7/14 コキカル公演『地下室のラプソディ』
多度津、Tetugakuyaへ
Tetugakuyaは、古書が並ぶ元銀行のカフェ。
以前行って、素敵な空間だなと思ったところ。
今回の公演は、ドストエフスキーの
『地下室の手記』が元になっているとか。
始まる前にドストエフスキーについての
説明もあり、分かりやすかった。
奥にある金庫室が舞台。
その扉は分厚く、中はがらんとしていて
床や壁は硬く冷たい。
けれど薄暗い中、壁面に見えるひびが
人の肌に浮き出た血管のようにも見え、
何ともいえない雰囲気を醸し出していた。
閉ざされた空間。
そんな地下室のような場所に、二人。
古い洋書が 床に無造作に置かれていた。
片隅にネズミ3匹。縫いぐるみ。
音と共に始まる。
鼓動のようにも感じた。
ストーリーや セリフというより
動きや言葉のコラージュみたい。
積まれた本の上をあちこちする、ネズミ。
もの言わぬ存在だし、人でもないのに
なぜか親しみを感じた。
けれど、いつの間にか
呼吸が荒くなる。空気が波打つ。
いくつかの言葉に重なる、いつかの自分。
それは、届かない苦しさ。
でも、同じように感じる人がいると思うと
救われるような気持ちにもなった。
苦しさは、ある。違いも、ある。
いいとか悪いとかじゃなく、
どうすればいいという方法でもない。
そのどうしようもない存在を
全力で表していることが
不思議と嬉しくもあった。
つらい涙、だけじゃない
色々な気持ちが混じった涙だった。
堪えて堪えて、やっと最後に少し流れた。
現実では なかなか口に出来ない
誰もあまり口にしないことが
ほろりと出てきたような感覚だった。
金庫室には、檻のような扉があって
その外側にもうひとつ分厚い扉がある。
檻が閉まり、外の扉も閉まると中は真っ暗闇。
声だけが聞こえる最後の数秒。
それも止まると、音も光もない瞬間。
そんな場に身を置くことは、なかなかない。
たまに、音や光が苦しくて
そこから避難することはあるけれど(笑)。
そんな時の自分だったら
どう感じたのだろう。
色々な余韻が残った。
………………………
ちょうど始まる前に
かなり久しぶりな人に再会。
名残惜しく道を歩き、
気になっていた店の前でみつけた
かき氷の貼り紙を見て、
もうひとしゃべりすることにした。
こんな機会でもないと
話すこともなかった
かもしれない、お互いのあれこれ。
いい機会だった。感謝。