村爺のなんでもいいべ

南相馬市の馬事公苑を中心に活動しているディスクゴルフの話題や南相馬の出来事や思いついたことを書いていきます。

富山とのつながり

2014年09月30日 11時06分19秒 | 南相馬の話題

今日の広告の記事に相馬と富山の絆の記事が載ってました。

南相馬でも古くから干し柿を作っていました。

その干し柿を作るのに主に使われていたのが「富山柿」。

われわれの地域でも各家々に富山柿の木が植えられ、秋が深まってくると軒先に柿がつるされる光景があったんですよ。

年々干し柿を作る家は減ってきていましたが、我が家では正月用に毎年少し作ってましたね。

それが原発事故後は放射性セシウムを取り込みやすい柿は食べられることなく、

今では柿木を見ること自体が珍しくなってしまいました。

そんな富山柿にも南相馬と富山のつながりがあったんですね。

柿の木が無くなってしまったのでネットから頂きました。

記事をここに載せたいと思います。

秋の味覚で知る 相馬と富山の絆

秋の味覚の一つに、美味しい「柿」がありますね。

ところで、相馬地区には「富山柿」「蓮如柿」と呼ばれる柿があります。

なぜ「富山」と「蓮如」なのでしょうか?

その答えのヒントは、民謡「相馬二遍返し」にあります。

「相馬二遍返し」は天明の大飢饉で人口が減少した相馬中村藩が移民を募集した際の、

相馬のコマーシャルソングという側面を持ち、その歌詞には、

「相馬はこんなに良い所だから、相馬に住んでください」という意味を持っています。

そして、その結果として、

加賀藩の砺波地区(現在の富山県)から(浄土)真宗の門徒が相馬地区へ移住してきました。

その際に、富山から持ち込んだ柿を通称して「富山柿」、もしくは蓮如上人の名をとって「蓮如柿」と呼ぶようになりました。

柿の名前だけではなく、富山からの移住が多かったことを示すものが他にもあります。

まず、一般的に東北地区には浄土真宗の空白地帯と呼ばれていますが、相馬地区には真宗の門徒が多く見られます。

そして、その浄土真宗の寺院では、本堂の壁一面に、門徒の名を記した木の札がかけられています。

この風習は富山県の砺波地区で見受けられるものです。

相馬地区の門徒は、ともに富山から移り住んだ寺院を「親里」と呼んでおり、

そのことからも移民の歴史を感じることが出来ます。

また、先の震災の時には富山県の真宗の寺院から多くの支援を頂きました。

これもやはり、相馬と富山を結ぶ歴史的な絆の証明ですね。

来年には北陸新幹線が開業しますので、この機会に富山を訪れてはいかがでしょうか?

という記事でした。

俺の家も浄土真宗で、門徒になっているお寺でも多くのご支援を富山県の浄土真宗の寺院から頂きました。

そして、ディスクゴルフでも富山県から多くのご支援を頂いています。

ありがとうございます。

我が家も浄土真宗の門徒だから先祖は富山県からの移民なのかな?調べたことなかった。

そして、昨年は移民から何百周年(忘れたのでごめんなさい)記念だとかで、門徒で富山県を訪れています。

そう考えると富山県とのつながりは強かったんですよね。

そして、俺は今年富山県に行くことを決心しました。

予定があるからはっきりした開催日を知りたいんでけどなぁ~!!



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3 コメント

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Unknown (みちのく下り藤)
2021-07-13 10:32:23
こんにちは、村爺様。
初めまして。
南相馬市の方ですと・・・お寺は上寺でしょうか、下寺か。
小学校のお隣か、信用金庫の後ろのお寺さんのご門徒さんですね。
ご一読下されば幸甚です。

ブログに関する事です・・・

蓮如柿。加岐、賀岐(平安時代の柿の当て字)

 富山県南砺市の真宗寺院・大福寺の太田浩史住職によると、福島県相馬市の民家の庭にある渋柿の約8割が「蓮如柿」「加賀柿」「富山柿」と呼ばれる蜂谷柿の一種なのだそうです。東日本大震災の少し前までは南相馬市の晩秋でも軒先にこれらの干し柿が一面に吊るされた光景が見られたといい、それらは江戸時代に北陸からの移民「入り百姓」がこの地へもたらしたものでした。

 1780年代、浅間山の噴火や世界的な冷害により天明の大飢饉が起こると、白河藩や笠間、宍戸藩、相馬中村藩など北関東の諸藩が行った施策の一つが「入り百姓」と呼ばれる国内で完結する移民政策でした。移民のほとんどは加賀藩や越後因幡の真宗門徒だったといいます。北陸は戦国時代からの人口爆発の地ですが、加賀藩などは江戸時代の初めにはもう既に利用できる平地という平地を水田に開発し尽くしてしまっており、千枚田なんてものまで出来ていた時代でした。その中で加賀に住む次男・三男家族などは開墾すべき新しい土地をどこかに探さなければならないわけです。そのような人々を勧誘して飢饉などで人口が三分の一にまで減り、耕作放棄地となった荒れ田・荒れ地へ招き、新田開発に農業技術指導などを行ってもらう。それが入り百姓の一つの目的でした。

 当寺白河藩主だった松平定信が越後の幕府飛び地領より真宗門徒を招致したのが入り百姓の始まりとされます。この成功により松平定信は老中筆頭に推挙され、寛政の改革が始まります。鬼平犯科帖にも出てきた人足寄場の制度や定宿を失った若者を農村へ帰す旧里帰農制、入り百姓による農村復興策等がここから始まることになります。この幕府領から幕府領への移民は平和裡に行われましたが、この後笠間藩や相馬中村藩などが行った他藩から他藩への移動、特に加賀藩などは税収が減ることになる走り人(無断での脱藩行為)を厳しく禁じていましたから、非合法な移民ということでその行動は慎重に隠密に行われました。一夜のうちに数家族が忽然と姿を消し、市振の関所を過ぎた後は昼は隠れて夜歩き、あるいは稲田や関東二十四輩の親鸞聖人の旧跡の巡礼者にまぎれ、草鞋脱ぎの寺と呼ばれる宿営地の寺を伝い歩いて関東を目指したのでした。

 相馬藩稲田の西念寺良水は加賀藩からの走り人、脱藩行為を主導、受け入れた責任を取って自刃するのですが、彼の子良恵はその書「入り百姓発端の記」の中で

 「ここに幸いなるかな、北国はおおよそ一宗の徒にして常に仏法を親しみ深きゆえ、人数も多く家業も激しき国風なれば、かの国に溢れる民俗を引き入れ、荒れ田を開発せしめ風儀をここに移さば、多くの幼童を養うといえどもその憂いなきを見習い、ついに因果の道理をわきまえん。因果をわきまえる人、自分の子を殺害してなんぞ快しとせん。ここに更に仁政を加えて彼れこれを以って正路に到らしめん」

 と記しています。北陸の真宗門徒は、子供は仏の子だとして、収穫の少なかった年は家族親子供平等に飢える、という風儀を選んでいる。そのため、子沢山の家であっても「凶作が来れば我が子を殺さねばならないのか」、と心配することが無い。彼らの風儀を見習って欲しい。間引き文化の中で生活していたとして、我が子を殺して平気な親がいるはずあろうか。なんとかして間引きの風習を無くしたい、という目的があったことが伺えるのです。

 移民は背に生大根を背負い、大根には甘柿(富有柿)と渋柿(蜂谷柿)の二本の枝を挿していました。甘柿は挿し木接ぎ木でないと確実には増えないので、種でなく生枝を運ぶ必要があったのです。干し柿も干し大根は凶作の年を乗り越えるための優秀な冬の保存食です。干し柿になる渋柿はカラスなど他の動物にも食われず、日照り続きなどで凶作の年ほどよく実るといい、甘さは砂糖の1.5倍とも3倍とも言われています。時代考察の中で「日本の中近世は、砂糖をはじめ甘いものが希少な時代だった」と語られることが最近多いように思いますが、麦芽糖や麹による甘酒、米飴、干し柿などの果糖が無いもののように扱われていて、私などは違和感を覚えます。

 日本と柿の付き合いはとにかく長いです。弥生・縄文時代どころか人類誕生以前、岐阜の第三紀、6,500万年前の地層から柿の種の化石が発見されております。柿は日本原産の植物なのです。万葉歌人の柿本の人麻呂さん家には大きな柿の木がありましたし、平安時代には加岐、賀岐と記述され、遺跡の庭から大量の柿の種が発見されたりしています。室町時代にはもう庭木として一般化しており、茶道では干し柿の甘さは和菓子、練り切りなどの指標とされました。その幹は茶道具や傘、床柱などに、ヘタは漢方薬に、渋柿の渋には防腐効果などがあって和傘に塗ったり書物の保存に使われ、屋敷の塀の向こうに柿の木と土蔵が見えたらそのお屋敷には古文書がある、ともいわれていました。その葉も殺菌作用から柿の葉寿司などに使われています。

 加賀の門徒は、江戸初期の南加賀から上越・梅ノ木村への開拓移民や北海道開拓など、白山信仰、白山神社とセットになって日本の移民史のそこかしこに登場します。呼ばれて行った先では色々なことがあったのでしょうが、稲作だけに頼らない冬越しのために、彼らの行った先々では、晩秋になると軒一面に並べられた干し柿、干し大根の光景が見られたことでしょう。

 最近では、晩秋の風物詩であった吊るし柿、干し大根の風景も本当に見られなくなってきました。冬の山地を行けば、真っ白な雪の中、田んぼの向こうの山沿いに、巨大な柿の木が誰にも収穫されないままの朱色の実を天に投げかけています。桃栗三年柿八年といい、実になるまでは長年の付き合いをしないといけないのが柿の特徴でもあります。他の動物に食べられないようにとわざと渋を入れ、人々に向かってさあこれを取りなさい、とその実を差し出している。相馬での渋柿の別名が「蓮如柿」というのは、本当に出来すぎた話だと思います。渋柿も人間の歴史とともにあったんでしょうね、他の動物に種を運んで欲しければ、甘くなればいいわけですから。

 これだけの歴史と鈴成りの実を抱えた柿の木が、現状通り過ぎ見るだけの光景になってしまっているのは本当にもったいないことなのだと思います。

資料出展・太田浩史著「相馬移民と二ノ宮尊徳」より
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Unknown (みちのく下り藤)
2021-07-13 11:00:10
「相馬二遍返し」は、現代でいう移住募集PRコマーシャルですね。

その歌を聞いて、歌の通り理想郷を目指し喜び勇んで相馬をめざした・・・と感じた時もありますが、察するに実際は異なるのだと最近は感じます。
 
~移民は背に生大根を背負い、大根には甘柿(富有柿)と渋柿(蜂谷柿)の二本の枝を挿していました。甘柿は挿し木接ぎ木でないと確実には増えないので、種でなく生枝を運ぶ必要があったのです。干し柿も干し大根は凶作の年を乗り越えるための優秀な冬の保存食です。干し柿になる渋柿はカラスなど他の動物にも食われず、日照り続きなどで凶作の年ほどよく実るといい~

相馬へ持ち運ぶわずかな荷物(財産)です。あまりにも用意周到な気がいたします。
分かっていたのでしょうね、相馬は歌のようには楽に暮らせない土地という事を。
何が起きているかある程度分かっていて、それに備えてできる限り準備をした・・・それが甘柿(蓮如柿富山柿)と渋柿(蜂谷柿)の種と若木や故郷富山のそば種を我等のご先祖達は持ち運んだのでしょう。
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Unknown (むらじい)
2021-07-23 10:33:56
みちのく下り藤さん
返事が遅くなり申し訳ありません。
貴重な詳しいお話ありがとうございます。
富山から移民された皆さんが大切に持ってきた柿「富山柿」は、この地域で長い間美味しい「干し柿」を提供してくれました。その富山柿も原発事故の影響で伐採されてほとんど見られなくなってしまいました。原発事故から10年、伐採された跡に新しい柿の木が植えられ始めています。富山と深いつながりのあった「富山柿」も忘れ去られる存在になってしまいましたが何かの形で残していきたいですね。
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