村爺のなんでもいいべ

南相馬市の馬事公苑を中心に活動しているディスクゴルフの話題や南相馬の出来事や思いついたことを書いていきます。

ポケモンGOも復興支援

2016年11月13日 09時46分58秒 | 震災・放射能

 金曜日からポケモンの出現率がアップしていると聞いていたが、

ポケモンGOの運営会社が復興支援に乗り出したらしい。

岩手、宮城、福島の沿岸部でラプラスが出現しやすくなっているみたいです。

じじいは知らなかったけど、

ラプラスといえば、レア中のレアモンスターでお台場などの捕獲スポットと言われる場所でも滅多に遭遇できないそうです。

トレーナーにとってはこの上なくビッグなイベントが到来!!

ラプラスだけでなく他のモンスターの出現率もアップしているみたいですよ。

北泉海浜公園を散策しながらラプラスを捕獲しましょう~(^o^)/


働き手不足が深刻

2016年10月29日 12時03分27秒 | 震災・放射能

新聞に福島県の人口が震災前より115,025人減少した記事が載っていた。

平成27年国税調査の結果、前回の平成22年調査時より減少した割合は5.7%で全国2番目の減少率。

1番減少率が高いのは秋田県の5.8%。

何でだろう?

全国的に人口が減少している要因は少子化だが、

福島県は原発事故による避難が大きな要因となっている。

南相馬市は減少率18.5%。

震災前より13,081人も減っている。

65歳以上の割合も32.5%と高い。

要因はやはり原発事故による避難や転出だと思う。

震災が発生した平成23年3月11日現在の人口が71,561人。

震災以降に亡くなった人や転出者が15,350人。

市外避難者が9,079人。

現在の市内居住者が47,132人でそれに他市町村からの避難者2,411人が加わる。

国勢調査上の減少率は18.5%だが、

現実は避難者を含めると約34%の減少率になると思う。

俺の頭の中での計算なので正確ではないかもしれませんm(__)m

避難者のほとんどが子供を抱えた働き手が多い。

この数字を見ただけで南相馬市の人手不足が深刻なのがわかる。

俺が置かれている環境でも働き手の減少が約25%。

就業員を増やしたいが募集してもなかなか集まらないのが現状。

新卒の高校生も大学へ進学希望が多く少ない就職者を市内の企業が奪い合っていると聞く。

再雇用制度で65歳まで働く環境ができているが、

団塊の世代が間もなく65歳を迎えて行く。

働き手がいない状況で仕事は増える傾向にある。

南相馬市は現実復興事業や除染事業で多くの作業員が居住しているが、

そう長くない時期に終息を迎える。

その時が来たら南相馬市はどうなるのだろうか?

原発事故により大きく変貌を遂げてしまった町の現実が迫って来るかもしれませんね。


もう想定外は許されない!!

2016年10月27日 10時59分27秒 | 震災・放射能

昨日の大川小津波訴訟の判決についての記事が新聞に載っていた。

東日本大震災の津波で多くの児童命が失われた宮城県石巻市大川小学校。

学校側は津波襲来を予見できた上、

助かった可能性が高い裏山を避難先に選ばなかった過失があると認定した。

1000年に一度の大地震。

想定外のことが多く発生したことは当たり前のことだが、

あの混乱の中で果たして冷静な判断ができる人がいただろうか?

俺も海に面した会社で働いていて地震に遭遇した。

地震の影響で停電が発生しテレビからの情報は得られない。

大津波が襲来する警報は車のラジオから聞いた。

10m以上の大津波が押し寄せる。

しかし、

会社の敷地は20m以上の高台にあるから大丈夫という意識があった。

そこへ津波が襲来した。

想定外のことが発生してしまったのである。

大川小学校は海から約4km離れた津波浸水想定区域外だった。

ところが大川小学校は北上川の堤防からすぐ近くに建っていたのが災いした。

震災後は被災地支援も考えて、

毎年暮れは友人たちと津波被災地へ行って忘年会をやっていた。

南相馬もそうだが津波被災地はどこも多くの悲惨な状況にあった。

そんな中でも大川小学校で多くの子供たちが被災したことは悲惨過ぎてなかなか当地を訪れることができないでいた。

昨年の暮れの忘年会は津波被災地での開催はたぶん最後。

ということで、

大川小学校を訪れてきました。

あまりにも悲惨過ぎてブログに書けないでいたけどここに記載したいと思います。

この場所は5年7ヶ月前のまま。

あの日この校庭に子供たちが集まってたんですね。

校舎の裏側には北上川の堤防があります。

小学校へ向かうには北上川を渡る大橋のたもとから下って行きます。

津波襲来の映像でこの橋が冠水し堤防から水が溢れて行く光景をよく見ました。

その溢れた水が大川小学校を襲ったんですね。

その光景を思い出しながらここに立つと恐怖が感じられます。

新聞等では裏山と行っていた校舎の前には山があります。

津波到達地点の表示がされていました。

すぐ目の前に高い山があるのになぜ校庭にとどまっていたのか?

なぜ大川小より高いが危険な北上川の堤防付近に移動したのか?

現地にいた先生方はまさか津波が北上川を遡ってくるとは思っていなかったのかもしれない。

「想定外」

どうやったら命を守れるか

あの悲劇から学ぶことが多くなった。

あの経験を活かしてあらゆることを想定した訓練や知識が必要だと思う。

「想定外」を言い訳にしないだけの備えが必要ですね。

亡くなられた多くの子供たちのご冥福をお祈り申し上げますm(__)m


南相馬の避難指示解除

2016年07月12日 19時25分33秒 | 震災・放射能

昨日で東日本大震災発生から5年4ヶ月。

そして、

今日は原発事故以来避難区域のうち居住制限されていた区域が解除された。

避難区域解除に合わせ原発事故により不通となっていた、

JR常磐線原ノ町駅~小高駅間が5年4ヶ月ぶりに運行を再開した。

今日から当たり前のことが少し戻ってきたような気がする。

会社へ向かう途上にあるJR常磐線の踏切。

震災以来5年4ヶ月間遮断機の下りる姿を見たことが無かった。

今日は朝からヘリコプターが数機飛び回り電車の運行再開を撮影したいたらしい。

これまでろくに注意もしないで渡り続けてきた踏切。

これからは一時停止して確認して渡らなければならないですね。

まだ電車は相馬駅~小高駅間しか運行を果たしていなく、

遠方に行くには福島市や仙台市から電車に乗らなければならない。

避難指示が解除されて早期にいわき市まで運行再開になることを願いたい。

会社に行くといつもと違う光景が!!

原発から20kmの警戒区域が設定されてから5年2ヶ月間閉ざされてきたこの光景。

ここから先へは進むことができなかった。

それが朝出勤するときれいに撤去されていた。

震災前まで当たり前に見ていた、当たり前に通っていた光景が戻った。

今日は5年ぶりに通って見ようかと思ったが、

身体が自然に反対方向へ向いてしまった。

これからは以前のように通る道を使い分けることができますね。

当たり前の生活ができなきなると思っていた5年前。

それが長い期間を要して少しずつ戻りつつあります。

でも、

原発事故により失われた当たり前の姿はもう戻って来ることはないでしょう。

あれ以来人生が大きく変更されてしまったけど、

早く平穏な日が戻って来ることに期待したいですね。


ホッキ漁が再開

2016年06月04日 17時52分02秒 | 震災・放射能

待ちに待った磯部漁港のホッキ漁が再開したようです。

震災前は安くて大きい磯部産のホッキをよく買ってきて、

刺身やホッキごはんを作って食べるほど身近な存在だったんだけど。

地元でホッキが揚がるとまた手軽にホッキの刺身が食べられるようになりますね。

あぁ~ ホッキの刺身でビールが飲みてぇ~


あれから5年

2016年03月12日 21時39分11秒 | 震災・放射能

ここのところ仕事が最高に忙しくてブログを更新できないでいました。

昨日であの大震災から5年を迎えたんですね。

昨日は全然進まないでいた南相馬オープンの作業と確定申告を済ませるために会社をずる休み。

部屋でパソコンとにらめっこしている内にあの時間を迎えた。

毎年そうなんだけど、

あの時間を迎えるとあの時の光景がフラッシュバックのようによみがえってくる。

大きな揺れに見舞われたあの時のこと。

突然襲ってきた大津波に幸運にも巻き込まれずに助かったこと。

津波から逃げるために濡れながら必死に高台に避難したこと。

車が流されたので濡れた作業服のまま寒く暗い中を山を越えて家まで歩って帰ったこと。

家や家族がが無事で安心した瞬間涙が流れたこと。

原発が爆発したけどどうやって避難したらいいのか悩み続けた日のこと。

家族を連れて避難したはいいがどうすればいいのか悩み続けた日のこと。

避難先で何もできなくてストレスからどうにかなりそうになったこと。

避難先から帰って来たはいいが頑張ろうにも頑張れず何もできないでいた日々のこと。

5年経った今でもあの辛い日々の事が思い出されてくる。

忘れてはいけないことなんだとも思う。

こんな経験をしたからこの5年間頑張って来れたんだとも思う。

震災だけだったらもっともっと早く震災前の生活を取り戻すことができたろう。

あの原発事故さえなければ!!

原発事故がもたらした被災は計り知れなく大きい。

ハード面だけは復興できたように見えるがソフト面はそうではない。

国は見えるところだけで復興した姿が見えるようになったと言うが、

現実にはそうではない。

あの震災前の安定した生活が果たして戻って来るだろうか?

もう戻っては来ないのか!!


気になる新聞記事

2016年02月26日 11時42分16秒 | 震災・放射能

南相馬市に7000人を超える除染や復興作業の作業員が宿舎や旅館等に宿泊している。

今日の新聞に平成23年から昨年までに県警に摘発された除染作業員が563人もいるという記事が載っていた。

その内の2%が暴力団員だという。

市内でも除染作業員によるトラブルが激増していると聞いた。

最近は外国人除染作業員の姿も多く見かけるようになってきました。

店のレジでおばさんにどこだかわからない言葉でまくしたてられている姿を見たことがあります。

県警では暴力団など反社会的組織の参入阻止を図っていると言うが、

外国人に対しても対策を取っているんだろうか?

これだけ多くの作業員がいると対策をとってもどうなることか?

市内繁華街で警察による巡回等を増やしているようだが、

市民の不安は増えるばかりだと思う。

と言っても厳しい環境の中で除染作業をしていただいているのには感謝しなければなりません。

早く除染が終了して平和な生活が戻って来ることを願うしかありませんね。


5年後にやっと除染

2016年02月09日 11時05分56秒 | 震災・放射能

原発事故発生からもうすぐ5年を迎える。

徐々に線量が下がってきて除染対象から外れるのかと思っていたら、

現地調査の結果が来て、敷地内の除染が決定したようだ。

我が家の敷地内の空間線量モニタリング結果は、平均で0.29μSv/hr。

黄色の部分が0.31~0.50μSv/hr

赤い部分が0.50~1.00μSv/hr

予想していたより高い値だったことが分かった。

原発事故が発生してから1年後に市から線量計が配布されて、

それで計測したときには驚くような数値が出たような記憶があるけど。

あの時は室内でも0.3μSv/hr以上あったんだよ!!

それでも国は大丈夫だと言ってるけどね!!

除染作業は4班体制でそれぞれ違う下請け業者が入ってくるようですね。

今日は屋根と庭の現地調査をしています。

詳細な現地調査をして作業内容を決定してから除染作業に入るようです。

除染開始は3月に入ってからかな?

5年間も待たされてやっと一安心できるのか。


支援米

2015年11月19日 09時06分07秒 | 震災・放射能

今年も支援米が届きました。

真宗大谷派(東本願寺)長浜教区(滋賀県彦根市・米原市・長浜市・福井県敦賀市)のみなさんが、

毎年南相馬の檀家を通して送ってくれています。

私のところにも昨年から二年続けて届きました。

袋にはひとつひとつにメッセージが貼られています。

震災から4年8ヶ月が過ぎてもご支援を続けて頂けることに感謝したいと思います。

震災と原発事故に見舞われどうしようもない不安な気持ちで生活を送った時期もありましたが、

現在では不自由なく生活を送れるようになりました。

頂いた支援米をありがたく食べながら皆さんからの元気を頂きたいと思います。

われわれのところでも米の作付が可能になってきました。

まだまだ作付をしない農家が多くありますが、

食の安全や風評被害が緩和されるとともに以前の姿を取り戻しつつあるような気がします。

来年にはもっと多くの田んぼに米の作付が行われ、

きれいな田園風景が戻ってきてくれるでしょう。


あれから4年7ヶ月

2015年10月11日 22時06分24秒 | 震災・放射能

今日で東日本大震災から4年7ヶ月を迎えた。

徐々に復興は進んでいるがどうだろうか?

確かに避難区域以外の地区は普通の生活を送れるようになったとは思う。

だけど、

震災前のような環境にはもう戻れない。

震災前は今の時期農家は米の収穫に汗を流していた。

兼業農家の俺ももちろん休みの日は稲刈りや籾摺りで休みはなかった。

それが、

家の周りは作付されない雑草だらけの水田?が広がっている。

会社は、

震災後に発生した原発事故により従業員が20%以上減少した。

原発事故により減少した生産量も徐々に多くなってきたが従業員は戻ってこない。

残された従業員への負担は増すばかり。

町はどうか、

震災の復興と放射性物質の除染作業の作業者が増大して町は混乱状態。

治安の悪化や交通状態の悪化、交通事故の増加と悪い事ばかり。

そんな状況の中でも地元住民は必死に頑張っている。

今の政府は最近まで「福島の復興なくして・・・」なんてことを繰り返し行ってきたが、

ほんとうの実情はわかっていないだろう。

内閣改造でまた復興大臣と環境大臣が変わった。

果たして本当に復興を考えているのかわからない。

今日久しぶりに馬事公苑を訪れた。

震災と原発事故が発生した5月初めの写真がこれです。

あの当時の緑豊かなあの姿が馬事公苑へ戻って来るまでどれだけの時間がかかるだろうか?

この姿がこの時期から徐々に荒れ果てて行く姿を見つめてきた。

人が立ち入れなくなってしまう状況を作ってしまった原発事故。

それさえなければこの美しいコースが維持できたのに。

と、今日ここに立って思いさせられました。

大津波で流され行方不明だった友人の父親が発見された。

発見されたのは腕の一部。

震災の翌年に発見されDNA鑑定の結果が出たのは4年後だったと言う。

見つかったのはいいことだけどなんとなく複雑な気分ですね。

震災から4年7ヶ月。

徐々に震災と原発事故の事が忘れ去られようとしているが、

現地で頑張っている人にとってはこれからが大変な時になるでしょう。

そんなことを今日も思わされました。