歳を重ねるごとに物欲は多少薄れていくとは言うものの、まだまだあれもこれも欲しいものだ。
そんなおいらにぴったりの教えがこれだ。
鎌倉時代の禅僧で、曹洞宗の開祖でもある道元の言葉だそうだ。
◆不思議な言葉でもある
余談だが、師は座禅している姿そのものが仏であり、修行しているそのものが悟りであるとも述べられ、
これを自分勝手に曲解し判断する不届き者もいるらしい。
「放てば手に満(み)てり」
手を離したからこそ得られるものがある。
手に握っているものを離す、つまり執着から離れるということを説いているのだろう。
何かにしがみついている限り、問題は解決しないものだ。
合わせて、苦しみもなくならないということなのだろう。
手を離すからこそ、見えてくるものがあり、手に入るものもある。
仏教全般に通ずる教えなのかもしれないが、たった8文字でズバッと言われると考えてしまう。
そういえばイソップ寓話の中でも、ビンの中に手を突っ込んで中の食べ物をつかんだら手が抜けなくなったというのがあったな。
なんのことはない、つかんだ物を離せば手はするりと抜けるということだ。
実際問題、生活の中で手にしているものを手放すというのはなかなかに困難が伴うものですが、
その気持ちは折に触れ思い出すべきものなんでしょうね。
そんなおいらにぴったりの教えがこれだ。
鎌倉時代の禅僧で、曹洞宗の開祖でもある道元の言葉だそうだ。
◆不思議な言葉でもある
余談だが、師は座禅している姿そのものが仏であり、修行しているそのものが悟りであるとも述べられ、
これを自分勝手に曲解し判断する不届き者もいるらしい。
「放てば手に満(み)てり」
手を離したからこそ得られるものがある。
手に握っているものを離す、つまり執着から離れるということを説いているのだろう。
何かにしがみついている限り、問題は解決しないものだ。
合わせて、苦しみもなくならないということなのだろう。
手を離すからこそ、見えてくるものがあり、手に入るものもある。
仏教全般に通ずる教えなのかもしれないが、たった8文字でズバッと言われると考えてしまう。
そういえばイソップ寓話の中でも、ビンの中に手を突っ込んで中の食べ物をつかんだら手が抜けなくなったというのがあったな。
なんのことはない、つかんだ物を離せば手はするりと抜けるということだ。
実際問題、生活の中で手にしているものを手放すというのはなかなかに困難が伴うものですが、
その気持ちは折に触れ思い出すべきものなんでしょうね。