☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

「5月3日 【前編】 昨日の話で大笑い、歌舞伎座芝居見物も♪」

2020-05-03 16:05:39 | 『都見物日記』

 この日の日記は分量が多いので、2回に分けて紹介しますね

 

『都見物日記』(四)‥‥ ③【前編】

 五・三  雨降り、五時過に今日は起て皆々 顔、髪あらい、茶のみ、七時過に飯たべ、今日はお染様と昨日芝居見物に行くお約束申上置候て、今朝は早くしまいお待ち居り候。

 夜前(ヤゼン)より 轟殿が私に大笑い申され候  お染様に御あいさつの内に 「ござり申(も)す」と私がいうたと申されて、今朝迄も 其ようなことは私は言(ゆ)わんと申せど、轟殿が あの言葉にはあぶね事笑いいだした と申大笑い也。 昨日はおそめ様のお話にて候、お筆どのよりお文が三十日のひ参りましたけれど、私はまだ御返事も出しません とお話しの事也 精一様はこれはこれは御心あい御やさしい方 とお話しにて、私もうれしく存候也(精一氏は筆者の御子息)

 今日は八時過より三人とお染様お供いたし、歌舞伎座芝居にゆき、実に実に何(ナン)とも口には語り出しは誠になりませぬ也。 市川団十郎の事 談に聞きおり、手のかれたる事、又身ぶり感心也。舞台又は家の造り、道具だて、大幕奇麗の事何ともかともきれい〳〵〳〵。

 外題(ゲダイ)の事 相馬平氏二代物語  → ※「相馬平氏二代譚(そうまへいしにだいばなし)」

  跡に道成寺と申外題にて候

一幕より二幕まで団十郎 出、夫より団十郎 あとまく一つと中までいたし、道成寺は実に只々感心々々々々。

 

※ 画像↓は2002年発行「旅王国⑫ 東京」(昭文社 エリアマップ)より

 

 

 偶然にも最近、最初に「歌舞伎座」というものが出来たのは明治22年11月であったとあるテレビ番組を見ていて知りました 出来て半年ほどの真新しい歌舞伎座は本当に素晴らしかった事でしょうね

 歌舞伎座HPより → 「歌舞伎座の変遷」

 この時は九代目市川團十郎 

検索したところ「立命館大学ARC」の「深読み役者絵展」というページがヒット、

白拍子を演じたのは明治23年(1890年)だけだったとありました! だとしたら、貴重な舞台を見たことになりますね

 ↓トップ&下の画像は5月19日、20日に入手した書籍から📚'20.6.10 追加掲載したものですが、

ここにも書かれていました

「相馬平氏二代譚」についても「近松門左衛門の『関八州繋馬』を福地桜痴が書き直した」「俗に『仲光』という活歴劇」と。

  

 お染様にお文を送ったのは、イサさんの妹で、曽祖父・轟からすると次姉の筆さん。筆さんについては以前書きましたのでお読みいただければと思います。

関連記事:「大正14年まで生きた筆(フデ)さん」など  

 またしても、お国言葉の鹿児島弁を口にしたとか言っていないとか、姉弟の押し問答(爆!

 


「5月2日 新橋松元屋から 京橋区加賀町へ宿替え 麻布永坂島津氏お染様の所へ」

2020-05-02 15:58:04 | 『都見物日記』

 東京滞在2日目。新橋の宿屋・松元屋に一泊したイサさんたち三人。

ここから更に様々な方々が登場します

 

『都見物日記』(四)‥‥ ②

 五・二  松元屋にて六時過に起き、今日は天気よし。七時過に飯たべ候。 汁と皿は筍、蓮の根、豌豆(※エンドウ)、くわいと烏賊、此品にて候。お平は蛤也のぞきに ゆばのしめたるもの、小皿に漬物也。昨日はここに着きたる時、茶とせんべ、其せんべは しお気有之、鹿児島には無き味あり。今日は私も気分宜敷く、昨日は汽車にて終日ゆられ候故か 頭痛致し あしき気分にて候いしも、今日はさえざえ敷事にて候。

 八時前に宿屋をかえ京橋区加賀町17番地 和田いくやどへ参り候。程なく 麻布永坂島津氏お染様の所へ三人とも連れたち参り上(アゲ)、いろいろと珍らしきやぼ蕎麦ご馳走などいただき、酒いただき、折角の思召にて候間 そばもたくさんに御遠慮なく頂き、暫くお話し申上候。 何かいろいろの事もおはなしいたし度候へ共 奇妙頂来(キミョウチョウライ)に言葉が出る故 気の毒に有之候事

 また帰りには愛宕山芝公園 増上寺見物いたし、夫より小刀、鋏など買入れ帰り候て、ゆるゆると内に致し居り候へば、一寸 永吉の(※)久良賀野辰彦様水上(ミッカン)の野元彦十郎様のお出、夕ぐれより八時過に御立ち遊され候。久々にてお喜びの事に候。 こちらのそば御馳走いたし候。九時過には皆々いね候。

 「麻布永坂島津氏」とは、以前『【第5話】麻布永坂島津氏のお染様』で書きましたが、「佐土原島津家」の屋敷が麻布永坂にあり、明治23年のこの頃は、「香蘭女学校」が屋敷の敷地の一部を30年契約で借りているようですが、正にそこへ三人連れ立って参上仕ったわけですね

 

「香蘭女学校」のHPより↓

「 香蘭女学校創立時の敷地は、東京府麻布区永坂町1番地の、子爵島津忠亮(しまず・ただあきら。1849年~1909年。日向・佐土原藩主の島津忠寛の長男。貴族院議員。)邸の一部1,644坪を1888年に30年契約で借りました。(1,702坪説もあり) 」

 

 「奇妙頂来(キミョウチョウライ)」とありますが、「帰命頂礼」の音に乗っけてあるのでしょうか? 「頂来」は当て字?

 「頂礼」は「五体投地」を意味するらしいので、ここは「奇妙」の音を引いて意味の違う四字熟語に乗せてみたのでしょうね。お茶目というか、ユニークなイサさんですね 

また、これには明日、後日談があります お楽しみに〜

 

 以前書いた『【第1話】永吉の九良賀野 辰彦様と水上の野元彦十郎様』でも紹介しましたが、「九良賀野辰彦様」とは、川上イサ&栗川轟の従兄弟にあたる人らしいです。

二人の母親・タネの実弟・島津久籌(島津登の長男) が永吉島津家を継いでいますが、辰彦はその息子の一人(三男か四男)で、『島津家家臣団系図集 下巻』によると、経緯はわかりませんが「九良賀野」を継いだ人のようです。

 

※ ここでは「久良賀野」となっていますが、このあと再会した5月15日では「九良賀野」と書かれています。

ご自分の長男・久良さんの名前から、ついこの文字を書いてしまったのでしょうか 

※ 「永吉の」 とありますが、鹿児島市にある「永吉」の地名のことなのか、それとも「永吉島津家」を指すのかは不明です。 「水上(ミッカン)」は、やはり「水上坂(みっかんざか)」という場所があり、地名のことだと思われますが、、。

この「野元彦十郎様」については、まだよく分かりません。   → これについては後日わかりました↓↓↓

    こちらをご覧ください →『水上の野元彦十郎様も2020-06-23 13:45:22 )』('20.9.29 追記)

 

「水上坂」‥‥‥ 地元では「みっかんざか」と呼び、坂の登り口には「水神様」があります。

鹿児島城から続く街道の途中にあり、参勤交代でも使われた道です。

確か大河ドラマ『西郷どん(SEGODON)』でもその名が出てきたように記憶します。

 


「5月1日(続き) ついに東京入り!」

2020-05-01 15:56:20 | 『都見物日記』

 ここから第四章です。やっと、やっとここまで来ました(ブログアップも遅れ気味。。。苦笑)

前回天竜川や大井川の鉄橋越えを楽しんだイサさん、日記ではそこから一気に東京到着(笑)

 

『都見物日記』(四)‥‥ ①

 

 五・一(つづき) もはや東京。高輪御殿山の下(シモ)てを通り、品川を片脇に見、よき景の所にて有之(コレアリ)、五十三駅の景色も色々眺め候うち、荒井の今ぎれ入海の所など実に感心也。

 いよいよ東京新橋停車場においり(※「降り」の意)、新橋の松元と云う宿屋へつき、此所にてゆるゆるといたし候。私は櫛田の紅葉屋にて四日あとに足の親指 少々けいはき(※この部分 傍点有り)、夫故 痛みはなはだしく、いつもいつも麁匆(ソソウ)々々々々。これは北八の手上(※テウエ)ともいうべく 実に実に大笑い也。 夫(ソレ)が為め両三日(※リョウサンニチ=2、3日)は風呂へもえ入出さず、いがやんばばのちかんちかんちかん (この部分 傍点有り)。ますます色も黒くなり、これはこれは見られたものでなし〳〵〳〵と申し大笑の事也。 早目に私はやすみ候、夕飯も夜入直ぐにたべる也、卅日の夜より一日の夜迄 終日汽車にて随分くたびれ候也

 

 日記にもある通り、さすがに少々お疲れのご様子。それでも笑い飛ばすところは天晴れ

 東京編が始まったばかりですが、さて、明日はどちらへ参られますでしょうか?

※「北八の手上」‥‥「てうえ」と読むのも意味も初めて知りました。辞書によると「その術や力などが他より勝れていること。うわて。」と云うことです。

※「北八」は「喜多八」とも書き、弥次郎兵衛とともに「東海道中膝栗毛」の主人公で滑稽な旅をする人物

 


「5月1日 豊橋を出発、一路東へ」

2020-05-01 15:43:48 | 『都見物日記』

 5月に入りました。前日夕方には豊橋の壺屋という宿屋へ着き、久しぶりにゆっくりと過ごし早目に休んだイサさんたち一行です。

 

『都見物日記』(三)‥‥ ⑦

 

 五・一  今晩(※)は夜中の二時五十分には 此壺屋と申宿より出立、豊橋の停車場まで車にてゆき、夫より三時過には汽車にのり候也。入り海の大きな所などみ、途中にて夜明けいろいろ珍らしき所ばかり眺め、暗やみの処の瀬戸は 汽車も昼はあかりをつけ、十ところばかり通り実に実に感心とも恐ろしともいわれぬ事計り天竜川大井川などにも鉄橋かかりて其上を汽車にて行くもおもしろし。(つづく)

 「暗やみの瀬戸」とあるのはトンネルを指しての表現。「入海の大きな所」は浜名湖か(若) 

 

 「今晩」(※) とありますが、江戸時代は夜が明けるまでは前日の日付であると聞いたことがありますので、もしかしたらその名残りかな? いや、だとしたら昨夜となるかな‥‥

 ということで、豊橋を出たあと浜名湖などを眺めていると、途中で夜が明けた様子。昼間でもトンネルの暗闇では明かりをつける汽車(イサさん、トンネル体験初めてだったのでしょうね)。トンネルを10カ所ほど通りつつ、天竜川の鉄橋も越え‥‥‥

 大井川にかかる鉄橋も越えて‥‥‥(鉄橋を汽車で渡るのはお気に召したご様子のイサさんです

 更に更に、汽車は東へと進みます。(次章へ続く〜

 

 


「4月30日 今日は移動日、豊橋壺屋へ」

2020-04-30 09:19:05 | 『都見物日記』

 ここまで怒涛のイベント続きでしたが、本日は伊勢の山田、北村屋を出発、航路、豊橋へ。

さてさて御一行、ゆったりと出来たでしょうか??

 

『都見物日記』(三)‥‥ ⑥

 

 四・三○  六時起き顔洗い、品々また荷物からぐり 北村屋を出発、かみやしろの港より小舟にて小蒸汽へのり、はし船にて川登り、豊橋壺屋と申所の宿屋へつき四時頃にて候。ここにてゆるゆると致し、夕暮は酒、飯など一瓶うまくのみ、今晩は久々振に静かにてよき事、早目にやすみ候也。

 前日の宿屋、北村屋の賑やかぶりから一転、ここに来てようやくゆっくり出来たようで    

読んでいてもホッとしますね

 さて、4月最後の日を終えて、翌日は更に東へ東へと向かいます 

 

 

 

 


「4月29日 御伊勢様参り〜伊勢音頭見物」

2020-04-29 09:15:46 | 『都見物日記』

 前日泊まった櫛田の宿屋・紅葉屋を発ち、今日は伊勢参詣。宿屋も伊勢・山田の北村屋へ移ります。

 

『都見物日記』(三)‥‥ ⑤

 

 四・二九  六時起き 今日は七時伊勢参詣。紅葉屋より立ち 飯早目にしまい候。程無く出たち、九時前には伊勢の山田、北村屋着、いろいろしまい、十一時過に昼飯たべ、案内人頼み御いせ様御参詣致候、入口の橋の下に網にて銭をなぐれば見事にとり、其うける事うまく実に実にあきれたもの也。御伊勢様は御新宅にて 外にもいろいろ御神様入らせられ、是にも御参詣いたし候。途中にお玉おすきという三味線にて銭をうける芸を一寸み申候。これは客が三味ひきに銭をなぐれば撥(バチ)にてひく片手に其銭をうける也。夫から帰路外宮様御参詣いたし、夫にて帰り候。

 夕飯などたべ 今晩は伊勢の山田古市伊勢音頭見に参り、寄合人数にて私共も一緒に見に行き、三人にて一円払い おもしろき事に候。 すぐと宿屋に帰り候処、この北村屋は誠ににぎにぎ敷宿屋にて 随分客も多し、十時過にいね申し候。

(↑指で指してるところは関係ありません。。。(^^;) )

 御伊勢様の入り口などで、投げ銭を受けて見せる芸や三味線弾きの芸にも呆れたり感心したり楽しんだ様子です。

 翌日は伊勢から航路、豊橋へ向かいます

 


「4月28日 つげ〜かぶと村〜津〜櫛田の紅葉屋へ」

2020-04-28 08:12:40 | 『都見物日記』

 昨日は「近江の湖水 又は むかで山、勢田の唐橋色々と眺め、つげ(柘植)と申所へ夜八時に」着き、亀屋という宿屋へついてご飯を食べて10時ごろにご就寝。

明けて今日は宿屋を車で発ち、途中馬車に乗換え、津を経由して伊勢へ向かいます。

 前項ではこの「つげ(柘植)」の場所がわからなかったのですが、FBで上げたら教えてくださる方がありました。

「「つげ」は伊賀でしょう」とのことで、桐野先生、ありがとうございました

 

『都見物日記』(三)‥‥ ④

 四・二八  「つげ」より車にて。今日は六時に起き 顔洗い、七時過に此宿より立出で 大きな岡の下を通りかぶと村という所にて一寸茶のみ 直(スグ)車へ又のり、九時過 せきの地蔵さんの脇にておいり(※「降り」の意)、此(ココ)にて一ぷく煙草。大よだれかけなされた地蔵の参詣などいたし、又此所(ココ)にて車もかわり、三十銭にて車もきまり、「むくえ」にて昼飯たべ、夫(ソレ)から馬車に乗かえ津にて又馬車にのりかえ櫛田迄乗つづき候。

 櫛田の紅葉屋と申す宿屋へつき くれぐれ(※「夕方」の意)にて候、風呂に入り 飯たべ 酒ゆるゆるちんとのみ候。今日途中にては大きな汽車通出来る所を眺め、実に実におどろき 鈴鹿山あたり感心々々々々。 つげより二十五銭にて、むくえより三人にて四十銭、櫛田迄十五銭 三人金はらい候。家より出る時のつもりにては 少し宿屋の所が金銭が違い候也。

 

 旅の途中の交通費のチェックなどもメモされてて、なかなか興味深い内容です

「大きな岡の下」とは「せきの地蔵さん」「おおよだれかけなされた地蔵」なども気になる所ですが、先を急ぎましょう。

明日は伊勢参詣が待っています。


「4月27日 今日は嵐山の葉桜見物から〜汽車に乗り近江の湖水・勢田の唐橋など眺めつつ、柘植と申所へ」

2020-04-27 09:09:58 | 『都見物日記』

 西京見物の最終日。夕方には京都停車場から汽車で東へ向かいます。

 

『都見物日記』(三)‥‥ ③ (※は、ゆきによる注釈です)

 四・二七  今日も天気よし、嵐山の葉桜見物に行き、これは実に奇麗の事 天竜寺西本願寺東本願寺より宿屋(※三条小橋の亀屋)へ帰り、昼飯たべ、それよりちんちん先へ行く様に しまいいたす処に、尼の貞恩さんにちょっと御目にかかり、お互におやおやと云(イウ)て驚き御物語などいたし、おたばこなど差上候、短尺(タンジャク)二つ給わり候事。程なく此宿(※三条小橋の亀屋)より出立(デタチ)、京都停車場まで車にて行き、五時頃に汽車にのり 珍らしき処ばかりながめ候 近江の湖水 又は むかで山勢田の唐橋 いろいろと眺め、つげ(柘植)と申所へ夜八時に着せり。亀屋というやどやへ付(ツキ)、めしたべ 十時頃に寝候也。

 この日記を読むまでは「勢田の唐橋」を知らなかったので、まず電子辞書で確認すると、

「瀬田の唐橋」‥‥ (その様式が唐風だからいう)「瀬田の橋」の別称。‥‥ と、ありました。

「瀬田の橋」‥‥ 滋賀県瀬田川に架かる橋。大津市瀬田橋本町から、同市鳥居川町に通ずる。関東から京都への入口に当り、古来、京都を守る要衝。宇治・山崎の橋と共に有名。瀬田の唐橋。瀬田の長橋。

 

※ 画像を追加しました('20. 5.8)

上部画像で建部神社の横に「瀬田」と小さく表記があります。建部神社前の道路が瀬田の唐橋でしょうか。

下の画像では「いしやまでら」のひとつ手前に「からはしまえ」とあります。

「松原国道」の表記の右側にあるのが唐橋かな?

『都見物日記』とは直接関係ありませんが、町田久成が剃髪し晩年僧正として仏事に精進した「三井寺 光浄院」があるのは大津市のこの辺りなのですね 

 

 


「4月26日 西京見物 2日目」

2020-04-26 08:06:41 | 『都見物日記』

 昨日25日からお天気にも恵まれて、幸先良いようです。

 

『都見物日記』(三)‥‥ ②

 四・二六  今日は極てよき天気にて又見物。七時より出立(デタチ)、下鴨にてあをい餅 とり入、吉田の社黒谷は座敷まで見、信女堂も見る。銀閣寺は座敷迄も見、お茶の湯座敷にて茶菓子戴き候、ほふねん院にも参る。左之内は法然上人おかたしろ(※形代)有り、えいかん堂の内には大きなる楓樹あり、大池有り、粟田御殿の宝物御座敷まで拝見、知恩院にも行き 釣鐘も見、笠も見る。 丸山温泉涯(ギワ)祇園、清水寺西大谷三十三間堂、京の大仏さん実に実に大きなもの也、大仏さんの耳涯(キワ)に登り そろそろおいり候清水坂の吉野屋といふ処にて三時頃に昼飯たべ候也、藤、つつじの花 見事盛りにて候

 ちんちん夕方帰り付、風呂に入り、飯たべ 十時頃やすみ、おかあ様も私もあんま頼み候

 

 ちょうど今時分、藤やツツジが綺麗だったでしょうね

 

 それにしても、朝も早くからたくさん見て回りましたね〜 流石にこれだけ回ればお疲れになりますよね。

 下鴨の「あをい餅」ってどんな餅でしょうね?

と思って検索したら出ていました ^-^ 「下鴨の葵餅」って「焼き餅」のようです。有名だそうですね

 西大谷 ‥‥ 大谷本廟の異名

 

 


「4月25日 今日より西京見物」

2020-04-25 17:26:03 | 『都見物日記』

 第三章に入ります。

この章には7日分を集録されています。(送り仮名などはそのままに書いています)

 

『都見物日記』(三)‥‥ ①

 四・二五  今日より西京見物。今日も七時には目覚め 茶飲みなどいたし、味噌乃しゆる百合二切れ、皿は いかと漬物、平(ヒラ)が 百合と三ツ葉ゼリ、きのこ花子、巻玉子、漬物。

 今日は天気よくして 西京乃博覧会 見に行き、中途 清願寺に行き 千手観音など拝見いたし候、五条の跡に博覧会あり、いろいろの織物 又は掛物 或は何に限らず珍らしき品々、見事なること限りなし。 アラヨアラヨ、ンダモー これはこれは、ウーンウーンの声、いわぬ筈なれど ツイ人の居らぬ所では声つづき也。。嗚呼嗚呼おかし。

 おかあ様とかわりがわりの声つづきにて 相国寺金閣寺平野の社北野の天神などにも参詣し、右 行掛(イキガケ)に西陣の織物を織る所に鳥渡(チョット)立寄り候処、上通りの帯地 織かたあり、外には途中にていろいろの獣物(ケダモノ)、ねこの三本足、いぬの六本足 其ほか品々、それから博覧会見ると腹へりて それ故鮓(スシ)三人にてたべ、又右の処 見申候

 暮々に宿屋へ帰り付、直(スグ)と夜食たべ 風呂に入り程なくやすみ、今晩早々ゆるゆる也。

 

 「西京の博覧会」って、織物とか、昔おぼろげに「見世物小屋」なんてものがあったような、、そんな感じなんでしょうか??

 「アラヨアラヨ」「ンダモー」は鹿児島弁です。

驚いたり感心したり呆れたりした時に「アラヨ〜!」とか「ンダモシタ〜ン!」とか、割と年配の方が使います。

「アラヨ〜ォ!」は「あらまぁ!」とか「オヤまぁ‥‥」など、

「ンダモー」は「ンダモシタン」の短縮系?「おやおや‥‥」と言った感じにも使います。

鹿児島弁なので言わないつもりでも、人のいない所ではつい口にしてしまって大笑い、というわけですね(笑)


「4月24日 西京へ向け出発!」

2020-04-24 17:20:57 | 『都見物日記』

 さて、第二章も4日目。

このカテゴリー、日記当時に日付を合わせて書いていますが、マメにお読み頂いてる奇特な方々にはもうお分かりのことでしょう。実のところ、取り掛かったのは4月28日、仕上げはさらに2日後の30日であります(苦笑)

 

『都見物日記』(二)‥‥ ④

 四・二四  今日も六時過におき 九時過より雨也。八時飯、三原さんはおめざめ直(スグ)御帰(オカエリ)成され候。今日私十一時 髪を乱髪にいたし 近所にて候風呂屋へ行き 帰り候得ば、轟も今々と喜び 又々大笑申候。御母上様も少々つみつけ御同様にて候。昼飯は一時にたべ 二時過に大坂梅田停車場まで車にて行き、是より汽車にて西京へ向け出発、ほうぼ珍らしき所計り眺め行き、淀川へ帆掛船の大いなものが通る所も汽車から遠方に見えおり海之(ノ)ように見え候也。

 西京の境には から竹、こさん竹あり 実に広き山、其山が奇麗に中がすき 感心の事。大坂より西京までの内に汽車幾度も停り 少々人が乗りおいり(※「降り」の意)して西京へ四時に付(ツキ)、三条小橋の亀屋と申 宿屋へ付、ここにて夕飯をたべ 風呂に入 いろいろと致し居り候いしに 火灯(トモ)れ、そうして承りし所、近頃はこちらは一カ年に三七日ずつ乃(ノ) 都踊有(アル)との事にて 七時過には踊を見に行く。これはこれは奇麗な女 十五、六より廿ばかりの女ばかりして 何より何より何よりこれが面白き事也。その着物は 三味線地方(※ジカタ)は黒に何か花が かたかたちぼちぼ付(ツキ)、鼓太鼓は左わき、これの衣物は青色に空模様也。松さくらの模様、赤ふき(「ふき」に傍点あり)にて振替也。踊りは三十二人、三味線十人 鼓太鼓九人にて 踊は両脇より出(イデ)、どちらを見るも仕様なき事。何(イズレ)も何も面白し面白し面白し

 

 「今々と喜び」とか「少々つみつけ」など、所々言い回しや言葉が聞きなれなかったりするのですが‥‥。

「何より」や「面白し」など、同じ言葉を二度では足りず三度も重ねるのは、余程の美しさだったり楽しさだったり、ということの現れなのでしょうね 

次回、第三章に入ります。4月25日の西京見物 〜 5月1日の東京入りまで、一週間分あります

気長にお待ちくださいませ〜

※ 地図画像付けました('20. 5.7)

 

 

 

 


「4月23日 三原氏御母様と源水楼茶屋へ」

2020-04-23 17:01:08 | 『都見物日記』

 ここまでのおさらい →『【第2話】4月17日出帆〜4月23日大坂に2泊

 

 前日、神戸から大坂の増元という宿屋へ落ち着いたイサさんたち一行は、ここでもう一泊し、24日には西京(京都)へ移動。27日の夕方まで京都に滞在します。

 

『都見物日記』(二)‥‥ ③

 四・二三  今日は雨。七時過に目覚め 茶飲一緒なり。十時まえ髪結いたのみ くしまき(※)によせ、それより風呂へ行き じき近所にて幸い也。風呂屋へおるうち 大雨降り 雷どんどん鳴り 傘無き処へ、宿屋の下女が「おまち長う御ざんしよう」と迎いに見え、おゆかたは私が持ちますと云(イウ)て女がじきにとりて 内へ帰る事也。轟殿留守なりし。

 茶など入れ 隣りのおすみ殿 外二人もお出 茶飲いたし候。其時の笑いばなしに、私の髪の風がよほど奇妙な風とて 大笑の事也。轟殿申すには 姉さんあなたの髪は じきに(実に、全く の意)ひよどりか何か とまりた様にありますと申され、只々どんどん笑いました。左様(ソウ)するとほど無く飯差出し候。此ひるめしのそえ物は吸物椀に竹の子、ふきのしめもの少々おつゆあり、それと漬物にて出し(ダシ)よき加減に むまく たべ候也

昼寝のあと三原氏御母様お出にて 四人連れにて源水楼茶屋へ行き、珍しきたべ物、酒のみいたし候。三原母様御馳走の 女の義太夫呼び おもしろき三味線を聞き候事。

 十一時に内の宿屋へ四人連れ帰り 今晩は三原様もお泊(トマリ)にて 賑々敷 よき事に候。すぐと皆々休みし事也。

 

 (※)くしまき ‥‥ 櫛巻き

「櫛巻き」とは女性の髪型のひとつの様ですが、「ひよどりか何かがとまったよう」とは、姉さんに対して随分失礼なことを言う弟ですね(笑)

 


「4月22日 大坂の宿屋・増元泊、西村時彦様と道頓堀の芝居見物へ」

2020-04-22 18:42:49 | 『都見物日記』

 前日は神戸の宿屋「薩摩屋」へ一泊。やっと人心地ついて、これまでの旅の疲れも取れたことでしょう

ここからは1日ごとの出来事も増え、盛り沢山な内容になりますが、果たして上手く伝わりますでしょうか??

自信はありませんが、とにかく書き写してみようと思います。

 

『都見物日記』(二)‥‥ ②

 四・二二  今日は天気よし。七時過に目覚め茶のみ 其より飯すぐとしまり 神戸乃停車場へ行き 少し遅くなりしより二時間程待(マチ)、九時過 十時前汽車に乗り 十一時過には大阪の増元という宿屋へ付(ツキ)、直(スグ)に昼飯さし出し候。 これより御母上様、轟様は 三原御母様おたか様方へ御越(オコシ)になり 私お留守致し候。 此宿は 石燈籠(イヅロ)和田屋 母おすみ殿の知人にて此宿をおしえてくれられ候故 ここへ参り候也。 おすみ殿連れの人数は 上町柳町の相良(サガラ)の母殿、外に下町のばばどの三人 次の間におられ 率いの事に候(中略) おるすに おすみ殿 私方に参り 二人にて茶など飲みおりし所、外のばばどのたちもここへ参り 茶などのみ、色々話などいたし居り候処に 御母様、轟殿帰り来られ候

 昼過より大坂市中見物に行き掛(カケ)、私の蝙蝠傘一本買入 一円にて取入(トリイル)。雨ちんと降り出し 急ぎ買(ガイ)に余り宜敷もなく候得共 詮方(センカタ)なく買入候。 夕方になり候得ば 何かたべに行き度(タキ)ゆえ、一寸一膳飯屋のような処へ行き、カシワなどたべ酒飲み、これも何か話の種にならんとて行き候処 此内も電気燈を明し(設備の意か)暮々(クラグラ)と成りて折角折角とたべる処に はたはたと明りが付(ツキ)、にわかに明るくなりたるとき 御母上様 アラョーと仰せにて、夫(ソレ)から轟殿が笑い出し それそれでましたと申され、脇辺(ワキヘン)にあまり人がなく幸いにて 只々三人にて大笑いの事

 夜入とすぐ内へ帰り候得ば、三原氏母様と西村時彦(天囚)と 此方へお出(イデ)にて、今夜はぜひぜひ大坂道頓堀の芝居へ御出あれとの事にて、又直(スグ)と芝居へかけ出し 車にて急ぎ行き候得ば、御両人ともにお待ち いろいろよき馳走有之(コレアリ)候。芝居は三桝太夫と申物にて あわれなる外題に候、何(イヅレ)も何も面白き事也、帰りは十二時過し事。

 

 私たちの年代だと鹿児島で「和田屋」と聞くと、天文館(鹿児島市繁華街)のラーメン屋さんを思い浮かべると思いますが、「いづろ(石燈籠)の和田屋」とは何の屋号なのでしょうね??

「上町柳町の相良の母殿」は酒屋さんのようです → 『【第3話】和田屋のすみばばと相良酒屋のばば

そして大阪市中見物。 川上のお姑さんが口に出した「あらよ〜」とは、その昔、鹿児島で年配の方が驚いたり感心したりした時によく発した鹿児島弁です 今も地域によっては聞けるかな?

周りに人がいなくて幸いだったと三人で大笑いするところが最高です

 道頓堀で見た芝居、「三桝太夫」って何だろう??と電子辞書で「三枡」を引くと、歌舞伎の演目「暫」の衣装にある三重の枡の紋から、「市川團十郎などの紋所」とありました。

偶然にも、つい前日「日本人のおなまえっ!」の「歌舞伎のおなまえ」の回で出ていました。


「4月21日 兵庫着、神戸楠公社参詣」

2020-04-21 16:20:54 | 『都見物日記』

さてさて、ようやく本船に戻った一行は、いよいよ本州の旅へ

『都見物日記』は第二章に入ります

 

『都見物日記』(二)‥‥ ① (送り仮名など、表記は掲載されたそのままを表示しています)

 四・二一 今日天気宜敷 少し風出(イデ)晴上り はだもち着物一枚は寒さになり、八時過に飯、今日もひるね(朝四時より船、出帆)して少しも揺るることもなく走り行き候、ひるめしたべ候が一時也。珍らしき処をひるより絶えず眺め 面白き事、淡路島と申所を眺め候に 流れが大きな処なり。又かたわきは一の谷と申所を見、程なく地かたに着(ツキ)、兵庫港(ミナト)に入候、三時過に薩摩屋へ着、此処もよき宿屋にて候、直(スグ)と 名越家と川上方へ端書(ハガキ)さし出し候也

 

 夕飯たべると五人連れにて神戸楠公社へ参詣、帰りには女郎屋見に行き、少しは早き故 其時迄は見世にでおらず 只々立派丈み申候  早く宿屋へ帰り候 これも面白き事也し。夜入過(ヨノイリスギ)に帰りて 又少し五人にて酒さしみにて飲み方いたし候処、名越氏の知人 鈴木信弥と申人来り 又チンと(※おそらく「ほんの少し、ちょこっと」の意?)吸物一ツさし出(ダシ) 飲み方にて候。其客人帰りしより 皆々もいね 久々にてゆるゆるとやすみ候事也

 

「飲み方」というのは鹿児島で使われる表現で「飲み会」とか「酒飲み」のことです。19日の金比羅参りの時にも、金額を「どしこ(いくら)」と記していて、こういうちょっとしたところから、イサさんも鹿児島弁を使っていたのだろうな、と思われますね。

 最後の「久々にてゆるゆるとやすみ候事也」を読むと、ここに来てようやく一息つけた様子がわかりますね

 


「4月20日 多度津茶屋で一日過ごし」

2020-04-20 09:21:51 | 『都見物日記』

『都見物日記』(一)‥‥ ④

 目次がわりにこちらをお読みください → 『【第2話】4月17日出帆〜4月23日大坂に2泊

 

鹿児島を発って4日目、四国金比羅様参詣を果たしたものの、本船に帰れず小舟で過ごした一行は‥‥

 四・二○   天気よし。先(マズ)これでもすまないと 又多度津へより 朝飯をたべ一人が十五銭宛、それから矢張り矢張り朝霧にて何も分からず ひるねを追々致し つるつるといたしおり候へば、夜 沖に船がみえた見えたと 皆々さわぎ立ち サア本船が見えた故、本船に乗たしとて 渡し船を頼みて行きますと、皆々も賑やかになり喜びて 多度津茶屋より帰り 小船にのり大船に乗り付(ツケ)、船よりも待居成され 直とひる時にて 飯差出し成され、たべ、四時頃に夕飯、其よりゆるゆるしており、又今晩は外に大勢の人がのりこみ有り、十二時頃迄はせわしく 一時頃よりよくいね入候也

以上の4日分は一つも省略していない。七十年前、若法師生れる前年の旅日記で興味津々である(若)

※ 「若法師」とは、寺師若法師さんご自身のことで、(若)もご自身のこと

 初めてご覧の方は、こちらを参照下さい →『【第4話】紹介者は、寺師若法師さん