例えば…大怪我をして、手足がもがれて
クルマに乗れなくなったら
私はどうするでしょう?
同じく大怪我や病気などで絵筆を持てなくなったり
目が見えなくなってお絵かきはおろか漫画やアニメも
見れなくなったら私はどうするでしょうか?
時々そういうことを考えます。
有り得ない事ではなく、むしろ大いに有り得る事です。
そして極めて恐ろしいことでもあります。
大好きなクルマに乗れない。
大好きな絵を描くことも見ることもできない。
こんなに恐ろしいことは無いです。
でも…クルマが好きな気持ちは変えられないです。
絵が好きで漫画が好きな気持ちも変えられないです。
これだけは胸を張って言えます。
何かを自分でしたい…というのはエゴでしょう。
そういう意味でエゴを思いきり押し通させてもらっている
現状は本当に幸せなものと思います。
ですが…エゴの発露ができなくなったから
そのものに対する愛情が失せるとは思えません。
エゴの発露そのものに価値があるというのなら
それは自身の自我に対する愛の方が重いのだと私は思います。
手足をもがれて目も耳も聞こえなくなったとしても…。
私は生きます。
命の限り生きます。
生きる=楽しい では無いことを知っているから。
生きる=辛い ということも知っているから。
辛い中で笑顔を見せる人が居ます。
それは決して作り笑顔ではなく、
生きる喜びをかみ締めているからこその笑顔と信じますです。
私は笑いたい。
99.9%の不幸を呪うより、0.1%の幸せを喜び笑える人でありたい。
美しく生きたい。
己の命を、両親から授かった命を幸せの美しい色に染めて生きたい。
手足をもがれてもクルマが、絵が好きです。
自分で運転できなくとも、たとえもうクルマに乗ることが叶わなくても
クルマの事を想えば絶対に幸せだと私は思います。
絵が描けなくなっても、心にずっと絵筆を持ち続け、
心の中のキャンバスに絵を描き続けることでしょう。
目が見えなくなっても、耳が聞こえなくても
クルマや絵の存在は消えません。
私と関係なくクルマも絵も存在し続けるでしょう。
それを断片であったとしても知ることさえできれば言うことはないでしょう。
たとえそれを知ることが無かったとしても、
自分の心の中のクルマや絵の存在を消すことは誰にもできはしません。
きっと全てを失った私がクルマに乗せられて
ほっぺたに風を感じたら涙を流すでしょう。
でもそれは悲しみの涙ではなく、喜びの涙でしょう。
自分は今クルマに乗っている…それを喜び涙を流すでしょう。
どうしますか?
それに自分はこう答えるでしょう。
「生きられる限り生きます」…と。
生きている…ってのは本当に大事なことです。
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