お問合せ等は、
メッセージを送る
クリック
うどんの研究
連載中
(13)うどん雑学
3.小麦粉の地域の食文化料理
⑱長野県
おとうじ 1/2 new
長野県北部の雪の少ない長野市周
辺の中山間地は、一戸当たりの水
田耕作が少なく、2毛作で小麦が
栽培され、日に一食は麺類やすい
とん、おやき等の粉物料理が家庭
で食されていた。今でも長野市は
家庭での小麦粉消費量は日本一で
す。 麺類の中でもおとうじは、人
寄せや来客時の 食事として食され
た。おとうじ用の麺は細麺で、地
粉で打つ釜揚げやぶちこみ、煮込
みうどんに比べうどん打ちが大変
で、乾麺の冷麦 も好く食されます。
(次回に続く)
⑰三重県
伊勢神宮・ 10/10
おかげ参りと伊勢うどん new
このように、本県特有の歴史や食
文化、先人達の努力と知恵を親子
料理教室など、食育を通して伝え
ていくことは意義深いものと考え
ている。一般的に伊勢うどんは、
生麺と各店秘伝のタレがセットで
販売されており、食べる前にタレ
と麺を箸でかきまぜる。麺が少な
くなった時にタレが沢山残ってい
ると、辛く感じることがある。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 9/10
おかげ参りと伊勢うどん
また、「伊勢うどん」はそのシン
プルさから、生麺と店特有のタレ
文化、先人達の努力と知恵を親子
料理教室など、食育を通して伝え
ていくことは意義深いものと考え
ている。一般的に伊勢うどんは、
生麺と各店秘伝のタレがセットで
販売されており、食べる前にタレ
と麺を箸でかきまぜる。麺が少な
くなった時にタレが沢山残ってい
ると、辛く感じることがある。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 9/10
おかげ参りと伊勢うどん
また、「伊勢うどん」はそのシン
プルさから、生麺と店特有のタレ
をセットにして、量販店や土産物
店で販売され、通信販売でも地方
発送をしており、インターネット
で「伊勢うどん」を検索すると、
各店自慢の商品の紹介や作り方、
食べ方、求め方を提供している。
一方、原料となる県内の小麦栽培
では、従来は「農林61号」が主流
であったが、地産・地消、地域産
業推進の活動の中から、新たな品
種が導入され、製パン用として「
ニシノカオリ」が、中華麺用とし
て「タマイズミ」が、伊勢うどん
には「あやひかり」が向いている
ことが明らかになり、近年作付面
積・生産量が増加し、その需要の
拡大に期待が寄せられている。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 8/10
おかげ参りと伊勢うどん
とりわけ、神宮周辺は旅館、餅屋
等食べ物屋が軒を連ね、中でも、
外宮から内宮へ向かう途中にあっ
た豆腐六(どぶろく)は、「この
店のうどんを食べて来た。」とい
うのが旅の土産話になるほど評判
のうどん屋であったそうである。
現在では、道路、交通事情、生活
様式も大きく変わり、市内のうど
ん屋の数も減ったが、地元の人達
はそれぞれに贔屓の店があるらし
い。また、内宮近くの「おはらい
町」に昔の町並みを再現、保存し
た「おかげ横丁」がつくられ、土
産物店、食べ物店が立ち並び、
大勢の参拝者で賑わっている。そ
して、その中の何軒かの店が「伊
勢うどん」の看板を掲げ、自慢の
味を競っている。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 7/10
おかげ参りと伊勢うどん
この「お陰参り」の語源は、これ
ら参宮者のために街道筋では住民
による施行が行われ、着の身着の
ままでも参加できたので、この名
があるとも言われている。中でも
文政のときは、4 ヶ月間に宮川の
渡船場を渡った者が約428万人で
あったという。当時の日本の総人
口が約3,000万人と言われている
ので、驚異的な数字である。余談
になるが、松浦武四郎は文政元年
( 1818)の生まれで、子供の頃住
んでいた小野江を南北に参宮街道
かった。13 歳になる武四郎は街
道を行き交うお陰参りの群れを好
奇の目で眺め、旅人との接触から
大いなる刺激を受けたに相違ない
。武四郎が 「出奔」 するように
最初の旅に出たのは、天保4年( 1
833)、数え年17歳の冬であった。
(「炎の旅人 松浦武四郎の生涯」
本間完治著)明治2年(1867)政府
から蝦夷地御用掛に任じられるま
でに、武四郎の蝦夷地渡航は6回
に及び、その内の3回目までは自
費の旅であった。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 6/10
おかげ参りと伊勢うどん
こうした中で、特別の効験がある
という60年に一度のありがたい年
、つまり、「お陰年」に対する期
待と参宮とが結びついて「お陰参
り」という集団参拝の現象が生じ
たようである。記録に残っている
ものでも、慶 安 3年(1650)を初
めとして、宝永 2年(1705)、享
保 3年(1718)、享保 8年(1723)、
明和 8年(1771)、文政 13年(18
30) の6回にわたる。享保年間の
ものは地域的なものにとどまり、
宝永、明和、文政の三つは全国的
な規模のもので、約60年を周期と
して流行した。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 5/10
おかげ参りと伊勢うどん
古代の伊勢神宮は、皇室の祖先神
ということで、勅許によらなけれ
ば一般民衆はもとより、貴族にし
ても個人的な参拝は許されるもの
ではなかった。律令制の衰退が進
むなかで、平安末期ごろから社寺
参詣の風潮が広まり、民衆の信仰
の対象となっていったようである
。その後、「伊勢講」や「神明講
」が全国に結成されるなど、広範
囲に信者を獲得し、「一生に一度
はお伊勢参り」という通念が生み
出され、伊勢参りは隆盛を極めた。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 4/10
おかげ参りと伊勢うどん
このうどんの由来は、江戸時代以
前から、この地の農民が自分達の
日常の食事のために、なるべく安
上がりで、延ばす手間がいらない
太い麺に、自家製の味噌からでき
た「たまり」を少しかけて食べた
のが始まりとされている。一般の
うどんと大きく異なるのは、先ず
、麺が極度に太く全く「コシ」が
ない。コシの強さが売りものの「
讃岐うどん」とは、両極端であり
、ザップリあるはずの汁はほんの
少しだけ、具は刻みネギだけとい
う素朴さが特徴である。その後、
いりこや鰹節などのダシで食べや
すくしたものを、およそ360年前
に浦田町、橋本屋七代目の小倉小
兵が伊勢参り(お蔭参り)の客に
供するために、うどん屋を開業し
たのが「伊勢うどん屋」のはじま
りと言われている。「伊勢参り」
は伊勢神宮を基盤にした参詣の様
式で、「伊勢参宮」地元では単に
「参宮」と呼ばれている。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 3/10
おかげ参りと伊勢うどん
一般のうどんのイメージとのあま
りの違いに、暫く眺めていると、
店のおばさんが出てきて、「あの
な、あんたらな、伊勢ではこれが
普通のうどんやに、箸でかき混ぜ
てから食べるんやに。」と丁寧に
教えてくれた。食べてみるとタレ
が濃い割には甘口で、鰹ダシがよ
く利いていた。しかし、汁がない
のでどうも勝手が違った。出され
たお茶を交互に飲みながら、どう
にか食べ終えたことを記憶してい
る。いまでこそ、広く食べられる
ようになったが、以前は「宮川か
ら五十鈴川まで」と言われ、伊勢
を挟んだ二つの川を渡ってしまう
と、店では食べられないというほ
どに、伊勢独特のうどんだったよ
うである。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 2/10
おかげ参りと伊勢うどん
旧道と平行して走る国道23号線
を南下、松阪を越えると左手に昔
、未婚の皇女が天皇の名代として
伊勢神宮に仕えた「斎宮」跡があ
り、現在は「斎宮歴史博物館」と
して保存されている。これを過ぎ
、宮川大橋を渡り、伊勢に着くと
ちょうどお昼になった。近鉄伊勢
市駅前の外宮に程近い食堂に入り
、早速うどんを注文した。間もな
く、おばさんがうどんを運んでき
た。普通のどんぶりの中には、太
い麺に黒い色のタレがトロリとか
けてあり、刻みネギが添えてあっ
た。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 1/10
おかげ参りと伊勢うどん
初めて伊勢うどんに出会ったとき
の「感激」は、いまでも鮮明に覚
えている。もう40年以上も前にな
るだろう。「伊勢へお参りに行っ
たら変わったうどんがあるで食べ
ておいで。」と母親に教えられ、
友人とバイクに乗って約40km離
れた伊勢へ向かうことにした。居
所の久居(現在の津市)を出発し
て少し走ると、旧の東海道(参宮
街道)と交差し、すぐに国道23
号線に出る。この交差する旧道付
近が、現在は松阪市となったが、
昔の「三雲村小野江」で、北海道
の名付け親として知られる、松浦
武四郎の生誕地で、当時その名を
知る由もなかったが、今では立派
な記念館が建ち、生家も保存され
ることになった。
(次回に続く)
⑯静岡県
黒はんぺんフライ
さくらエビの天ぷら 2/2 new
『黒はんぺんフライ』の主役はも
ちろん黒はんぺん。ご参考までに
「はんぺん」と言えば多くの方は
白いふわふわとした物を想像され
るのではないでしょうか。静岡で
「はんぺん」といえば、巷でうわ
さの「静岡おでん」になくてはな
らない黒いはんぺんです。食感は
弾力があり、色は商品によって多
少違いますが灰色です。一方の「
さくらえび」は静岡県に二社ある
製粉会社両社のお膝元である「由
比港」と「大井川港」でしか水揚
げされない貴重な食材です。海の
宝石とも呼ばれ春季・秋季二回の
収穫期があり生の天ぷらは格別で
す。どちらもご飯のおかずとして
、酒の肴として喜ばれております
。食べ方はお好みで、フライであ
ればレモンを絞っても良し、醤油
、ソースでも良し、天ぷらであれ
ば塩で良し、天つゆに付けて良し
と幅広い食べ方ができます。
(次回に続く)
店で販売され、通信販売でも地方
発送をしており、インターネット
で「伊勢うどん」を検索すると、
各店自慢の商品の紹介や作り方、
食べ方、求め方を提供している。
一方、原料となる県内の小麦栽培
では、従来は「農林61号」が主流
であったが、地産・地消、地域産
業推進の活動の中から、新たな品
種が導入され、製パン用として「
ニシノカオリ」が、中華麺用とし
て「タマイズミ」が、伊勢うどん
には「あやひかり」が向いている
ことが明らかになり、近年作付面
積・生産量が増加し、その需要の
拡大に期待が寄せられている。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 8/10
おかげ参りと伊勢うどん
とりわけ、神宮周辺は旅館、餅屋
等食べ物屋が軒を連ね、中でも、
外宮から内宮へ向かう途中にあっ
た豆腐六(どぶろく)は、「この
店のうどんを食べて来た。」とい
うのが旅の土産話になるほど評判
のうどん屋であったそうである。
現在では、道路、交通事情、生活
様式も大きく変わり、市内のうど
ん屋の数も減ったが、地元の人達
はそれぞれに贔屓の店があるらし
い。また、内宮近くの「おはらい
町」に昔の町並みを再現、保存し
た「おかげ横丁」がつくられ、土
産物店、食べ物店が立ち並び、
大勢の参拝者で賑わっている。そ
して、その中の何軒かの店が「伊
勢うどん」の看板を掲げ、自慢の
味を競っている。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 7/10
おかげ参りと伊勢うどん
この「お陰参り」の語源は、これ
ら参宮者のために街道筋では住民
による施行が行われ、着の身着の
ままでも参加できたので、この名
があるとも言われている。中でも
文政のときは、4 ヶ月間に宮川の
渡船場を渡った者が約428万人で
あったという。当時の日本の総人
口が約3,000万人と言われている
ので、驚異的な数字である。余談
になるが、松浦武四郎は文政元年
( 1818)の生まれで、子供の頃住
んでいた小野江を南北に参宮街道
かった。13 歳になる武四郎は街
道を行き交うお陰参りの群れを好
奇の目で眺め、旅人との接触から
大いなる刺激を受けたに相違ない
。武四郎が 「出奔」 するように
最初の旅に出たのは、天保4年( 1
833)、数え年17歳の冬であった。
(「炎の旅人 松浦武四郎の生涯」
本間完治著)明治2年(1867)政府
から蝦夷地御用掛に任じられるま
でに、武四郎の蝦夷地渡航は6回
に及び、その内の3回目までは自
費の旅であった。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 6/10
おかげ参りと伊勢うどん
こうした中で、特別の効験がある
という60年に一度のありがたい年
、つまり、「お陰年」に対する期
待と参宮とが結びついて「お陰参
り」という集団参拝の現象が生じ
たようである。記録に残っている
ものでも、慶 安 3年(1650)を初
めとして、宝永 2年(1705)、享
保 3年(1718)、享保 8年(1723)、
明和 8年(1771)、文政 13年(18
30) の6回にわたる。享保年間の
ものは地域的なものにとどまり、
宝永、明和、文政の三つは全国的
な規模のもので、約60年を周期と
して流行した。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 5/10
おかげ参りと伊勢うどん
古代の伊勢神宮は、皇室の祖先神
ということで、勅許によらなけれ
ば一般民衆はもとより、貴族にし
ても個人的な参拝は許されるもの
ではなかった。律令制の衰退が進
むなかで、平安末期ごろから社寺
参詣の風潮が広まり、民衆の信仰
の対象となっていったようである
。その後、「伊勢講」や「神明講
」が全国に結成されるなど、広範
囲に信者を獲得し、「一生に一度
はお伊勢参り」という通念が生み
出され、伊勢参りは隆盛を極めた。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 4/10
おかげ参りと伊勢うどん
このうどんの由来は、江戸時代以
前から、この地の農民が自分達の
日常の食事のために、なるべく安
上がりで、延ばす手間がいらない
太い麺に、自家製の味噌からでき
た「たまり」を少しかけて食べた
のが始まりとされている。一般の
うどんと大きく異なるのは、先ず
、麺が極度に太く全く「コシ」が
ない。コシの強さが売りものの「
讃岐うどん」とは、両極端であり
、ザップリあるはずの汁はほんの
少しだけ、具は刻みネギだけとい
う素朴さが特徴である。その後、
いりこや鰹節などのダシで食べや
すくしたものを、およそ360年前
に浦田町、橋本屋七代目の小倉小
兵が伊勢参り(お蔭参り)の客に
供するために、うどん屋を開業し
たのが「伊勢うどん屋」のはじま
りと言われている。「伊勢参り」
は伊勢神宮を基盤にした参詣の様
式で、「伊勢参宮」地元では単に
「参宮」と呼ばれている。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 3/10
おかげ参りと伊勢うどん
一般のうどんのイメージとのあま
りの違いに、暫く眺めていると、
店のおばさんが出てきて、「あの
な、あんたらな、伊勢ではこれが
普通のうどんやに、箸でかき混ぜ
てから食べるんやに。」と丁寧に
教えてくれた。食べてみるとタレ
が濃い割には甘口で、鰹ダシがよ
く利いていた。しかし、汁がない
のでどうも勝手が違った。出され
たお茶を交互に飲みながら、どう
にか食べ終えたことを記憶してい
る。いまでこそ、広く食べられる
ようになったが、以前は「宮川か
ら五十鈴川まで」と言われ、伊勢
を挟んだ二つの川を渡ってしまう
と、店では食べられないというほ
どに、伊勢独特のうどんだったよ
うである。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 2/10
おかげ参りと伊勢うどん
旧道と平行して走る国道23号線
を南下、松阪を越えると左手に昔
、未婚の皇女が天皇の名代として
伊勢神宮に仕えた「斎宮」跡があ
り、現在は「斎宮歴史博物館」と
して保存されている。これを過ぎ
、宮川大橋を渡り、伊勢に着くと
ちょうどお昼になった。近鉄伊勢
市駅前の外宮に程近い食堂に入り
、早速うどんを注文した。間もな
く、おばさんがうどんを運んでき
た。普通のどんぶりの中には、太
い麺に黒い色のタレがトロリとか
けてあり、刻みネギが添えてあっ
た。
(次回に続く)
伊勢神宮・ 1/10
おかげ参りと伊勢うどん
初めて伊勢うどんに出会ったとき
の「感激」は、いまでも鮮明に覚
えている。もう40年以上も前にな
るだろう。「伊勢へお参りに行っ
たら変わったうどんがあるで食べ
ておいで。」と母親に教えられ、
友人とバイクに乗って約40km離
れた伊勢へ向かうことにした。居
所の久居(現在の津市)を出発し
て少し走ると、旧の東海道(参宮
街道)と交差し、すぐに国道23
号線に出る。この交差する旧道付
近が、現在は松阪市となったが、
昔の「三雲村小野江」で、北海道
の名付け親として知られる、松浦
武四郎の生誕地で、当時その名を
知る由もなかったが、今では立派
な記念館が建ち、生家も保存され
ることになった。
(次回に続く)
⑯静岡県
黒はんぺんフライ
さくらエビの天ぷら 2/2 new
『黒はんぺんフライ』の主役はも
ちろん黒はんぺん。ご参考までに
「はんぺん」と言えば多くの方は
白いふわふわとした物を想像され
るのではないでしょうか。静岡で
「はんぺん」といえば、巷でうわ
さの「静岡おでん」になくてはな
らない黒いはんぺんです。食感は
弾力があり、色は商品によって多
少違いますが灰色です。一方の「
さくらえび」は静岡県に二社ある
製粉会社両社のお膝元である「由
比港」と「大井川港」でしか水揚
げされない貴重な食材です。海の
宝石とも呼ばれ春季・秋季二回の
収穫期があり生の天ぷらは格別で
す。どちらもご飯のおかずとして
、酒の肴として喜ばれております
。食べ方はお好みで、フライであ
ればレモンを絞っても良し、醤油
、ソースでも良し、天ぷらであれ
ば塩で良し、天つゆに付けて良し
と幅広い食べ方ができます。
(次回に続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます