
あれから8年の今日です。
今日は日差しが暖かい。そして花粉にようやく
私も反応を始めました。調べてみると
2011年(平成23年)3月11日14:46発生とのこと。
記憶なんて曖昧なものです。
あの日は金曜日でした。土日は休みのはずですが
業界は年度末の繁忙期。土日も工場へ出た気がします。
先日NHKのアーカイブスを見ていて
津波と火事の恐ろしさを目の当たりにしました。
あの日の東京は、気温は低めでしたが良く晴れていました。
地震発生のとき私は事務所にいて大事なデータの
入っているパソコンを抑えていました。
妹はすぐに私を置いて逃げ出しました。
地震後、間もなく母から工場に電話があって
「死ぬかと思ったよ」と言っていましたが
それが母の声を聞いた最後となりました。
工場は早仕舞いにしました。
あの日、工場を仕舞った私は大手町へ
クルマで向かいました。どうしても
行かねばならぬ用事があったのです。
公共交通機関がストップしていたせいで大渋滞。
街中ごった返していた記憶です。
家に寄らなかったのは滅茶苦茶になっているだろう
部屋を見るのが怖かったからです。
首都高速は閉鎖されていた気がします。
クルマでも歩く速さでの移動です。
バス停の長い列を見ていると一人の女性が
列を抜け助手席の窓を叩きます。怖いなと思いつつ
窓を下ろすと乗せてくれと言います。
カタコトの日本語を使う中国の方でした。
とにかく駅まで乗せてほしいというのです。
「この調子じゃ大手町駅に何時につくかわからないよ」
と、言ったのですがバスが全然来ないと半泣きです。
ぼくは乗せることにしました。
携帯電話の充電器を貸してやりました。
ホッとしたように中国語でなんやら電話をしていました。
夫婦でマッサージ店を営んでいると言い、
住所と電話番号を渡され、サービスするから
来てくれと言われましたがマッサージ嫌いゆえ
連絡することはありませんでした。
何時間か後に、彼女を駅に降ろすことができて
私も大手町で重要な用事を果たしました。
帰りも大渋滞だろうことは予測できたので、
すっかり疲れた私は朝方まで
霞が関の官庁街の路肩で眠りました。
そんなあの日でした。
それから数週間、数か月不安いっぱいの
日々が続くのでした。