絶好の天気に恵まれたので京都国立博物館で開催中の「日蓮と法華の名宝展」と博物館エリアの古寺巡礼ウォーキングに行った。10時50分、京都駅から博物館をめざしてスタート。

七条通を正面に少しずつ色づきはじめている東山をみながらウォーキング、汗ばむような暖かさにタオルハンカチを取り出して汗を拭きながら鴨川にかかる七条大橋まで行くと遠く比叡山が秋空にくっきりと見える、30分程で博物館へ到着した。

京都国立博物館にはすでに大勢の人たちが来ていた、先週の奈良国立博物館正倉院展の長蛇の行列はなくてスムースに入ることができた。
文応元年(1260)度重なる災難と国家の危機を憂えて『立正安国論』を著した日蓮が、時の鎌倉幕府前執権の北条時頼に献じて以来今年が750年になることを記念しての開催らしい。日蓮はこのことが原因となって後に佐渡へ流され、苦境の人生を送ることになった。
わが家が浄土真宗で京都には西本願寺があり親鸞さんや、知恩院の浄土宗の法然さんには身近さがあるが、どちらかといえば、日蓮さんは遠い存在でもあった。
ただ、東海道五十三次を歩いていて各地でお題目の石碑に会うことが多くて、少しは、知っておかないといけないという思いでこの展覧会にきてみた。

知らないことだらけだった。よく見かける「南無妙法蓮華経」の独特の力強いお題目の一端を感ずることができたし京都の町人文化に大きな影響を与えてきたこともわかった。なによりも著名な画家(狩野元信、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山)が法華信徒であったと知ってびっくりした。その絵画にまで影響を受けている作品を見ることができて、無知で過ごしてきた自分を恥ずかしく思った。
12時55分に博物館を出て、博物館エリアの古寺巡拝ウオークへ、訪れるところは七条通りと東大路通りの交差点、東山七条交差点の四角にある寺社に限定した。
まず大和大路通りの豊臣秀吉ゆかりの豊国神社へ、豊国さんの境内では恒例のおもしろ市をひやかして参拝、豊国神社は秀吉の死後、秀吉を祀るために秀頼が建てたものだが家康に取り壊されたという、家康にすれば、秀吉が神になることが許せなかったのだろう、幾多の変遷があっていまの姿はのんびりしたたたずまいになっている。


続いて豊国神社に隣接している方広寺へ、この寺は天正14年(1580)に豊臣秀吉の発願で建立されたが昭和48年に焼失し本堂と大黒天堂、大鐘楼しか残っていない。

その大鐘楼に「国家安康・君臣豊楽」と銘が彫られているが、それを「国家安康」と「家」と「康」とに別け、「君臣豊楽」は「豊臣」とそのままになっていると家康の怒りをかい、それを理由に、慶長19年(1614 )に大坂城を攻めることになり、豊臣滅亡のきっかけになった歴史的証拠になった鐘がいまも残っている。

このシーンが、8日のNHK大河ドラマ「天地人」で放映されていたのには驚いてしまった。思わず、家内に、さっき見てきたばかりや!と説明していた。豊臣滅亡のきっかけの歴史の場をテレビと同一日に見た人間は、もしかしたら全国で自分ひとりかもしれない。というのも、方広寺は人影もなく、個人的に興味でもなければ訪れる人がそんなにいるとは思わないからだ。
方広寺のとなりに方広寺大仏殿跡公園があるが、ここは、秀吉が奈良東大寺大仏を上回る大仏殿建立を秀吉が発願して天正13年に建設を始めたが震災で崩壊し、秀吉死後、工事は中断してしまったらしい。この話は初耳だった。

東大路通りの東側にある妙法院へ向かった、比叡山にあったものを後白河法皇がここに移した門跡寺院だが特別拝観の時期以外は非公開のため国宝ふくめて見ることができなかったのは残念。

続いて、修学旅行の定番、三十三間堂に向かった、実は、ここを訪れるのは何十年振りか、国立博物館の真向かいにあるために博物館に来るたびに横を通っていながら長く入ることはなかった。観光パスがどんどんと出入りし、修学旅行生もたくさん来ていた、さすがにこの地区では超有名寺院、外国人観光客も多かったが、できるだけゆっくりと楽しみたくて、休憩をとりながら堂の中、外を時間をかけて見せてもらった。

三十三間堂、正式には「蓮華王院」。長寛2年(1164 )に後白河法皇が平清盛に命じて建立したもの。いまは、先に寄った妙法院の院外塔頭になっているそうだ。
南北に125メートル、奥行22メートルの建物は、外から見るとけた外れに大きくて、その中に入ると、その長大な本堂にぎっしりと並んだ1001体の観音像は壮観。その一体一体の観音様の微妙に違う美しい表情の列が、国宝の十一面千手千眼観音坐像を真中にして並んでいる光景にはただただ圧倒された。




三十三間堂を出て堂の塀を南にすすむと大きな南大門があるがここは何度も通ったことがあるからおなじみの門だが、まったくオープンな通りをまたいでいる門が重要文化財であることを驚いてしまう。

その左手に後白河法皇凌があるがここは立ち入ることはできない。多分、宮内庁の管轄なのだろう。

その隣にあるのが養源院、秀吉の側室淀君が父浅井長政を供養するために文禄3年(1549)に創建したもの。ここはまだ色づいていない参道のもみじをみながら散策をしただけで時間がかかるために今回はパスした。淀君ゆかりということか女性の姿が多くみられた。

最後の訪問は「智積院」。ここの名庭園の夕刻の姿を見てみたくて最後に訪れた、智積院は、全国的には有名寺ではないかもしれないが、真言宗智山派の総本山。

関西ではよく知られた智積院は、僧玄宥が徳川家康の寄進を受けて慶長5年(1600)に再興した。もともとは、秀吉が長子の鶴松の菩提寺として建てた祥雲寺があったところ、近くには秀吉の墓地もある豊臣家の聖地に家康が建てたというのも時代の複雑さが感じとれる。


庭園もこの寺の有名な障壁画も大学生のボランティアガイドの説明を受けてゆっくりと見せてもらった。




広い境内をまわって一段と威容を誇る金堂から


最後に訪れたのが明王殿、ここに来ると若いぴかぴか坊主頭の僧がお堂の中へ入り座っていくのが見えた。
ははーん、これは夕べの勤行に違いない、どんな勤行をするのか興味がわいたので階段の下から伸びあがるようにして眺めていると、自分の姿をみたのだろう、どんどん拝観者が集まってきた。
お寺の人が近づいて、どうぞ入ってくださいと声をかけてきた。
しめた!中に入れていただいていいのですか!と聞くと、どうぞ!と言われてので、すぐにウォーキングシューズを脱いで階段を上がっていくと後からご婦人グループが続いて、とうとう薄暗いお堂の中は拝観者が30人くらいになっていた。
20分くらいだっただろうか、夜の勤行のすべてを見せていただいた。いろいろなお経があったが、ただひとつ般若心経だけは知っているので経本なしで自分も声を出して唱えた、となりのご婦人も続いた。あー気持ちいい、僧達の声の美しさにはおどろいた。大きな声が出なくて困っている自分にはうらやましかった。いい声は、はりがあって高い。自分の声はだんだんと低くなっている。老化は足腰だけではなく、声にくると実感しているので、やっぱり、大きな声ではっきりと発声をする機会を持たないと枯れてしまうと思った。

後でわかったことは、この僧たちは、智積院にある専修学校の生徒さんだった。勤行のあと、ひとりひとりが、こんにちは、と声をかけて帰っていったが、若い人だけでなく、年とった人も女性もいた。あー、老後の準備と時間があるなら、心底、自分も修行僧をしてみたいと思った。16時20分。日没が迫っていたのでその瞬間を待って智積院から京都の西山に没していく陽を拝むことができた。

ご朱印をいただいて京都駅まで日暮れの帰り道をウォーキング。

京都駅についたのが17時20分、駅前の京都タワーにも灯が灯っていた。

行楽日和の京を楽しんだ人たちでごったかえす京都駅から新大阪へ戻り、仕事場に寄って一息ついて自宅へ戻った。
少しはお勉強して賢くなった。歩いたのは京都東山のほんの一角だけだが、それでも楽しくいい秋を過ごしてきた。いい一日だった。

七条通を正面に少しずつ色づきはじめている東山をみながらウォーキング、汗ばむような暖かさにタオルハンカチを取り出して汗を拭きながら鴨川にかかる七条大橋まで行くと遠く比叡山が秋空にくっきりと見える、30分程で博物館へ到着した。

京都国立博物館にはすでに大勢の人たちが来ていた、先週の奈良国立博物館正倉院展の長蛇の行列はなくてスムースに入ることができた。
文応元年(1260)度重なる災難と国家の危機を憂えて『立正安国論』を著した日蓮が、時の鎌倉幕府前執権の北条時頼に献じて以来今年が750年になることを記念しての開催らしい。日蓮はこのことが原因となって後に佐渡へ流され、苦境の人生を送ることになった。
わが家が浄土真宗で京都には西本願寺があり親鸞さんや、知恩院の浄土宗の法然さんには身近さがあるが、どちらかといえば、日蓮さんは遠い存在でもあった。
ただ、東海道五十三次を歩いていて各地でお題目の石碑に会うことが多くて、少しは、知っておかないといけないという思いでこの展覧会にきてみた。

知らないことだらけだった。よく見かける「南無妙法蓮華経」の独特の力強いお題目の一端を感ずることができたし京都の町人文化に大きな影響を与えてきたこともわかった。なによりも著名な画家(狩野元信、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山)が法華信徒であったと知ってびっくりした。その絵画にまで影響を受けている作品を見ることができて、無知で過ごしてきた自分を恥ずかしく思った。
12時55分に博物館を出て、博物館エリアの古寺巡拝ウオークへ、訪れるところは七条通りと東大路通りの交差点、東山七条交差点の四角にある寺社に限定した。
まず大和大路通りの豊臣秀吉ゆかりの豊国神社へ、豊国さんの境内では恒例のおもしろ市をひやかして参拝、豊国神社は秀吉の死後、秀吉を祀るために秀頼が建てたものだが家康に取り壊されたという、家康にすれば、秀吉が神になることが許せなかったのだろう、幾多の変遷があっていまの姿はのんびりしたたたずまいになっている。


続いて豊国神社に隣接している方広寺へ、この寺は天正14年(1580)に豊臣秀吉の発願で建立されたが昭和48年に焼失し本堂と大黒天堂、大鐘楼しか残っていない。

その大鐘楼に「国家安康・君臣豊楽」と銘が彫られているが、それを「国家安康」と「家」と「康」とに別け、「君臣豊楽」は「豊臣」とそのままになっていると家康の怒りをかい、それを理由に、慶長19年(1614 )に大坂城を攻めることになり、豊臣滅亡のきっかけになった歴史的証拠になった鐘がいまも残っている。

このシーンが、8日のNHK大河ドラマ「天地人」で放映されていたのには驚いてしまった。思わず、家内に、さっき見てきたばかりや!と説明していた。豊臣滅亡のきっかけの歴史の場をテレビと同一日に見た人間は、もしかしたら全国で自分ひとりかもしれない。というのも、方広寺は人影もなく、個人的に興味でもなければ訪れる人がそんなにいるとは思わないからだ。
方広寺のとなりに方広寺大仏殿跡公園があるが、ここは、秀吉が奈良東大寺大仏を上回る大仏殿建立を秀吉が発願して天正13年に建設を始めたが震災で崩壊し、秀吉死後、工事は中断してしまったらしい。この話は初耳だった。

東大路通りの東側にある妙法院へ向かった、比叡山にあったものを後白河法皇がここに移した門跡寺院だが特別拝観の時期以外は非公開のため国宝ふくめて見ることができなかったのは残念。

続いて、修学旅行の定番、三十三間堂に向かった、実は、ここを訪れるのは何十年振りか、国立博物館の真向かいにあるために博物館に来るたびに横を通っていながら長く入ることはなかった。観光パスがどんどんと出入りし、修学旅行生もたくさん来ていた、さすがにこの地区では超有名寺院、外国人観光客も多かったが、できるだけゆっくりと楽しみたくて、休憩をとりながら堂の中、外を時間をかけて見せてもらった。

三十三間堂、正式には「蓮華王院」。長寛2年(1164 )に後白河法皇が平清盛に命じて建立したもの。いまは、先に寄った妙法院の院外塔頭になっているそうだ。
南北に125メートル、奥行22メートルの建物は、外から見るとけた外れに大きくて、その中に入ると、その長大な本堂にぎっしりと並んだ1001体の観音像は壮観。その一体一体の観音様の微妙に違う美しい表情の列が、国宝の十一面千手千眼観音坐像を真中にして並んでいる光景にはただただ圧倒された。




三十三間堂を出て堂の塀を南にすすむと大きな南大門があるがここは何度も通ったことがあるからおなじみの門だが、まったくオープンな通りをまたいでいる門が重要文化財であることを驚いてしまう。

その左手に後白河法皇凌があるがここは立ち入ることはできない。多分、宮内庁の管轄なのだろう。

その隣にあるのが養源院、秀吉の側室淀君が父浅井長政を供養するために文禄3年(1549)に創建したもの。ここはまだ色づいていない参道のもみじをみながら散策をしただけで時間がかかるために今回はパスした。淀君ゆかりということか女性の姿が多くみられた。

最後の訪問は「智積院」。ここの名庭園の夕刻の姿を見てみたくて最後に訪れた、智積院は、全国的には有名寺ではないかもしれないが、真言宗智山派の総本山。

関西ではよく知られた智積院は、僧玄宥が徳川家康の寄進を受けて慶長5年(1600)に再興した。もともとは、秀吉が長子の鶴松の菩提寺として建てた祥雲寺があったところ、近くには秀吉の墓地もある豊臣家の聖地に家康が建てたというのも時代の複雑さが感じとれる。


庭園もこの寺の有名な障壁画も大学生のボランティアガイドの説明を受けてゆっくりと見せてもらった。




広い境内をまわって一段と威容を誇る金堂から


最後に訪れたのが明王殿、ここに来ると若いぴかぴか坊主頭の僧がお堂の中へ入り座っていくのが見えた。
ははーん、これは夕べの勤行に違いない、どんな勤行をするのか興味がわいたので階段の下から伸びあがるようにして眺めていると、自分の姿をみたのだろう、どんどん拝観者が集まってきた。
お寺の人が近づいて、どうぞ入ってくださいと声をかけてきた。
しめた!中に入れていただいていいのですか!と聞くと、どうぞ!と言われてので、すぐにウォーキングシューズを脱いで階段を上がっていくと後からご婦人グループが続いて、とうとう薄暗いお堂の中は拝観者が30人くらいになっていた。
20分くらいだっただろうか、夜の勤行のすべてを見せていただいた。いろいろなお経があったが、ただひとつ般若心経だけは知っているので経本なしで自分も声を出して唱えた、となりのご婦人も続いた。あー気持ちいい、僧達の声の美しさにはおどろいた。大きな声が出なくて困っている自分にはうらやましかった。いい声は、はりがあって高い。自分の声はだんだんと低くなっている。老化は足腰だけではなく、声にくると実感しているので、やっぱり、大きな声ではっきりと発声をする機会を持たないと枯れてしまうと思った。

後でわかったことは、この僧たちは、智積院にある専修学校の生徒さんだった。勤行のあと、ひとりひとりが、こんにちは、と声をかけて帰っていったが、若い人だけでなく、年とった人も女性もいた。あー、老後の準備と時間があるなら、心底、自分も修行僧をしてみたいと思った。16時20分。日没が迫っていたのでその瞬間を待って智積院から京都の西山に没していく陽を拝むことができた。

ご朱印をいただいて京都駅まで日暮れの帰り道をウォーキング。

京都駅についたのが17時20分、駅前の京都タワーにも灯が灯っていた。

行楽日和の京を楽しんだ人たちでごったかえす京都駅から新大阪へ戻り、仕事場に寄って一息ついて自宅へ戻った。
少しはお勉強して賢くなった。歩いたのは京都東山のほんの一角だけだが、それでも楽しくいい秋を過ごしてきた。いい一日だった。
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