかま)の七郎兄弟が、
「狼藉者は、何者か。名乗れ。聞かん。」
と呼ばわると、山田の太郎時春が、鐙を踏ん張って立ち上がり、大声で答えます。
「そこに居るのは、橘の朝臣、国光卿と存じ上げる。我が家で買い置くその女を、押さえて奪い取るとは、言語道断。その女をこちらに返されよ。返さなければ、一人残らずたたき切るぞ。」
高馬の七郎は、これを聞いて、カラカラと笑い、
「さてさて、もっともらしい口上をするものだな。山賊ならば、米銭(べいせん)をくれてやる。早々、帰れ。」
と、相手にもしません。五人の兄弟は、
「なんだと、憎っくき、今の雑言。ええ、思い知らせてくれる。」
と突進し、入れ違え揉み違えての戦となりました。両軍が互いに引いて息をつくと、国光は、
「いやいや、無益な合戦をするな。都への聞こえも悪い。もう、よい。姫を返せ。」
と、命ずるのでした。兄弟五人は、これを聞くと、
「まあ、そういう事でしたら、無理矢理に姫を取り戻そうという訳でもありません。弓矢の礼儀はこれまでとしましょう。どうぞ御上洛下さい。」
と、互いに挨拶を正して、別れたのでした。
こうして、国光は玉鶴を伴って上洛し、玉鶴姫は、やがて国光の一の后となりました。しかし、玉鶴は、片時も父母兄のことを忘れずに、月日を送ったのでした。


さて、一方、比叡山を目指した玉松殿は、やがて、山王権現に着きました。玉松は、神前で、
「ああ、有り難や。ようやくここに参ることができました。今日から、一心に祈りますので、我が心をお導き下さい。」
と、天を仰ぎ、地に伏して、一心不乱に祈るのでした。やがて、権現様も御納受されたのでしょうか、その頃、天台山に、その名も轟く慈覚(じかく)大師(円仁)の一の弟子で、長意(ちょうい)という僧が、山王権現にやってきたのでした。(※慈覚大師・長意、共に天台座主に就いた僧)長意は、玉松を見ると、
「どこから、いらしたのか。」
と、尋ねました。玉松が
「私は、加賀の国、頭川の里の者です。学問をするために、これまで参りましたが、誰一人知った方もなく、只、ひたすらに、権現様に祈誓ばかりです。」
と、答えますと、長意は、
「おお、それは中々、殊勝なお志ですね。そういうことであるならば、愚僧がお引き受けいたしましょう。」
と、玉松を伴って、天台山へと上がったのでした。玉松殿は、長意和尚の弟子となって、学問に精を出しました。元々、利発でありましたから、すぐに顕教密教の両方を修め、人々は、文殊菩薩の化身かと驚いたということです。十九の年で出家をなされると、やがて八宗兼学の大智者と認められ、御年三十五才にして、天台山の第十五代座主延昌とおなりになられました。親の教えのなんと有り難いことでしょうか。

つづく

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