千葉県八千代市の県立八千代西高校(大迫太校長、339人)が、入学金未納の新入生2人を入学式に出席させなかったことが12日分かった。大迫校長は「授業料滞納が目立ち、未納は負担の先送りと思った」と話すが、県の公立高校教職員組合は「非教育的対応」と批判している。
県教委と同高によると、新入生159人に、入学金、教材費など9万円を8日の入学式に持参するよう求めていた。男女各1人が「お金が用意できない」などと持参せず、式直前、校長がそれぞれの担任に別室での待機を指示した。2人は約40分の式の間、教室と会議室で待機した。
男子生徒は式前に学校の指示で母親に「入学金を払わないと式に出られない」と電話で事情を説明。母親は「後で払う」と答えたが、学校側は「滞納の可能性がある」として出席させなかった。母親は午前11時ごろ、9万円を持参して学校を訪れたが、式は終わっていた。その後、生徒は校長室で氏名を読み上げられ、「入学を許可する」と伝えられた。
女子生徒の母親は午後5時ごろ、2万円を学校に持参し、同様に入学を許可された。
大迫校長は「入学式当日に必要なお金は3月の説明会で伝えている。経済的問題があれば相談するよう話した。苦渋の決断だったが、当然の判断だと思っている」と説明。県教委指導課の田山正人・主任指導主事は「保護者と生徒にはつらい思いをさせてしまった。事前に入学金についての十分な説明をしており、学校としてはやむを得ない判断だったと思う」と話している。
教育評論家の尾木直樹・法政大教授(臨床教育学)は「極めて機械的、官僚的対応。学校側は2人だけではなく、生徒、保護者に謝罪すべきだ」と話している。【神足俊輔】毎日jp
まったく問題になるような話ではないと思うが、それがなぜか問題になる。
入学式に出席するためには、「学費を入学式に持参してください」というルールがあるのだから、それをしなかった(できなかった)生徒が入学式に出られなかったことは仕方がないことである。ところが、教職員組合はこれを「非教育的対応」とし、要は学校側が緩い対応をするのが「教育的対応」であると考えているらしい。しかし、もう高校生なのだから、この程度のルールはしっかり守ってもらう対応も、教育的対応であろうと思う。
ところで、この話で一番違和感を感じたのは、教育評論家の「論理」の展開の仕方である。
ルールを守らなかった→だから入学式に出席できなかった→だから(入学式に出席させなかった)学校の対応は機械的官僚的だ→だから生徒、保護者に謝罪すべきだ・・この話の展開は、相当無理があると思う。
そもそもの原因は学校側ではなく、「ルールを守れなかった生徒側」にあった。にもかかわらず、入学式に出れなかったという部分に過剰なスポットライトを当て、その原因を作ったのは学校の対応が機械的官僚的だからという話にいつの間にかすり替え、到着点は学校は生徒に謝罪すべき・・という話になった・・。立場が逆転。元の原因、学費未納の話はどこへ消えたのでしょう?
これと似たように話が展開する例は、最近よく見る。
映画「靖国」の話の流れもよく似ている。公費助成金の是非の問題で、政治家が何かを言った、聞いたという部分のみにスポットライトを当てる、そこに政治介入のレッテルを貼りつけ、仕上げは大々的に「表現の自由」云々の話に飛躍大発展させ報道デビュー、というわけである。何が元の話がだったか訳が分からなくなっている。いや巧妙な論理飛躍によって「訳を分からなくしている」というべきか。このような手法を使い、ニュースを演出、展開しているのは誰なのだろう?
話の中の小さな部分に焦点を当てそれを拡大、そこに視点を集中させてしまい、話をすり替え、大々的に発表して、事実化。元の話はどこかへ消滅したかのよう・・。
書いていて気がついたのだが、これって、広告制作の過程に似ているような気がするのですよね。「売りの部分にスポットライトをあてて過大に誇張し、そこにインパクトのあるイメージを貼り付けて、しっかり仕上げる。」 最近の報道現場では、広告制作の手法が大活躍しているのだろうか。