先程、アメリカ・ニューヨークにお住まいのマイミクさんの日記から
関連記事へとんで、「NY永住組」というコミュを見つけました。
mixi内にも本当にいろんなコミュがありますね。
改めて、海外で暮らしている方々も多いのだなぁと感じること暫し。
そこから日系人のためのサイトへ飛んだら、
幕末の薩摩からイギリスを経て、アメリカへ渡った
「長沢鼎(ながさわ かなえ)」に関する記事がありました。
↓ ☆
以下、リンク先が残っていないものが多々あります(追記 '17. 4.11)
「グレープ・キング」長沢鼎の足跡
鹿児島出身の方ですから、当然名前も知っていましたし、
「ワイン王 長沢鼎」としても有名ですが、イギリスに留学した後、アメリカで偉業を成し、彼の地に骨を埋めた、ということくらいであまり詳しいことは知りませんでした。
(「カリフォルニアの葡萄王」となっていたり、いろいろですが‥‥)
おそらく現地に残っている資料を元に書かれたのだと思いますが
このサイトの記事はとても興味深く、詳しいことが書かれていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[長沢鼎(ながさわ かなえ)](1852~1934)
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/gunzon.html#nagasawa
>> 元薩摩藩士。藩の名門校、開成所で英語を学ぶ。1865年、藩費留学生として
森有礼、鮫島尚信らとともに若干13歳でイギリスに渡る。<<
ーー 上記記事より ーー
☆上記記事にもあるように、
長沢らがイギリスに留学した当時は鎖国中であり、
幕府に対して彼らは脱藩・密航して国外に出たという筋書きになっていた。
「長沢鼎」という名前はこのとき藩主から与えられた変名であり、本名は実は「磯永彦助」。
記事によると、
>> スコットランドの中学校に入学して英語を学んで2年が経ったころの長沢に、劇的な出会いが訪れた。宗教家トマス・レーク・ハリス。カリスマ的指導力を持つアメリカ人である。<<
宗教家が絡んでいたんですねー、知らなかった。
そこで、改めてWikiで「長沢鼎」を検索したのですが記載がなく、
そのかわり、「トーマス・ブレーク・グラバー」というスコットランドの商人の記事がリンクされていました。
長崎グラバー園の、あのグラバーさんですね。
グラバーさんは「政治的混乱に着目して薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長沢鼎らの海外留学の手引きもして」いたらしい。
そんな関わりがあったことは知りませんでした。
長沢鼎に関する記事のつづき ーー
>>このころ本国日本ではいよいよ倒幕の気分が沸騰し、その対応に忙しい薩摩藩は留学生の生活を一時的に見放していた。1867年、長沢ら留学生有志はハリスに同行して渡米。ニューヨーク州ブロクトンにある教団コロニーに居住し、ワイン醸造などの労働に従事しながらハリスの教えに従った自給自足の集団生活を送ることになる。
1868年、明治維新の報に森らは帰国したが、ひとり長沢のみはハリスの希望により教団に残された。<<ということらしいです。
☆「長沢ワイン」でGoogle検索するといろんな記述があります。
http://www.sommelier.jp/higashikanto/CALIFORNIA14june2004_3.htm
↑ここからのリンク
http://www.sf-japan.or.jp/news/0407/0407-03.htm
「ナガサワワイン」
http://www.rakuten.co.jp/yamakataya/1821359/378185/
ちょうどNHK大河ドラマ「天璋院 篤姫」が、
次回辺りからこの頃を舞台に展開していくので、
想像をめぐらせると2倍3倍に楽しめます。
*ちなみに、薩摩藩留学生15名の中には、名越左源太の長男もいました。
私の曾祖父のお兄さんですが、こちらは薩摩に帰って来てからは
なかなか思うような生き方が出来なかった、と聞いています。
註: 渡航したのは総勢19名ですが、藩費留学生は15名で、
新納久脩・松木弘安(寺島宗則)・五代友厚の三名と
通訳:堀孝之(長崎出身)とともにイギリスに派遣。
☆
鹿児島市のHPより「磯永彦助(長沢鼎)」(← '17. 4.11 追記 )
☆ 下の2枚の写真は2008年3月16日に訪ねてみた興国寺跡墓地で撮ったもの(← '17. 4.11 追記)
*
興国寺跡墓地で見つけた長沢鼎の墓への案内表示。
*墓地への入り口。