昨日より今日を!今日より明日を! 夢と希望がある限り命輝かせて生きていこう!

「夢を描こう!」「 夢を語ろう!」 「夢を形にしよう!」 楽しもう76歳を!

兄を見舞いに故郷へ。

2013-01-05 23:06:24 | 家族
年末に倒れて入院中の広島の次兄を見舞いに
ふるさとへ帰ってきた

地域医療の拠点になっている大型の病院には
盆も正月もない、見舞いする人が大勢出入り
していた

看護師の詰所すぐ近くの個室に入るとトドの
ように横たわっている兄の老いた姿があった

9月に会った時はあんなに元気だったのにと
年とって病に伏せると一気に老けていくこと
を兄から見た

幸いに経過は順調?というのか意識は正常に
戻ってはいない(話の一部は妄想のようで)が
来週からリハビリで歩く訓練が始まると看護師
さんが言っていた

そのまま寝ていると筋力が一気に衰え寝た切り
になるんだそうだ

それを聞いてぎょつとした・・・
たった10日程で・・・

看護師さんと義姉が着替えをさせているときに
筋肉が落ちた上半身と足の弛みを見て病気に
縁のなかった兄ですら歳にはかてない!

でも4歳違いは差し引いても自慢じゃないが
自分の足は筋肉がしっかりとあるし上半身の
たるみもそんなにはない

これもスポーツクラブの筋トレやランニングの
成果なんだろうと改めて思った

やや太めの身体を支えるのに次兄のあの足が
どれだけ耐えられるか
辛いだろうが頑張ってほしい!

毎日のように足を運んでいる長兄も来ていた
偶然横浜に住む弟からも電話がかかってきた

男4人兄弟、ケンカした記憶はまったくない
だから4家族にもトラブルはまったくない
仲良し兄弟だからお互いを気にかける間だ

過去に病歴はなく勿論入院も初めての次兄と
それぞれ複数の入院歴がある長兄、弟、自分
だったのにとうとう次兄もつかまった!

そういえば車派は次兄、ペーパードライバー
で歩け!歩けの3兄弟は足が強い!
79歳の長兄は健脚だ

還暦も過ぎれば車は降りるがよい
気付かない間に足腰の筋肉は衰えている
そのつけはいざという時に出てくるはずだ!

仕事の話になると別人のように正常で力強い
会話が始まる次兄を見て息子に設計事務所の
経営を譲っているのにまだ手伝っていること
が現役意識を蘇らせるのか?

それが回復を早目させてくれるかもしれない
と密かに期待している
しっかり者の兄嫁が余計に頼もしく見えた!

広島からの新幹線はどの列車も超満員で4つ
見送って5つめのさくらに乗車した
通路もいっぱい、岡山で座れほっとした。

いつまでも兄弟でいたい。

2012-12-28 20:19:39 | 家族
昨夜、今年最後のスポーツクラブを終えて
11時すぎに自宅の玄関を開けたら家内が
あわてて出てきた

いつもはその時間に寝ているはずなのに??
なにかあったな?

”お兄さんから電話がかかってきて・・・

広島の長兄からあった話を聞かされた

次兄が倒れて救急車で病院へ搬送されたが
意識がほとんどないという

それ以上は面会謝絶なのでいまのところなに
もわからないらしい

瞬間、兄弟の中で、その次兄と自分が母親の
高血圧体質を引き継いでいるのでもしかして?
とよからぬことを想像して眠れなかった

一日たって今夕、次兄の息子から電話があり
意識は戻ったが細かなことはまだわからない

生命の危険はないらしいようなのでひと安心
したが骨折や肺に異常があるらしい

どうやら早朝にトイレに行って廊下で倒れた
ようだ

自分も寝る前に枕元に用意した白湯を飲んで
寝るので朝方、必ずトイレに行く

早朝高血圧体質なのでその時間帯は要注意で
いつも神経をつかっているので他人ごとでは
ない

原因は分かっていないが日ごろからゴルフや
ウォーキングをするなど健康には気を遣って
いただけにショックだった

先々月は弟の伴侶が婦人科系のガンが健診で
見つかり手術、早期だったので今後に問題は
ないようだがこれにもびっくりした

兄弟関係の中にも少しずつ体に問題を抱えて
お互いが気遣う年齢になってきた

わが家でも食卓の上に置いてある家内の大量
の薬をみていると気が重くなる

ウォーキングにランニング、スポーツクラブ
で筋トレと好きなことが自由にできて元気な
体でいる自分は恵まれている

でも決して油断をしてはならない
元気が命を保証してくれているわけではない

むしろ健康な人がある日、突然ということが
これまでも身近でいくらでも起きている

いつか兄弟で集まった時、兄と弟とが、いつ、
なにがあっても子供に迷惑がかからないよう
に諸々の整理はしたと話していた

自分のところはまだそこまではやっていない
ので今日一日、真剣に考えさせられた

今年もあと3日、すんなりとはいかんなあ。

新家族の敬老の日。

2012-09-17 23:51:53 | 家族
今日は敬老の日、息子が伴侶を連れ初めてわが家に
きてくれた

春に結婚した息子達だがわが家が改装前だったので
今日まで延期していてやっと実現した

息子たちは結婚式をあげなかった
その気持ちを聞いて最初は年齢的なことがあったの
かもしれないと思ったが・・・

双方の親族が二人が住む東京からは遠い地に住んで
いる高齢者だから東京まで来てもらうわけにはいか
ないということだった

その代わり、時間を見て、自分たちからあいさつに
行きたいと昨日は広島の兄宅を訪問し先祖の墓参り
をして、その帰りにやっとわが家に来てくれた

ふるさと広島の銘酒と大好物のもみじ饅頭を買って
きてくれたのがうれしかった

その銘酒で久しぶりに息子と昼間から飲み会をして
男同士、盛り上がった

そしてびっくりプレゼントがあった

夫婦別々のデザインの広島カープのウェアを買って
きてくれたのだ

この間、甲子園に行ったことを知っているのでこれ
からそのウェアで応援に行けということなのだろう



こちらも二人に先日の甲子園で買った広島カープの
応援グッツを用意していたので、偶然とはいえびっ
くりした

息子の伴侶は、プロ野球チームのある関東の某県の
出身だが、早くも息子に感化されてカープファンに
なったもようで
よし、それなら息子の嫁として認めてやる!

彼女に息子の子供の頃の写真やお宝の「親子新聞」
を見せた

「親子新聞」とは、家族新聞のことで息子が1年生
の時から6年生まで、毎月、欠かさず発行を続けた
手書きの新聞で3年生の夏に朝日新聞社から取材を
受けて家族も写真入りで掲載された

いまになってみればわが家族の家族史として大切な
お宝である





当時、通っていた公文式算数でも、会員の機関紙の
正月号に取り上げられたことがある

いまはパソコンで編集できるが当時は手書きだった
ので結構時間がかかったものだ

その新聞を拾い読みしても低学年から京都や奈良の
名所に息子を連れて行っていた

日本史が息子の得意科目になったのもそのきっかけ
は親子名所探訪があったからだと思う

また、編集を通して国語も得意科目になったはずだ

こうして、家族がひとり増えて迎えた今年の敬老の
日はわずか半日だったが、なつかしい昔にもどれた
忘れられない思い出になるだろう

夕方、息子たちは帰って行った

その後、わずか1時間だったが、スポーツクラブに
行って汗を流してきた。

母からの手紙の整理。

2012-06-09 22:07:25 | 家族
自宅マンションの改装計画がいよいよ具体化して業者
と契約を交わした

この件は、家にほとんどいない自分にあれこれと言う
つもりはないのでほとんど家内に任せてきた

30数年も住んでいながら手入れをしないままにして
きたので狭い家なのにあちらこちから思わぬ物が出て
きてその処理を家内から連日聞かれている

毎日、帰ると現物が並べられていて廃棄するのか保存
するのか確かめられるのだ

よくもこんなものが・・・
とまったく忘れてしまっていた物や探してもみつから
なかった物も押し入れの奥から出てきた

まだテープレコーダーが全盛時代に講演やセミナー等
で録音した貴重なCDが軽く200本はあるだろうか
ミュージックテープにレコードも沢山出てきた

中でも一番驚いた物は、母からの封書が入った大きな
紙袋一式で、社会人になってから捨てないで保管して
いた昭和40年代から50年代にきた手紙が束ねられ
きれいに保存してあった
手紙好きだった母からの手紙は捨てられなかったのだ

なんだか胸がつまるような・・・
中をあけて読むつもりはない
そんなことをしたら捨てられないだろう

母が亡くなった時に一緒に焼却しようと保存していた
ことは覚えているが、肝心の時にみつからなかった
当時は捨てたのかもとあきらめていた

手紙の中には父からのもの、兄弟からのものもあった
昔はすべてはがきか手紙だった
メールや携帯電話ですませるような時代ではなかった

今朝はその紙袋について家内から聞かれたが返答しな
かった、でも、ほっておくわけにはいかないからな

ゴミ出しの日が限定されているので家内は焦っている
のだろうと思う
だから母や子供の思い出の品は処分する以外ない

いずれ自分も処分の対象になる時期が遠くはないから
この際、捨てるだけ捨ててやろうか!

しかし思い入れがある物の処分はほんとうに難しい。


「わが母の記」

2012-05-20 19:15:30 | 家族
井上靖さんの自伝的小説を映画化した「わが母の記」を
昨夜観てきた


(講談社文庫)

幼い時に妹を連れて家を出て行った母・八重(樹木希林)に
捨てられたと思い続けた息子・洪作(役所広司)が、老いて
次第に認知症がすすむ母との間にある溝を埋めようとする
ストーリーを昭和の日本的家族愛を背景に描いた作品だと
思った

たんたんとすすむストーリーに、固唾を呑むような起伏の
あるシーンはなかったが、思わず涙する場面が一か所だけ
あった

それは
「海辺で息子の洪作が母の八重をおんぶするシーン」

雑誌でこのシーンは見ていたが、母と息子がお互いに求め
あっていた本来の親子にやっと戻ったシーン!
感動の場面だった!

樹木希林さんの演技はほんとうに素晴らしかった!


母をすでに失くしている自分にとって「母」は遠い存在の
はずなのだが、何年たっても、その存在は消えることはない
むしろ事あるごとに、幼き頃のことが、思い出されるのは
年齢のせいなのか、なになのかわからない

もっも小さい時の思い出が、戦時中に母親に背負われて父
の慰問に行った時、軍服姿で黒ぶちのメガネの父が怖くて
母の背中にしがみついていた時のことをよく覚えている

93歳で亡くなる前の数年は徐々に認知症が進んで会っても
息子の自分のことをなかなか思い出してくれなかった
そんな母が慰問の話に反応したのを驚いたことがある

父親のことを思うことはあまりないが、母と息子の繫がり
はどこまでも続いているのだろうか思ったものだ

樹木希林の母親姿を観ていて、どこかで母親と重なる部分
があって後半は涙をさそわれることが多かった

母を背負うことは生涯なかったが
この映画を観てふと思った
一度でいいから母を背負ってあげたかった

もう叶わぬことだが。

東上遠征記。(その2-13日)

2012-05-14 20:05:04 | 家族
東上遠征二日目は息子たちに引率されてお江戸見物の日
昨日少し飲みすぎたかな、ビール、日本酒にハイボール
ごっちや飲みして、おまけにたっぷり食べたので身体が
目覚めから重くてこりゃ、いかん!

10時に息子が迎えにきてくれる前の時間を家内と二人で
銀座4丁目交差点から日本橋までの旧東海道五十三次歩き
をすることにしていたので8時半にスタート!


天気はよし、日曜日の早朝で人通りも少なくてすいすいと
足がすすむ、歩けば昨日の酒の疲れはどこへやら
二年前に歩きながら訪ねた史跡もちゃんと覚えていた!


日本橋から1キロ地点で記念写真
二年前はこんなんだった


二年後、やっぱり歳とってるなあ・・・当時より約6㎏減


高島屋の前を通って


日本橋が見えてきた


あの時の情景が目に浮かぶ、みんな待ってくれていた

二年前・・・待ってくれている!


これがヒットした映画「麒麟の翼」、日本橋の真ん中にある


日本橋の道路元標前で家内と


道路の真ん中には


上の写真は撮れないがこう書いてある


ここからの距離・里程標




ここで写真を撮っていた人に声をかけたら滋賀県から来た
というご夫婦、東京にいる息子さんを訪ねてきて日本橋へ
寄ったらしい
滋賀県の東海道と中山道を歩いているそうでウォーキング
同好会の名刺をもらった

自分の東海道五十三次ひとり歩きのHPのURLを教えた
よく似た活動歴をもつ人との出会いがうれしかった

うっかり、時計をみる10時まで25分しかない
ゆっくりする間もなくあわてて引返す!


かなりスピードアップしたつもりだが家内は付いてくる!
それどころか先に行く!あれ?いつの間に!
こんちくしょう、生意気なやつめ!
片道わずか2㎞だったが家内の足取りは軽くて快調だった
ほんとうにびっくりした

1年前から早朝ウオーキングを始めて京都トレイルを歩く
など実力?を蓄えてきていたのだ
週3回、通院して治療を続けているのによく頑張っている

これならお世話をしているウオーキング倶楽部でも十分に
通用すると思った

息子がぜひ案内したいという南青山の根津美術館へ行った
美術館の名前はよく知っていたが訪れるのは初めて



美術館正面から入り口に向かう通路は両側が竹


美術館の日本庭園のカキツバタが咲くこの時期に合わせて
毎年、所蔵する国宝の尾形光琳の「燕子花図屏風」を公開
するらしいが今年はニューヨークのメトロポリタン美術館
が所蔵してる光琳の「八橋図屏風」が久しぶりに里帰り中
で特別展「korin展」が開催しているそうだ


これはラッキー!

美術館には大勢の人が詰め掛けていて人気の高さが窺えた
それでもゆっくり鑑賞することができた

絵のカキツバタは鑑賞したので、今度は庭園のカキツバタ
を見たくて広い庭園をぐるり散策した
満開はやや過ぎていたがそれでも見事に咲きそろっていた
















都心にいることを忘れさせてくれる静かで緑豊かな庭園で
時間をたっぷりとかけて見学したあと昼食に出かけた

午後は二時過ぎに家内の希望で靖国神社を訪れた
いまだ遺骨も戻っていない、戦死場所も特定できていない
家内の父親のことをせめて靖国へお参りすることで慰める
のが目的だろうと思ったがあえて何も聞かなかった


それから自分が希望した浅草へ行った
昔、訪れた記憶がかすかにあるがテレビなどでみる浅草の
雰囲気が好きで訪ねたくなったので息子に頼んだ






境内からスカイツリーがすぐそこに見える!
近くから見るとそんなに高さを感じないのは錯覚か?


いっぱいの人通りに流されながら隅田川まで行って川越し
にツリー見物、ここも大変な人だった
ツリーの開業は今月の22日、あとわずかになった




浅草から隅田川を下る東京クルーズ船にのった


川下りしながら日の出桟橋まで35分の船旅を楽しんだ!

(勝鬨橋)



(日の出桟橋からレインボーブリッジ)

そして東京駅へ移動、18時20分の新幹線のぞみで東京
を後にして21時前に新大阪へ戻ってきた
家族が一人増えてやっと四人に、とても楽しい二日だった。

東上遠征記。(その1-12日)

2012-05-14 15:26:32 | 家族
12日(土)

土日の二日間、二年ぶりにお江戸へ遠征してきた
息子の結婚相手の両親と初顔合わせのためだった

土曜日に滞りなく?その儀を済ますことができたあと
息子と嫁になる相手に連れられて近場の皇居まで行き
家内の希望したお台場へ行った

二重橋は逆光でうまく撮れなかった

桜田門


お天気はよかったがあいにくの低気温で海からの風が
冷たくてとても長くは外にいることができなかったが
それでも辛抱強く沈みゆく夕陽を待った

スカイツリーがここからも見えた、さすがに高い!


幸いに息子たちを祝福してくれるように見事な夕日が
心行くまで楽しませてくれた
フジテレビピル前から


自由の女神も夜の姿を見せてくれた


レインボーブリッジも夕闇に浮かびあがってきた


二年前に東海道五十三次を京都から日本橋まで完歩して
オフィシャルブロガーをしていたお台場にあるシューズ
メーカーを訪ねたが、その帰りにレインボーブリッジを
歩いて渡りJR浜松町まで行った
その橋がこんなにきれいに見えた

(レインボーブリッジがライトアップで浮き上がる)

はるか東京タワーも見える(写真・右)


あたりが暗くなってきたので居酒屋で四人家族夕食会!
その席につくまでどれだけ待たされたか
東京はどこへ行っても並ばされて不便なところや

帰りのゆりかもめに乗車する時の気温が5度表示
えっ?

宿泊の銀座4丁目のホテルまで息子たちに送られてきて
部屋に入ると暖房を入れたほど冷たかった。

13日(日)のお江戸見物は次に続く・・・

息子につれられてお江戸見物。

2012-05-13 23:21:53 | 家族
銀座4丁目すぐ近くのホテルで2日目を迎えた
2年ぶりに東海道53次を日本橋まで歩いてみたいと
思ったのであえて宿はそこに泊まった

2年前は午後4時半すぎにゴールした日本橋へ
今朝は9時に着いた
歩いているとあの日ことが甦ってなつかしかった

快晴、早朝の日本橋はあの時のままで
映画・麒麟の翼で有名になった麒麟の翼の像と再会
滋賀県のご夫婦と思わぬ出会いもあった

ホテルに迎えに来てくれた息子たちに連れられて
今日は東京見物

まず息子が推薦してくれた根津美術館へ行った
ここでは特別展「korin」が開催されており
庭園の咲きそろった菖蒲が十分に楽しませてくれた

午後は靖国神社に行ったあと浅草へ
スカイツリーの見える隅田川まで行って
吾妻橋から日の出桟橋までクルーズを楽しんだ

二日間、息子たちの世話で楽しい時間を過ごせて
大満足、いい気分で戻ってきた
二日間のお江戸見物の写真は明日にまとめて紹介したい

今日は疲れたのでここまで。

東京遠征、家族顔合わせ。

2012-05-12 23:03:05 | 家族
東京に来ている
息子の結婚相手の両親と昼間に銀座のレストランで
初顔合わせをして会食をした

こんな時に挨拶はどうしたらいいのやら
息子一人でこの歳になるまで体験していないので
気になったがすべてうまくいってほっとした

とにかく一通りすませ息子たちにつれられて
皇居前広場とお台場へ行った
お台場から眺める夕陽の美しさに感動

今夜は東京泊まり
今日はここまで!

息子からのプレゼント!

2012-02-27 20:17:10 | 家族
昨日は二年ぶりに戻ってきた息子が家内から20箱
余の段ボールの中身と本箱の整理を言いつけられて
必死で点検をしていた

しかしとても一日では片付かない
多くは点検ができないままに廃棄処分の決断をして
わずか数冊を紙袋に入れて帰京した

延期していたマンションの改装のため不用な物を処分
をしてきたが息子のものには手をつけておらず帰宅を
待っていた

息子が押し入れや棚の上に積まれていた段ボールを出
して点検をしているのをのぞき見してびっくりした

幼稚園の時から小学校の六年生までの連絡用プリント
やノート、教科書、採点済のテスト用紙が、学年別に
きれいにファイルされて段ボール別に保存されている

あどけない文字で書かれた国語や算数などのプリンと
はきれいな状態で整理され保存されていた

中学、高校の六年分は、息子が自分で同じように整理
して段ボールに明細を書いて保存していた

それを見ていると本人はなつかしいのだろう、整理は
一向に進まないようで、つい、こちらも首を突っ込ん
で作業ははかどらない

とうとう”もう捨てていい!”と息子は白旗を上げた
親としては子供の成長記録だから残しておいてやりた
いが残していても見ることはないだろう
と親も白旗あげて廃棄処分決定!

さらに5本ある大型の本箱の本をどうするか?
絵本や受験用のものは廃棄処分していたが、なにしろ
小学生から高校三年生までに買って読んだ本の冊数は
半端ではなく、よくもこれだけ読書したものだと感心
するやらあきれるやら・・・

司馬遼太郎や池波正太郎、海音寺潮五郎、西村京太郎
の本も沢山ある
全集や大河ドラマ本やドラえもんもあるぞ!

本の処分はこちらに一存してもらうことにした
どこかに寄付するか親が生涯かけて読むか
(オーバー?)でも、丁寧に読んでいるのできれいだ

息子が処分する高校の教科書が入った段ボールを開け
”この本はいまでも使える”と三冊を手渡してくれた


高校の日本史の教科書と資料本だ!
高校1年のクラス名と息子の名前が書かれた1992年
発行のもの、ページをめくると物差しできれいに赤線が
引かれところどころに鉛筆書きされたメモがある

それにしてもその教科書のことがよく頭に浮かんだもの
だと感心した


20年後になって息子の教科書を自分が使うことになろ
うとは夢にも思わなかったのでうれしかった
息子から段ボールに詰められたまま17年たって箱から
とりだされた教科書も喜んでいるだろうと思った


日本史だけでなく他の科の教科書も見れば面白いと思う
けれど何しろ部屋の荷物は最小にしないといけないので
みんな本箱とともに処分が決まった

どこのお家でも、きっと、いつの時点かで、同じような
ことがあったのだろうと思う
子供にとっても親にとっても成長の証となる記録なので
廃棄するのはつらいこと

その廃棄処分が難しい
紙の廃品業者は、以前、自分の本や資料を大量にお願い
した時、散々、嫌味を言われて、その時限りと言われた
ので、どうする?

そうそう、おもちゃ類も段ボールからいっぱい出てきた
電車はかなりある、これは、マニアならほしがるもの
自分が集めてきたものだから簡単に譲ることはできない

ということで玄関横から隣の部屋にまで段ボールが散乱?
ここまできちんと整理してきた家内にすればなんのために
と思っているだろうか?

実は自分の子供の頃のそれらも実家の倉庫に母が整理し
まさにお蔵入りしたまま半世紀が過ぎた
母が生前、”あんたが見てくれないと捨てられない”
といい続けていたことを思い出す

”いらんから捨てていい”といくら言っても見てくれないと
捨てられないと拒んでいたことが昨日の家内と重なる
母親の気持ちはわからない

とにかく息子からプレゼントされた三冊の歴史書は大事に
使いたい、他にも本箱にある歴史物は全部もらっておく
ただし、どの本にも阪神淡路大震災の記事はない

親子ともども、あれから20年も過ぎた
阪神淡路大震災、そして、東日本の大震災
まさか、あの時、20年後の日本史教科書にその悲惨な
歴史が書き加えられるとは思わなかった。

母からの贈り物(2)

2011-12-03 15:30:14 | 家族
10月27日のブログに母からの贈り物について書いた
が今朝、天国の母から贈り物(その2)が届いた

ふるさとの実家の庭できれいに実ったみかんだ
4年前に母が逝ってから母のみかんは兄が面倒を見ている
が、この時期になると母に代って送ってきてくれる



その母のみかんは豊作のようで例年より形が大きい

みかんはいくらでも簡単に手に入れることができるが
母のみかんだけは絶対に手にいれることができない
形も味も関係ない、特別なみかんなのだ

黄色く実ったみかんの木の横で写った85歳の時の母の
写真を形見としていつもそばにおいているように
息子にとっては母親の存在は亡くなっても生きている

ひとつぶ、ひとつぶ、母の笑顔を思い出しながら食べる
みかんが、すっぱいおいしい!

”どうしとるかね?”
母の口ぐせ、どこかから聞こえてくるようで・・・。


母からの贈り物。

2011-10-27 14:06:29 | 家族


10月の後半になると毎年必ず母からの贈り物が届く
きのうその第一便が来た!

中身は見なくてもわかる
「柿」と「もみじ饅頭」
母がずっと面倒をみていた畑の柿の木に今年も沢山の
柿が実ったらしい

母に似て形は小さくて美人ではないが甘くておいしい
宮島名物の「もみじ饅頭」も大好物で荷物を送って
くるといつも必ず入っていた

(もみじ饅頭の餡は抹茶とつぶ餡・小さくても甘い柿)

送ってくれたのは義姉、母が亡くなって来月で3年に
なるが母に代って兄と送り続けてくれている

春はタケノコ、秋は柿にみかん、父のあと母が世話を
して採れたふるさとの味だから余計においしい

それを食べるたびに母のぬくもりを感じて
幼き頃のことがなつかしく思い出される

9月に両親の墓参りに帰った時に
住む主がいなくなった実家の庭に
みかんがいっぱい実をつけていた
まもなく母のみかん便も届くだろう

母との思い出はつきない
いくつになっても
母は心のふるさとだ。


横浜遠征二日目。

2011-10-02 22:21:43 | 家族
横浜のホテルで一夜を過ごして
息子が伴侶になる人を連れて
横浜まできてくれた
待望の自分の娘になる人だ

みなとみらいの赤レンガ倉庫群へ行った
昨日、姪の結婚式のあったホテルから
よく見えたあの赤レンガ倉庫群


古いレンガづくりの建物を整備して
商業スペースにしており大勢の人が来ていた
どうやら人気スポットらしい



見た目は凱旋門みたいな感じのナビオス横浜ホテルで
道の入り口の門になっている


息子が予約していたレストランに移動して
食事をまじえてひとときを話し合った
うまくいけばいいが・・・


帰り、新幹線新横浜駅の改札口できのう一緒
だって兄夫婦とばったり会ってびっくり
なんと同じ列車に指定券をとっていた

こんに偶然もあるもんだな!
車中から富士山もみられてラッキー!
神戸・横浜四日間、あわただしくて疲れた。

(富士川と富士山)
2009.6.19 東海道五十三次ひとり歩きで
この富士川を渡ったが肝心の富士山を見ることが
できなかった、こんなに近いのにね!


両親訪ねて18きっぷの帰郷旅。

2011-09-07 23:10:33 | 家族
青春18きっぷが1枚のこっていたのでお彼岸に帰る予定を
変更してふるさと広島の両親の墓参りに帰ってきた

(日曜日の草津といい18きっぷにふりまわされている)

兄が午後からピアノの発表会があるというので午前中に墓参
を済ませ昼食は兄とすることにして行きは新幹線を利用した

台風去ってさわやかな秋日和り、車窓から眺める刈り入れ前
の豊かな田園が美しくて読書もページが進まなかった

広島駅でなつかしい人、いや、懐かしい新幹線に偶然会った
東海道新幹線から引退して山陽新幹線を走っている500系
が停車していた!
いまでも500系新幹線が一番好きだがすぐ発車して行った



(広島駅)

宮島の見える丘の上にある両親を訪ねて、母がいつも育てて
いたかぼちゃ畑を兄が継いでいるが大きく成長した母からの
贈り物のかぼちゃを一つおみやげにもらった

兄と久しぶりの再会、77歳、リタイアして始めたピアノも
発表会にいつも出ている、英語、ドイツ語の学習、地域活動
国内、海外の歴史旅行・・・1日が24時間では足らないと
言う兄、いくつになっても好奇心が強くて、じっとしていな
いのは若い時のまま、元気でも負けるなあ・・・


(広島名産牡蠣の養殖・背景は宮島)

午後1時半すぎ、広島駅から大阪めざして青春18キップの
旅を始めた

列車の中も駅も、どこに行っても広島CARP!一色!




各停ののんびり旅は三原で岡山行きに乗り換え、岡山へ直行
するつもりだったが、電車が海に添って走り始めるとはるか
向こうに因島大橋が見えてきた

しまなみ海道歩きで二番目に渡った橋、なつかしい風景!
岡山直行はやめと尾道をぶらりしたくなったので尾道で途中
下車した



しまなみ海道を歩いて以来の尾道、次の電車を16時17分
岡山行きと決めてわずか50分だけれど尾道の駅周辺を歩く
ことにした





といっても何度もきている町なのでだいたいはわかる
駅前の景色もまったく同じ、駅からすぐの海岸に出てしばらく
行き交う船を眺めていた
瀬戸内育ちの自分にはやっぱり海は瀬戸内海がいい



尾道にくれば会っておかないといけない人
林芙美子の像を訪ねた




NHK朝ドラの「てっぱん」で使ったトランペット





商店街をのんびり歩いて再び海岸に出た
しまなみ海道をあるいた時、最初に渡った尾道大橋も見えた




駅近くで尾道ラーメンを食べてあわてて16時17分に乗った



しまなみ海道歩きで最初に渡った尾道大橋(写真左}の下を山陽本線の電車はすすむ
向かいは因島、日立造船



福山で岡山行きの快速に乗り換え、車内から福山城も撮った



岡山に着いたのが17時42分、18時の姫路行き各停に乗車
この区間が山陽線で青春きっぷを使うと一番の難所?
乗車時間が長い、接続車両が4両と短い、便数も少ない、18
きっぷの乗客がこの電車に殺到して座れる保証がない
立つと途中下車が少ないので90分近く立たされる・・
みんなよく知っているので電車を待つ人の列が長くなる
隣の号車を待っていた客同士がけんかを始めた

どうやらマナー、わりこみ、そんなことばが聞こえる

うちの列も横に並ぶ実践が敷いたあるのに女の子たちがまっすぐ
に並んでいてそっちのほうが多い

普段なら、すぐ、間違っているよ!という自分だか、となりを
見ていたら、やめとこ、自分は前のほうだから多分座れるよと
ほっとけ!
幸い、座席が確保できて、ここは、しっかり読書ができた

あの女の子たち、結局すわれなくて、すぐ近くに立っていたが
大きな声で迷惑も顧みずしゃべり続けていた
東京の女子大生、学校の名前や話題が東京だけ・・うるさい!

姫路で新快速に乗り換え、ここも競争、座席を確保しほっとした
在来線の特急以上の快速で新大阪まで1時間、ここも読書で
やっと20時28分に戻ってきた

歩くのもいいが、電車の乗り継ぎ、これも楽しいね。

母の口ぐせ。

2011-05-09 23:14:54 | 家族
昨日は母の日だったがプレゼントする母はもういない
それでも93年も母をしてくれたのだから恵まれた

東北の被災地にはいま一番母を必要とする多くの子供達が
母をなくしている

昨日はどんな思いで母の日を迎えたのだろうかと思うと
心が痛んで母の日のことを書くことができなかった

母の日には品物を贈るより手書きのはがきを贈っていた
ある時、送る品に困って苦し紛れにはがきを出したら

それが母には嬉しかったようで以降、送った母の日の
はがきをいつまでも壁に貼っていたのを帰省のたび見た

昨日は93歳の母を亡くして3度目の母の日だったが
いくつになっても母から口ぐせのように言われたことを
忘れることはない


田舎から関西に出てくる時、それから田舎に帰省するたび
に言われたことはただひとつだけ

”人に嫌われんようにしんさいよ”と繰り返し言われた
人に嫌がられることはするなと言いたかったのだろう

そんなことは簡単!と思ったが人に好かれることよりも
もっと難しい

母はそれを知っていたのだろうか

好かれることをしなくても人間関係を崩すことはないが
嫌がられることをすれば間違いなく相手から否定される

母からの言葉を守るように心がけたので人間関係はうまく
やってきたつもりだが、独立して今の仕事をするようになり
そのことで苦しんだ

嫌がることにもいろいろある
単なる嫌がらせもあれば、間違っていること、正さないと
いけないこと、指導が必要なこと等はきちんと言わなけれ
ばならないこともある

言えば嫌われる、とくに若い女性には間違いなく拗ねられる

しかし仕事で「好かれる」とか「嫌われる」とかを基準にして
接していくことは間違いのもと、嫌われようと反発をされよう
と正しいこと、プラスになること、その人にとっても大切な
ことははっきりと言うことにしている

それでトラブルを起こすことはほとんどない
年齢を重ねたらそれがむしろ役割と心得てやっている

嫌われるとか嫌われないかは相手が決めること
ただ、仕事外のごく普通の人間関係では、相手の反応を見て
嫌がられていると感じたことはしないことだ

人からこちらが迷惑と思っていることをされれば腹もたつ
度が過ぎればブラックボックスに入れて蓋をしてしまう

自分が気づいてないだけで人に迷惑をかけていることはないか
と常に反省しないといけないと自戒をこめて言い聞かせている

天国から母がはらはらしながら言っているかもしれない

”人に嫌われんようにしんさいよ”と。