その部屋に足を踏み入れた途端、
孝子は「あら」と声を出して微笑んだ。
窓から差し込んだ日の光が、
部屋の空気の中でまどろんでいる。
冬の午後の日は、やわらかな光の中に包まれていた。
「和乃さん、暖かくて気持ち良いわね」
足を運んでいくその合い向かいのベッドに横たわって、
窓の外をぼんやりと眺めている女性に明るく声をかけながら、
孝子は自分の受け持ち女性のベッドの脇へ
のしのしとふくよかな体を揺らしながら歩いていった。
よいしょ、と言いながら腕に抱えた洗濯籠をベッド脇のパイプ椅子に置き、
「今日来るのね?」
と言ってベットの主に笑いかけた。
上半身をベッドの上に起こし、腰まで伸びた白銀の髪の毛を
一心に梳かしているその初老の女性は、
孝子の言葉にはまるで反応を示さない。
「よかったわね」
孝子はそんな様子をまるで気にする様子もなく、
笑顔を崩さないまま女性の手から櫛をそっと取り、
慣れた手つきで彼女の髪を梳かしはじめた。
身体的、精神的に介護が必要な人たちの為、
国の援助を受けて経営されているこの施設に、
この女性が入所してきてから、かれこれ4年近くになる。
孝子はこの女性の入所時からの介護担当者だったが、
その当初からこの女性とは意思のやりとりが全くできなかった。
女手一つで育ててきた息子を、
ある日突然失ってしまったということ以外、
孝子の知る事実はない。
それ以上詮索する気もない。
孝子は手に持った櫛を丁寧に上下に動かし続けた。
じっと黙り込んで、
セルロイドの人形のような空洞の目を宙に浮かせながら、
真っ白な壁に囲まれた部屋の中で、
真っ白な院の指定パジャマを着て、
真っ白なシーツに包まれながら、
真っ白なカーテンが揺れる窓辺のベッドの上で、
初老の女性は髪を梳かされている。
ここは何もかもが真っ白だ。
孝子は口の中だけで愚痴りながら呟いた。
それは清潔さを第一に求める結果の院長の選択色だということは理解ができたが、
個人としての個性まで全くの白紙に戻してしまっているようで、
孝子はこの白さがどうしても好きになれなかった。
病院や施設に入院すれば、誰もが「病人」という種類の型にはめこまれてしまう。
そうじゃないのに、と孝子は思う。
「病人」である前に、「一人の人」なのに。
私だったら、ベッドも壁もパジャマの色も、
それぞれの好きな色にしてあげるのにな。
なんでも白けりゃいいってもんじゃないわ。
「おさげにする? それともシニヨンにしようかしら?」
意思をとうの昔にどこかに捨ててきてしまったような
空虚な初老の女性の瞳を覗きながら、孝子は言った。
答えは期待していない。
「この前来た時はいつだったっけ? 二週間くらい前?」
三分に分けた髪を一つのおさげに結いながら孝子は言葉を続けた。
不思議でしかたないことなのだが、
毎日世話をしている孝子にすら殆ど何の反応も示さない、
半分廃人のようになってしまった彼女が、
どう察するのかはわからないが、不定期なサイクルでやってくる
ただ一人の面会人の訪問日をピタリと当ててしまう。
自主的に何かをする意思を捨ててしまった彼女が、
朝から早々とベッドの上に半身を起こして髪を一心に梳かす。
この動作が、その面会人のやって来る前触れのサインだった。
その人物に会う時にだけ、がらんどうになってしまった彼女の体に
一時的に心が戻ってくることも孝子には不思議なことだった。
「三時のおやつのですよ」
両手に大きな菓子受けを持った同僚の介護士がベットの脇にやってきた。
シーツの上に力なく置かれていた彼女の手がすっと伸びて、
クッキーやせんべいが詰まった菓子受けの中から、
躊躇いもなく飴玉を一つとってその手に握り締める。
「あらまた飴玉なの? たまには違うお菓子食べたら?」
介護士のおせっかいな言葉に、
飴玉を持った彼女はいやいやをするように首を激しく横に振った。
「いいのよ、いいのよ。それが好きなんだから」
孝子は介護士に何も言うなと目配せをした。
食欲すら全く失ってしまった彼女が嫌がらずに食べてくれるのが
甘いものだった。幼い頃を戦時中に育った彼女にとって、
それは未だにご馳走なのだろう。
彼女は奪われないようにするかのようにしっかりと
飴玉を握った手を胸の前で握り締めている。
軽く肩をすくめるようにして部屋を後にした同僚の後姿を
孝子は半ば呆れた表情で見送ったあと、気を取り直すように、
「はい、できました」
と明るく言って、サイドテーブルの抽斗から出した手鏡を
彼女の前に差し向けた。三つ編みのおさげ髪を結った彼女の顔が
その中に映っている。気に入っているのかいないのか、
表情のないその瞳から窺い知ることは出来ない。
「こんにちは」
さっとそよ風が吹いていくような感覚がして孝子は後ろを振り向くと、
見慣れた顔が穏やかに微笑んでいた。
濃い霧が晴れていくように、初老の女性の瞳に光が差し込む。
「いらっしゃい、秀隆くん」
驚くほどはっきりと言った彼女の顔に、
満面の笑みが浮かんでいた。
加藤幸枝が初めて吉岡に出会った時のことは、
はっきりいってあまり記憶に残っていない。
ある日、勤めから帰ってテレビをつけると、
そこに自分の息子が映っていた。
手元に誰かのジャケットを掛けられた息子が、
数人のスーツ姿の男達に囲まれて、
どこか大きな建物の中に連れられていく映像が
TVの画面に映し出されていた。
あまりにも突飛で唐突なその映像に、幸枝は最初、
ただ呆然と画面を見詰めているだけだった。
すさまじい数のカメラのフラッシュにたかれた息子の顔は、
今まで見たこともないくらいに痩せ尖り、
その姿はまるで幽鬼のようだった。
TVのレポーターがカメラに向かって何かしきりに叫んでいた。
保険金目当て、容疑者、単独犯、検挙しました・・・
それらの言葉が、遠いどこかから切れ切れに幸枝の耳に飛び込んできていた。
視覚と、聴覚と、思考が、まるで繋がっていかなかった。
どうして息子がテレビに映っているんだろう?
このレポーターは何を言っているんだろう?
これは何のニュースを伝えているんだろう?
どうして息子が・・・・
容疑者の名前は、加藤靖、25歳。
加藤靖、25歳です。
奈落の底へ落ちていく感覚の中で、幸枝ははっと我に返った。
次の瞬間、幸枝は玄関へと走っていた。
人でごった返す正面玄関をやっとのことでくぐりぬけて
A署の受付へ辿り着いた幸枝は、カウンター内にいる制服警官に声をかけた。
「すみません、加藤の母です。息子に会わせてください」
互いにぶつかって罵り合いながら、狭い署内の廊下を
いきり立って走り抜けていく背広姿の男たちで、署内の中は異様に殺気立っていた。
「なんですか? 今立て込んでいるんですけどね」
振り向いた制服警官は幸枝に向かってぞんざいに言った。
「あの・・・、息子に、加藤靖に合わせてください。加藤の母です」
制服警官は取りかけた受話器の手を止めて、幸枝の顔をじろりと見た。
「一目でいいんです。この目で確かめさせてください。息子はほんとに、」
「息子の顔を間違える母親なんていないんだから、
あんたがそうだと思うならそうなんじゃないの?」
「でも、あの、」
「忙しいんだよ、こっちは」
横柄にそう言うと警官は受話器を持った背中を幸枝に向けた。
凶器は出たのか?!
ばかやろう、それより加藤の供述を今夜中にとれ!
容疑者、加藤靖は先月行方不明になった会社員の・・・
幸枝の背後で様々な会話が矢のように飛び交っていく。
膝ががくがくと震えて目の前が真っ暗になり、
幸枝は床に倒れ込みそうになった。
「大丈夫ですか?」
その時、背後から自分の体を支えてくれた手があった。
「すみません・・・ちょっと動顚してしまって・・」
「あちらに行きましょう」
真っ青に青ざめた顔でフラフラとよろめく幸枝の体を、
その手は横から労わるように抱え込んで廊下の端へと運んでいった。
「ここで休んでください」
喧騒から離れた廊下の脇に添えられたベンチに幸枝はそっと座らされた。
ひどい貧血でも起こしたかのように頭の中がじんじんと痺れていて、
幸枝は顔を上げることができなかった。
「ちょっと待っていてください」
廊下を駆ける靴音が遠ざかったかと思うとまたすぐに戻って来て、
幸枝の目の前にそっと水の入ったグラスが差し出された。
なんて綺麗な手なんだろう・・・。
混乱しきった頭の中で思わず呟いたほど、
その手はとても美しかった。
すらりとした白く繊細な指が、
透明な水の入った透明なグラスを包み込んでいた。
「ありがとうございます・・・」
俯いたまま小声で言って、幸枝はそのグラスを受け取った。
水を一口飲むと、ほんの僅だが生きた心地が戻ってきて、
幸枝は軽く息をはいた。
「これも・・・よろしかったら使ってください」
少し間を置いたあと、水でぬらしたタオルが続けて差し出された。
「すみません・・」
幸枝は素直にそれを受け取って、脂汗の浮かぶ額に当てた。
「ごめんなさい・・・」
そして項垂れたまま幸枝は再び詫びた。
「謝るのはこちらのほうです」
ふっと気持ちが包み込まれたような感覚がして、
幸枝は顔を少し上げた。
視線の先に、口角のやさしく上がった口元があった。
左側の口端に大きな絆創膏が貼ってある。
ひどく殴られでもしたのか、綿の部分が赤く滲んでいた。
「対応が悪くて、申しわけありません」
と続けて言った口元が、深く喉元へと引かれた。
頭を下げてくれたんだと理解するまで、少し時間がかかった。
そして理解した時には、
「息子が・・とんでもないことを・・・」
幸枝の口から言葉が零れ出ていた。
「人さまの命を・・・・」
茫然と呟く幸枝の言葉に驚く様子もなく、
その口元はまた静かに頷いたようだった。
「息子が取り返しのつかないことを・・・」
そう言いながら突然泣き出してしまった幸枝の背中に、
そっと手が置かれた。
それは温かくて、やわらかなやさしい手だった。
その後の幸枝に対する世間の風は、予想以上に冷たかった。
事件発覚後、20年以上毎日真面目に勤めてきた会計事務所を
あっけなくクビになり、それまで長い間培ってきた近所付き合いは、
糸が切れたように一切絶たれてしまった。
刑務所に入っている息子を除けば、もともと身寄りのなかった幸枝は、
天涯孤独の独りぼっちになった。
幸枝にたいする隣人達の悪質な噂は後を立たず、
アパートから引越ししたくとも、しかし先立つものがなかった。
もしあったとしても、幸枝はその金を迷わず遺族に支払っただろう。
息子の逮捕以来、幸枝は毎月、被害者の両親の元へ
読んでもらえるかわからない謝罪の手紙と一緒に送金していた。
週刊誌やスポーツ紙に、ありもしないことを興味本位に書きたてられる度に、
せっかく雇ってもらった仕事をクビになったが、それでも幸枝は頑張って
職を探して働き続け、そして息子の裁判には全て足を運んだ。
幸枝は、息子には極刑が下るだろうと覚悟していた。
最愛のひとり息子が刑場に消える。
それは考えるだけでも胸の裂ける思いだったが、
しかしそれは受け入れなければならない罰なのだと、
幸枝は息子のおかした罪の重さを直視した。
極刑判決が出ても、すぐに処刑されるわけではない。
その日が来るまで、奪ってしまった被害者の命と、
残された遺族に懺悔し続け、そしてお迎えの日がきたら、
自分の命をもって罪を償ってほしい。
一人じゃないよ、靖。
母さんだって、お前の後をすぐ追っていくんだから。
息子の辿り行く運命は、自分の辿っていく運命だった。
息子の公判に足を運ぶたびに、
いつも顔をあわせる若い刑事がいた。
以前どこかで会った気がするのだが、
幸枝はそれを確かな記憶として思い出すことが出来なかった。
折り目正しい品の良さを感じさせるその刑事は、
幸枝の顔を見つけると、いつも黙って深く頭を下げた。
蔑みの目と詰り、ときには罵声まで浴びせられる幸枝にとって、
その刑事はしごく異質の存在だった。
のちに幸枝は、彼の姿を証言台で目にすることになる。
ある公判で、検察側からの証人として証言台の席に座ったその刑事に、
検事は確認を取るための質問を投げかけた。
「あなたは、被告人である加藤靖に手錠を掛けた、
その本人に間違いありませんか?」
「間違いありません」
傍聴席に座っていた幸枝の頭の中に、
突然記憶が蘇った。
あの時の声だ・・・。
現場でどう手錠をかけたのかこの場で再現してくれと
検事から問われた言葉に従い、証言台から立ち上がったその刑事の姿を、
幸枝は凝視した。
靖の立場となって殴りかかろうとデモンストレーションする検事の右手を、
背後でねじ伏せるように押さえつけたその刑事の手が、
じっと見つめる幸枝の視界の中にとびこんできた。
水の入ったグラスと綺麗な手・・・。
記憶のパズルが幸枝の頭の中で合致した。
間違いない。
この人は、靖が逮捕されたあの夜、警察署の廊下で泣き崩れる自分の横に、
いつまでも黙って付き添っていてくれていた・・・
あのやさしい手の持ち主だ。
前回の公判で、逮捕時の様子を証言していた息子の言葉が
頭に中に思い返されてきた。
自分と同じ歳くらいの若い刑事が、
自首するように説得してきたので、
その顔を殴りつけて抵抗しました。
あの時の絆創膏の傷は、
息子が殴ったものだったんだ・・・。
この人が息子を・・・・。
「刑事さん、待ってください!」
正面玄関に向かって廊下を歩いていく背中に、
幸枝は走り寄りながら呼びかけた。
「あの時の・・、あの時の刑事さんですよね?」
足を止めて振り返ったその顔に向かって、幸枝はすばやく言った。
一拍呼吸を置いたあと、はい、と静かに頷いて、
その刑事はいつものように幸枝に深く頭を下げた。
「私・・あの・・あの時気が動顚していて、
よく刑事さんの顔を見てなくて、それでよく覚えていなかったんです。
お礼をいわないままで、大変な失礼をいたしました」
幸枝は頭を下げた。
「顔を上げてください。僕はただ・・・」
「ありがとうございます」
幸枝は頭を下げたまま言葉を継いだ。
「息子を捕まえてくださって・・・・ありがとうございました」
用意していた言葉ではなく、自然と口から出てきた言葉だった。
水を打ったような静けさが辺りを包み、
やがて幸枝はゆっくりと顔を上げると、
そこで驚くほど物静かな瞳と目が合った。
澄みきった秋空のような目だと、幸枝は思った。
「刑事さん、あの、ごめんなさい、お名前を覚えてなくて・・」
深く澄んだ眼差しに、ふっとやさしい笑みが浮かんだ。
「吉岡です」
その刑事は、静かに自分の名前を幸枝に告げた。
つづく
それとリンクして、ちょっと涙が。。。。。
取り返しのつかないことをしてしまった息子のために
世間の渦にのみ込まれていく母親。
私だったら、この母親と同じ行動が起こせるかどうか怪しい。
被害者の親にとっても、加害者の親にとっても、
違う意味で辛くて悲しい日々が続くんですよね。
そんな時、こんなに優しい微笑みの人間がいてくれたら
ちょっとだけ救われますね。
吉岡刑事の存在自体に涙が出てきます。
>似たような話のドラマが、今日本では放映されているので、
そうなのでぃすかっ?
う~ん、そのドラマも気になる~。
私もこれを書きながら、
この母親と同じように本当に強くなれるのだろうか?
って自問してましたです。。。
>被害者の親にとっても、加害者の親にとっても、
>違う意味で辛くて悲しい日々が続くんですよね。
そうですよね。。。
ほんとにそうだと思います・・・・。
どうして悲しい事件は起きてしまうんでしょう・・・。
やりきれないですよね。。。
吉岡刑事のこと、気に入って頂けてよかった。。。