月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語・その53

2011年02月17日 | 小説 吉岡刑事物語



2001年 春


誰かが手を握ってくれている。
ぼんやりと戻ってきた意識の中でぼくが最初に気づいたのは、
自分の手を包んでいる大きな手の温もりだった。
瞼が重くて開けられず、視界にそうと確かめることはできなかったけれど、
しっかりと握りしめてくるその手の持ち主は間違えようがなかった。
お兄ちゃんの手だ。
鼻先で薬品の匂いがした。頭の方でピーピーと何かの器械音が鳴っている。
やっとのことで目を開けた世界は、まるで習字の半紙を透かしているようで、
そこに見ているのは天井なんだと気づくのに、しばらく時間がかかった。
お父さんはどこ?
右手がそっと握り返されてきた。
横を見たら、お兄ちゃんは隣に座っていた。
赤い色のシャツを着ているのかなと思ったら、
白いシャツが真っ赤に染まっていたからびっくりした。
左腕に新しい包帯が巻いてある。
それどうしたの?
見つめてくる目はいつものように優しいのに、
だけどその顔は見た事もないくらいにやつれていて、
ぼくよりぜんぜん病人みたいだよと言ったら、
お兄ちゃんはちょっとだけ笑った。
白髪頭のお医者さんがやって来て、助かったのは奇跡だよとぼくにいった。
-感謝しなくちゃね。
隣で看護士さんがお兄ちゃんに向かって何かうるさく言っている。
-横になって休んでくれないとあなたの身体がもちませんよ、吉岡さん。
瞼がまた重くなってきて、
ああまた眠るんだなと思った。
マッチの火がすっと消えるみたいに目の中が暗くなって、
閉じた瞼の向こうから、お兄ちゃんの声が聞こえてきた。

「頑張ったね」

それはとてもとても静かな声だった。



頬に暖かみを感じて目が醒めた。
どれくらい眠っていたのだろう?
ぼくはまだ病院のベッドに横になっていて、
まるで棒切れになったようだ。
横を見ると点滴スタンドから細いチューブがだらんと垂れ下がっていて、
前にぼんやりと目を醒ましたときに見た光景と違うのは、
部屋に窓があることで、
そこにかかった白いレースのカーテン越しに、
葉っぱ色の陽の光がきらきらと揺れていた。その手前で、
お兄ちゃんが静かに本を読んでいた。
高い山の壁に米粒みたいな大きさの人間がよじ登っている写真表紙の本だった。
お兄ちゃん、と呼びかけようとしてふと、
自分とあまり年の変わらない刑事さんのことをそんな風に呼ぶものじゃないと、
いつもそう小言のように言っていたお父さんの言葉を思い出して、
開きかけた口を結んだ。
陽射しを背にしたお兄ちゃんの身体は光の中に溶け込んでいるみたいで、
そこから通されてぼくのもとに届く陽の光は、とてもやわらかで、
なぜかすごく透き通っている感じがして、
それは病室の空気なんかよりもずっとずっと清潔で、
しばらくじっと黙ってその姿を眺めていたら、
やっぱりお父さんは死んでしまったのだと、
不意に確信した。
それから天井に視線を戻し、
声を立てずに泣いた。
隣で、そっと本が閉じられる気配がした。
お兄ちゃんは、けれども何も言ってこなかった。
だからぼくも黙って泣きつづけた。
さらさらと流れ落ちる涙と一緒に、お父さんの姿が頭に浮かんできた。
二番目の裁判の後、それまで明るかったお父さんは殆ど笑わなくなった。
家には今までとは違う刑事さんたちや、雑誌記者だと名乗る人たちが、
頻繁にお父さんのことを訊ねにやって来ていて、でもぼくは、
お父さんが裁判の後に無理に辞めてしまった後も、
親切にぼくたちの面倒を見続けてくれていた工務店の社長夫婦さん以外は接触を避けた。
そうするのが、お父さんに対する愛情と信頼だと思ったから。
でもお父さんはぼくとあまりすすんで口をきくことはなくて、
新しく働きだした現場から遅く帰ってきたあと、
口数も少なく二人分の夕食を作って、残ったおかずを次の日の弁当箱に詰めて、
ぼくが寝てから独りで晩酌をし、そしてまた朝早く仕事に出かける。
そんな生活をただ黙々と繰り返しているだけだった。
眠れない夜に、襖の隙間から垣間見たお父さんの背中はとても寂しくて、
だから思わず新しいお母さんが欲しいと言ったら、そしたらお父さんは、
怒っているような、今にも泣き出しそうな顔で暫くぼくの顔を見つめたあと、
もう寝なさいと言って、背中を向けた。テレビには、チーム名もろくに知らないのに
サッカーの試合が映っていて、そこから流れる光と歓声音だけが、
薄暗い居間に一人で座るお父さんの体をひっそりと照らしていた。それが、
最後に交わしたお父さんとの時間だった。
次の日、学校から帰ってきて玄関を開けたら、誰もいないはずの上がり口に、
谷原が能面みたいな顔で突っ立っていて、驚くより前に脇腹に異物感を感じて、
唖然としたまま見上げたら、血の付いたナイフが目の前に光っていた。
咄嗟に横に逃げようとした瞬間に誰かがぼくの身体を庇っていて、
見たらそれは仕事に行っていたはずのお父さんの背中だった。
暗くなってくる目を一生懸命に開いて見た次の光景には、
お父さんが床に死んだように横たわっていて、その横に、
振り回していたナイフごとお兄ちゃんに組み伏せられていた谷原がいた。
サイレンの音と一緒にお兄ちゃんと同い年くらいの刑事さんが駆けつけてきて、
玄関の横に踞っていたぼくの体がふわりと宙に浮いた。
お兄ちゃんが抱き上げてくれたみたいだった。
そのあと目覚めたらぼくは病院にいて、お父さんはどこにもいなかった。
もうどこにもいないのに、けれどぼくはここにいて、
そしてぼくの中でお父さんは悲しいまま存在していて、
だけど窓の外には町の騒音が絶えず聞こえてきていて、
悲しくて、どうしようもなくて、ぼくはシーツを頭から被った。
騒音も涙も止むことはなかった。考えられることはただ一つだけだった。
お父さんは、
悲しんだままいなくなってしまった・・・。

「最期に・・・」

それを言葉で確かめたいのか自分でもわからないままに、
けれどもぼくは訊いていた。

「お父さんは・・・」

どうしていたの?と言い足せないでいる僕に、しばらく間を置いてから、
お兄ちゃんは答えてくれた。

-君の名を、何度も呼んでいたよ。

司!
自分の乗せられた救急車のドアが閉まる直前に見た光景が、
鮮やかに目の奥に浮かんできた。
つかさ、
お父さんは、床に横たわったまま確かにぼくの名前を呼んでいた。
つかさ・・・
血の付いた手をしっかりとお兄ちゃんの両手に握られながら、
お父さんは何かを繰り返し言っていた・・・
お兄ちゃんはその横で必死になってお父さんに頷いていて・・・

「・・・あのときお父さんは何を言っていたの?」

静まり返っている病室に、工事現場から届いてくるのか、
コンクリートの砕かれる音が遠く響いていた。

「お父さんはお兄ちゃんに何を言っていたの?」

ぼくの中で固まっている時間を、ゆっくりとほどいていくように、
お兄ちゃんは、静かに答えた。

-君に生きてほしいって、そう言ったんだ。

司を・・・
どうか助けてくれ・・・


鼻と喉の奥に嗚咽が詰まって、真っ暗なシーツの中でする呼吸が苦しかった。
涙が止まらなくて、どうしても止まらなかったから、そのまま流させた。
流れるまま、そしていつの間にか泣きつかれて眠ってしまっていた。
目を覚ましたら、ぼくの頭は枕の上にきちんと戻っていて、
お兄ちゃんは横にいてくれた。その眼差しは、
いつものようにぼくを見つめてくれている。
ここにいるよ、と。

「お兄ちゃん・・・」

お父さんは死んでしまったんだと、
まるで文字みたいな思いが頭に浮かび上がってきてまた泣きそうになったけど、
でもお父さんはもうどこにもいないんだということが、
実感としてどうしても心で飲み込むことができなかった。
一つだけ確かなのは、お兄ちゃんが横にいてくれるということだった。
お父さんが、ぼくに生きてくれと、最期に頼んだその人が、
今ここにこうしていてくれるという事実だった。

「お兄ちゃん、」

椅子に座った膝の上で両手を結んでいるお兄ちゃんは、
いつもみたいにやわらかく力強く頷いてくれる。
左腕のシャツの下に新しい包帯が巻かれていて、よく見たら、
口の端が殴られたみたいに切れて赤紫色の痣が滲んでいた。

「助けてくれてありがとう・・・」

そう言ったらやっぱりまた悲しくなって泣き出してしまったぼくに、
お兄ちゃんはとても静かな表情をその目に浮かべて、
それから語りかけるような口調でやさしく言った。

「君を助けたのは、君のお父さんと、君自身だよ」

窓辺の光は夕日に変わっていて、
お兄ちゃんの髪や頬を金色に染めていた。



入院は司が思った以上に長引いたが、毎日見舞いにきてくれる吉岡の存在に、
司はあまり寂しい思いをせずにすんだ。
吉岡が持ってきてくれる子供向けの科学雑誌を一緒に読みながら、
絶え間のない質問を出す司に、吉岡は一つ一つわかりやすいように説明して答えてくれた。
吉岡と過ごすそんな時間が、司は日がな一日待ち遠しかった。
どんなに忙しい時でも必ず日に一度は顔を見せてくれる吉岡だったが、
それ以外にも、医者というより少年野球チームのコーチみたいな担当医が、
回診時以外にも頻繁に病室に顔を出してくれていたので、そのことでも、
司の気持ちはだいぶ救われていた。
点滴がようやく取れて廊下を自由に歩けるようになると、看護士さんたちが、
見舞いにやって来る吉岡のことをあれやこれやとしつこく司に聞いてくるので、
お兄ちゃんにはすごい美人の彼女がいるから望みはゼロだと言ってやったら、
急に泣き出す看護士さんもいて司は驚いた。自分にとっての吉岡はもちろん
いつでもかっこいい男の人だったけれど、でも度々、ずっと張り込みをしていたのかと
訝るくらいにくたびれたスーツを着て見舞いにやってくるお兄ちゃんだったから、
それでも女の人たちにそんなにも人気があるのかと知って余計に驚いた。
だけど当の本人はまるでそんなことには無頓着で、
そんなことじゃ美人の彼女はできないよと忠告をした司に、
そうだねぇと吉岡は人ごとみたいに受け答えて明るく笑うだけだった。
後でそのことを担当の医者に話すと、真のかっこよさっていうのはそういうことだ、
よく覚えておけよ、司、と言って司の頭をごしごしと撫でた。
それから暫くたって司は、自分の担当医は吉岡の古くからの友人なのだと
婦長から聞くこととなった。司に寂しい想いをさせたくないからという
吉岡の頼みを聞き入れて、集中治療室を出た司を自分の勤める大学病院へと
移送手続きをしてくれたのがその友人の医師だったのだと教えてもらった。
それから、ナイフで刺された脇腹の出血が激しかったこと、
助かるには大量の輸血がすぐに必要だったこと、
けれども運ばれた病院には先に交通事故で運ばれた人がいて、
司にまわす輸血の量が足りなかったことを、全てそのとき婦長から聞いた。
数日後、退院が決まったことを午前の回診時に告げにきた担当医へ、
司は婦長の話以来ずっと念頭から離れなかったことを疑問符にして訊ねた。

「先生、ぼくはどうして助かったの?」

カルテに何かを記入していた筒井の手がふと止まった。

「ぼくはどうやって助かったの?」

筒井は、手にしていたカルテをサイドテーブルの上に置き、
ベッド脇に寄せたパイプ椅子に腰を下ろして、
ヘッドボードに上半身を寄りかからせてじっと見つめてくる司の顔を
見つめ返した。

「もしかしたら・・・お兄ちゃんがぼくに血をくれたの?」

筒井はしばらくじっと司の顔を見続けていたが、

「そうだ」

とやがて明確な答えを返してきた。
思っていた通りの答えを耳にしながら、でも・・・と司は戸惑いに口籠った。

「・・・でもお兄ちゃんはあのとき腕に怪我をしていて」

「それでも400ccの血を抜いたんだ。お前が死んだらどうすんだって怒鳴ってやったよ、
あとでそれを知って」

司は目の奥が急に熱くなってくるのを感じて、きつく両の瞼を重ね合わせた。

「けどお兄ちゃんは・・・ぼくに一言もそのことを言ってくれなかったよ・・・」

「言う必要はないと思ったからだろう」

筒井の言葉に、司はそれ以上何も言えなかった。それ以上何も聞けることはなかった。
目を開けて、ただ黙って、まっすぐに見つめてくる筒井の顔を見つめ返すのが精一杯だった。

「司、」

改めて呼ばれて、司も改めて筒井の顔を見つめ直した。

「いいか、お前には、ヒデの血も流れているんだ」

ゆっくりと諭すように言って筒井は椅子から立ち上がり、
カルテを手に戻した。

「そういうことだ、司」

そしてそう言い残して、筒井は病室をあとにした。




つづく

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2 コメント

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命の灯火 (霧島)
2011-02-22 21:20:58
先日からもう3回読みました。
ここには確かな吉岡くんが居るので、何回も読んでいます。もう涙、涙です。風子さん、どうしてこんな小説を書けるんですか?吉岡くんの性格や表情や心の動きや癖まで知り尽くしてる人でないと書けないですよね。そしてそれを文章で表現するんですからもう天才としか言いようがありません。尊敬します。そして楽しみを有難う。

こんな緊急事態でも冷静沈着で優しくて温かい。こんな人はそんなにいない・・と思いつつ、いや、リアルな吉岡くんならこうするだろうなと、小説の中の吉岡と現実の吉岡くんが区別がつかなくなりました。親友の筒井が又いいですね。類は友を呼ぶですね。続きが楽しみです。

もう直ぐ”遺恨あり”です。どんな吉岡くんでしょうね。こちらも楽しみ。風子さんも同時間に同じ空の下で見られることが嬉しいです。

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渡していく魂 (風子)
2011-02-23 14:31:34
霧島さん、こんにちは
そっ、そんなそんなそんな、私なんかには身に余るお言葉でぃすです
私の方こそ霧島さんにはありがとうの想いでいっぱいです。
いつも読んで下さり、大切なお時間をいただける事、
こうしてお気持ちを寄せてもらえる事に心から感謝しています。
とてもありがたく、そしてとても嬉しいです。

今週末はいよいよ「遺恨あり」の放送ですね!
もうすっごい楽しみで楽しみで腰に手を当て部屋中スキップランラララ~ン
と日々を過ごしていたのですが一つ忘れていました。
ワタスの家にはテレビが映らんとです・・・
もう盆暮れ正月西友大バザールが一気に去っていくのを悲しく見送る
クロマニヨン人な気分です。。。
ショックのあまり思わず出家しようかと思いました。

春風や
私のハートは
寒戻り
吉岡くんよ
花粉にパブロン

ついでに字余りで春の一句を詠んでしまいました・・・。
でも姉に録画を頼むつもりなので、日はずれてしまうのですが、
きっと私もいつか観れるはずなのだと、
吉岡君の姿が晴れて観れる日を心のビタミン剤にしながら、
この話のつづきも書いていきたいと思っておりますです。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

霧島さんから届けていただくお気持ち、
私も繰り返し繰り返しいつも大切に読ませていただいています。
ありがとうございます。幸せです
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