☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

本立寺跡へ、ちょこっと福昌寺へ

2020-06-29 12:26:26 | 歴史探索

ちょっと日数が経ってしまいましたが、アップするのを忘れていました

先週火曜日、23日に「本立寺跡」を訪ねてみました。

事前に他の方のブログ記事いくつかを参考に。

 そのひとつ、九州下町おやじさんのブログ『本立寺跡(島津家5代墓所)と、奈良原助八殉死の地と ~鹿児島市の史跡 』、

そしてもちろん、クマタツ1847さんのブログも参考にしました → 『 島津家廟堂を訪ねる 』

なので、リンク先をご覧いただくと同じような画像になってしまいますが、、、。

 

 

   扉が閉まっていて遠くからのズームなのでうまく撮れませんでした。。

 

 

 

  

先月末に「本立寺馬場」を訪ねた後に、「本立寺跡」を知ったのですが、今回は場所の確認だったのでこんな感じです。

また折を見て中も拝見したいと思います。

《 関連記事 》

  『仁王堂水(清水馬場・坊中馬場)&鶴嶺高等女学校校跡(本立寺馬場)を訪ねて 』

  『「堂の前(どのまえ)」、、、とは?! 』

 

 それと、この日はもう一つの目的がありました。

「調所笑左衛門広郷」さまの刻銘が「島津重豪公のお墓の後ろ側の献灯にもある」と、

FBFにさせていただいている調所様直々に以前教えて頂いたのです。

 

     

    

 

「ここだよん♪」とでも言っているような三毛猫さんの案内付きでのぞいてみると、、、

ありました (4基並んだ左から2番目、後ろの石塔)

 

 

一番左↓に「調所・・」と読めます、が、その下が残念ながら読めませんでした。。

 

他の石塔を見ると、「三原藤五郎武◯」「有川勇馬貞◯」などもあります。

 

 

重豪公の墓所を訪ねる前に、右隣にある別の入り口から入り、「忠済公」夫妻のお墓も訪ねました。

 

    

ここで、まずは白黒猫さんが高い所で出迎えてくれました♪

 

何度も訪ねたくなる福昌寺、ですが、ヤブ蚊もいますのでご注意ください。 

《 関連記事 》

調所笑左衛門などの刻銘を確かめに 』

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後醍院真柱(ごだいいんまはしら)誕生地碑

2020-06-20 12:57:34 | 歴史探索

FBをやっていると、過年の同日の自身の投稿記事を知らせてくれるのですが、

自分でも忘れていることが多々あります。

この「後醍員真柱誕生地」を訪ねたことも忘れていました。訪ねたのは昨年6月20日でした。

以下、1年前のFB記事よりコピペ(一部加筆しました!)

 

「後醍院真柱(ごだいいん まはしら)」
通称:彦次郎
国学者・大河平(おこびら)隆棟の二男、後醍院良次の養子に

 

従兄がTL(タイムライン)で誕生地碑をアップしていたので
「後醍院」という苗字も珍しいなと思い調べてみた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/後醍院宗重

なるほど!後醍醐天皇の子孫で「後醍院」なんですね〜
それも「懐良親王」の子孫!

☆夕方父と一緒に行ってみたら、草に覆われて石碑が見えませんでした。

おまけに説明板も無くなっていて、残念なことでした。。(写真5枚)
個人宅のようだったので、全体像は撮れませんでした。

『後醍院真柱誕生地碑』
http://meiji-ishin.com/godaiinmihashira.html 

_______________________

  以下追記:2020.6.20 

上記リンクページの表示を改めて読んでみると‥‥、

「お由羅騒動」に関わった人だったんだ!と今更ながらに気付きました

  でも、どう関わったのかまではわかりません。。。

  以下、コピペ

「 後醍院真柱・・・薩摩藩士。国学者。
 大河平隆棟の二男として生まれ後醍院良次の養子となる。
 江戸で平田篤胤の門下生となり国学を学ぶ。
 嘉永3年(1850年)お由羅騒動に連座し謹慎を命じられる。のち許され藩校 造士館の訓読士となる。
 維新後は明治政府が設立した皇学所御用掛を勤め、明治10年に吉備国神社宮司となる。
 文化2年(1806年)12月2日誕生。明治12年6月13日死去。 」

! 6月13日は命日だったようですね

     以上、追記 

_______________________


もうひとつ↓(かごしまデジタルミュージアムより)

『後醍院真柱の誕生地』 の解説から
  「 文化2年(1805)国学者大河平隆棟(おこひらのたかむね)の次男として生まれ,後醍院家の養子となった。
 平田篤胤(ひらたあつたね)に国学を学び,造士館訓導(ぞうしかんくんどう),明治政府の役人,吉備津宮神社の宮司を務めた。
 著書として「神代三陵志」「参宮日記」「東行日記」などがある。 」

 

 

 

 

 

 

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皇徳寺跡 2020

2020-06-18 23:04:09 | 歴史探索

前回の予告通り、『皇徳寺跡』を再訪した記録です。

(無駄に写真撮ってる気もする、けど

   ← ☆小さい画面はクリックすると拡大表示されます

 

 

大きな岩の下にあった、首のない小さめの石像。これもおそらく廃仏毀釈の影響。

 

    ← ☆小さい画面はクリックすると拡大表示されます

もう少し進むと崖の下の竹林で薄暗くなっていますが、すぐにひらけて左手に

無外円照和尚、円照の師・峨山禅師の供養塔が並んでいます。

 

 

  ← ☆クリックすると拡大表示されます

更に進むと大きな石塔。「山本親匡(ちかまさ)塔」とあります

   

 

その角の左手奥には‥‥

 

 

 広い空き地に只々雑草が生い茂っていました・・・。

 

     

     

以前、2005年11月に来た時も、この空き地を見て「これが皇徳寺跡か‥‥。」と思って帰ったのだけど、歴代和尚の墓もなく、新聞記事の観音様(石像?)もなかったので、腑に落ちないままでしたが、今回も失敗〜

 

道は更に続いていたものの、空き地の隣は民家だったし、それ以上道の先へ進むという考えも浮かびませんでした。。 

で、今回もここまで。

あまり時間をかけると父も疲れてしまうし、日も暮れかかってきたのでこの地を後にしました。

      

 

 

 

↓仁王像も埋もれ気味です。。。

     

小道を元の場所に戻ると、こんな景色が広がっています。田植え時期なので、水田に水が張ったところに映り込んだ景色も綺麗です♪

画面右の小山は地域の氏神様「黒丸神社」。これも2009年3月8日に訪ねた場所。これもまたブログにアップします。

 

 

「皇徳寺跡」についてはいろんなかたがブログなどに上げておられます。

帰宅後に再度見てみたのですが、「かぶめ」さんという方の記事には歴代和尚のお墓まで辿り着けたことが載っていました

ご紹介しておきますね 

  『 皇徳寺跡 その2(鹿児島市) 』

では、今回はこれまで〜

 

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石井手取水堰跡(甲突川)

2019-09-06 12:48:02 | 歴史探索

石井手取水堰跡(甲突川)

 

こんにちは

本日も当ブログをお読み下さって、ありがとうございます

 

さて、7月下旬に投稿した後、8月にはブログをお休みしておりました。

実は身体に変調(手指の震え、息切れ、動悸、体重減少)を来たし、8月19日にかかりつけ医で血液検査してもらった結果、バセドウ病とのことで、長期服薬治療と相成りました。

 

以前、13年前にも同様の症状で「甲状腺機能亢進症」になりましたが、その時は数ヶ月の服薬で治ったのです。

ただ今回はどうなりますか。。長期戦のつもりでじっくりしっかり治したいと思っております。

 

 

自分の身体がそんなことになってるとはまだ知らなかった私、8月1日に元気一杯出かけたのは、

鹿児島市内の甲突川河畔にある「石井手取水堰跡」です。

  

市内から国道3号線沿いに辿ると、梅ヶ渕橋を山手に渡り梅ヶ渕観音を通り過ぎて、しばらく上流に向かって辿ったところにあります。

 

FaceBookで友達になった方が投稿されてたこの史跡の記事を読んで、行ってみたくなったわけです。

事前に画像を見てシミュレーションしている上、以前の勤め先が途中にあったりするので、一度地図を確かめる程度で、すんなり辿り着く事が出来ました

 説明文をどうぞお読み下さいませ。

 

ではまた、次回から『都見物日記』を書いていこうと思います〜♪

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平松城跡〜越前(重富)島津家墓地へ(2008. 6.8)

2019-09-05 14:39:30 | 歴史探索

平松城跡〜越前(重富)島津家墓地へ(2008. 6.8)

 続いて ↑↑フォトチャンネル↑↑ を作りましたのでご覧ください。

 前回投稿の平松城跡を離れ、越前島津家の墓地へ案内して頂きました。

  

 

まるで、彼方と此方を繋ぐような石橋を渡って‥‥

  

  

 

 

 

 

 

帰り道、とうもろこし畑を眺めつつ駅へ戻りました。

 

 

 

 

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重富=越前島津家領地(平松城跡)(2008. 6.8訪問)

2019-09-05 00:37:27 | 歴史探索

重富=越前島津家領地(平松城跡)

 

島津義弘はじめ、のちには島津久光も住んだという平松城の跡地です。

‥‥です、が、2008年のこの当時はほとんど初めて聞く話でした〜(^-^;

 ちなみに、こちら↓は連続テレビ小説「おはなはん」の撮影で使われた建物(門?)だそうです。

  

樫山文枝さんの「おはなはん」、私もおぼろげながら覚えています。

  

 

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調所笑左衛門などの刻銘を確かめに

2018-06-14 18:00:37 | 歴史探索

ここ1ヶ月ほどは、別ブログ 『☆雪見月のチェストブログ☆』
昨年6月訪ねた鹿児島市上町地区の「福昌寺」跡地にある島津家墓所について書いていました。

「福昌寺墓地(1)国父・島津久光公の墓所」
「福昌寺墓地(2)第21代・島津吉貴公の墓所」
「福昌寺墓地(3)第23代・島津宗信と その母・妙心院殿の墓」
「福昌寺墓地(4)鍋保丸(島津綱貴男子)、重豪夫人などの墓所」

実はきのう、久しぶりに福昌寺墓地に行ってきました。
当ブログにも3月20日に『福昌寺跡の島津家墓地に』をアップしましたが、10年前の5月17日に訪ねた時撮影した「調所笑左衛門(広郷)」「名越彦太夫」の刻銘を確認したかったのです。
※下の2枚は10年前の画像
 

記憶では島津重豪公の墓所にあったと思い、行ってみると、同じ区画で島津重豪公の更に北隣の「島津斉宣(なりのぶ)」墓所にありました。
☆↓この奥にあります!
 ←この地図は2022.7.4に追掲載しました。

右手前の燈籠に「島津淡路忠喬」と「島津三次郎忠冬」の刻銘があります。

 




この斉宣様のお墓の前の一角に並んでいる献灯の中に「調所笑左衛門」の名前を見る事が出来ます。
  
 
 
☆「島津 登」の名前も今回発見!当時は知りませんでしたから気付かず、きのう初めて目に留める事となりました。
※「島津 登」の関連記事はこちら

ただ、「名越彦太夫」の名前は今回確認する事が出来ませんでした。。というのも、
なぜかこの時、「調所広郷」さまの名前のある同じ献灯の側面にあったと思い違いをしていて、そのつもりで側面を観てしまい、「全く無くなっている〜〜!」と落胆してしまったのです。。10年の間に風化・劣化してしまったと思い込んで家に帰って確認すると、、、、別の石塔だったと判明
また改めて確認に行く事にします

他にも気になるお名前を数々認める事が出来ますね。





その他、いつもはあまり足を踏み入れる事の無い奥の墓所までゆっくり歩いて廻ってみたので、諸々確認出来たのが良かったな♪


☆ところで、「調所笑左衛門」の名前がここに刻まれている事、どれくらいの方がご存知なのでしょうね?専門家の方はご存知の事と思いますが、、、。

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2008年3月6日「皷川タンタドの名越左源太別邸跡」を探し当てたことなど

2018-05-14 11:38:38 | 歴史探索
「皷川タンタドの名越左源太別邸跡」
2008年3月9日のmixiフォトアルバム日記より3月6日に撮影した「皷川タンタドの名越左源太別邸跡」を過去日記にアップしました。☆ 写真多めです。その前日のmixi日......


以上は昨年5月8日の記事です。
当時撮った写真の誤字、現在「Magoya」は「Nagoya」に訂正されています。
コメント (12)
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福昌寺跡の島津家墓地に

2018-03-20 13:54:59 | 歴史探索

いつもお読みいただきありがとうございます
トップ写真は2006年8月4日、指宿の今和泉島津家墓地の整備改装前に撮ったものです

さて、2008年8月2日に『5月の歴史探訪フォトアルバム-1』(カテゴリー:日記)として上げましたが、写真をクリックすると拡大表示されなくなっていたのでどうにかしたいと常々思っていました。

今回改めて写真を見直してみたところ、前回のページに掲載しなかったもので興味を持って頂けるものが残っていたので、新たにブログアップしてみたいと思います。


《福昌寺跡の島津家墓地にて》(撮影:2008年5月17日)
「かごしま探検の会」の街歩きに参加して、鹿児島市内の上町地区、福昌寺跡へ


島津淡路忠喬」と「島津三次郎忠冬」と読めます。今和泉島津家の方々ですね。

指2本でやるあの拡大表示(名前がわからない)をしてみて下さいね

島津安藝忠剛」と「島津山◯忠厚」 こちらも今和泉島津家。忠剛は、忠冬の父で篤姫の父でもありますね。
※写真で見るだけでは山◯がよくわかりません‥‥あとで調べてみます。



ここで今和泉家の方々について、少し分かりやすいように指宿・岩本の墓地の新しい見取り図を貼っておきますね。



続いて鹿児島市内の島津家墓地から、
こちらは島津、菱川の姓と並んで「調所笑左衛門(広郷)」の名があります。以前のページにも載せました。

データの小さい画像しか見つからなかったので、例の指2本のヤツ()で画面拡大してご覧下さい)

そして、名越&三原 右端が「名越彦太夫」、左端に「三原」名前は判別出来ません。


さらに、名越&町田 名越彦太夫の隣の面、真ん中に「町田」名前には「久」の文字が見えますがハッキリしません。
山口、井上、竪山などの姓が並んでいます。


こちらには「島津安藝(あき)・對馬(つしま)

よく見えないのでさらに近づくと‥‥
島津安藝"忠敬(ただゆき)"」と「島津對馬"忠喬"

この、「島津對馬忠喬」というのが、『島津對馬の長女・スガ』に書いている今和泉島津家・忠卿(ただあきら)から数えて第4代当主ということになります。
指宿・岩本の墓地見取り図には「忠郷」と表記されていますが、「忠卿(ただあきら)」と思われます。
  これについては別ブログに書きました『忠郷なのか忠卿(あきら)なのか?』コメント欄

また、同じ「ただゆき」という読みの「島津周防"忠教(ただゆき)"」(安政6年)すなわち、のちの久光様の名も
 


大河ドラマ『西郷どん』で斉彬公とつい最近の放送回でも激しく対峙していた、久光様のご両親のお墓も。
こちら「島津斉興」さまと

母・由羅さまのお墓です


ついでながら、大河ドラマHPより「人物相関図」もどうぞ

福昌寺跡墓地をあとにして‥‥

中学・高校一貫校になった玉龍高校へ


きゅ(今日)はこんなところで、よしゅごあんどかい?(よろしゅうございましょうか)
 

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史跡散策(1) 鹿児島市内

2018-01-17 02:26:58 | 歴史探索
10年前の8月に書いた記事『5月の歴史探訪フォトアルバム-3』

mixiのフォトアルバムから、こちらにフォトチャンネルを作ってみました。
自分のiPadで見ると表示されない様なので、
同じく表示されない方はフォトチャンネル一覧からご覧下さい

史跡散策(1) 鹿児島市内(PCではここに表示されています)


作っていて気付いたのですが、
この時の散策で、福昌寺跡の島津家墓地を訪ねた時に
篤姫の兄であり今和泉島津家を継いだ「島津安芸忠敬」の名を刻んだ燈籠を見つけて撮った写真に
以前から気になっていた「島津對馬忠喬」の名前が並んでいるのです!


島津對馬忠喬についてはこちら 『島津對馬の長女・スガ』

確かに「どこかで目にしたことが、あるんだけどなぁ……」と記憶のどこかに引っかかるものがあったように思っていました。

今日、それが判明したわけです嬉しいです〜


‥‥と、ここまで書きながら、『5月の歴史探訪フォトアルバム』は1〜3まであるのに、
見落としていました。。

『5月の歴史探訪フォトアルバムー1』『5月の歴史探訪フォトアルバムー2』も是非お読み下さい

フォトチャンネル、作り直さなくては‥‥

 
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ブログ「おじゃったもんせ」ご紹介

2017-05-08 11:06:37 | 歴史探索
読者登録させていただいているブログ「おじゃったもんせ」さん。

ブログ記事にコメントさせていただきました。

ツイッターで歴史好きなフォロワーさんたちにもお知らせしました。

折角なのでここでご紹介します。
☆ ツイート枠内のリンク記事をクリックして読んで下さいね♪

<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
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7年ぶりの串木野・羽島(2)

2017-04-23 23:53:51 | 歴史探索
初めて羽島を訪ねたのは、2010年の4月17日でした。

※以前の日記「薩摩藩留学生渡欧の地、羽島」

その4年後の10月に出来た薩摩藩英国留学生記念館。
オープンしてから2年半も経つのに、訪れたのは初めて。

が、しかし!
火曜日、休館日だとはしらず、事前に確認することもなく行ってしまった。。

仕方がないので、建物の外観と、裏に回って記念碑などを写してきた。





風が強く、波もだいぶ立っていた。


記念碑がいくつかある中で、名越時成の年齢が、方や21歳、ユニオンジャックと日の丸の旗の近くにある案内板には17歳と書かれている。


ツイートでも書いた通り、時成兄は1847(弘化4)年生まれで当時は満17歳でありました。
数えで言っても19歳。21歳と17歳ではかなり違いますよね。

この件については、後に別途投稿しようと考えています。
           ↓
☆ 4月24日の記事『名越時成の「留学派遣」時の年齢』に書きましたのでこちらをご覧下さい。('17 5.1 追記)
  
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つながってる?

2009-03-05 19:09:21 | 歴史探索

先程、桐野作人さんのブログを読んでいたところ、
「町田明広」というお名前が目に留まり、
著作でもあるのではないかと検索すると、、、
ありました!
『島津久光=幕末政治の焦点』 (講談社選書メチエ):町田明広著

久光に関する著書、芳 即正先生のもまだ読み切れてないけど、
こちらも興味を引かれますねぇ~

検索結果の中に、桐野さんのお名前も載ってたので
覗いてみると京都の歴史研究者・中村武生さんのブログでした。

そこでブログランキングをクリックすると、『歴史ブログランキング』というのがあり
第2位(現時点)に中村氏の「歴史と地理な日々(新版)」が並んでいました。

この方、一般人のワタクシは存じ上げませんでしたが、
民放テレビ局で篤姫と和宮を取り上げた
ミステリーものの番組にご出演だったとか。
もしかしたら拝見したことがあったかもしれません。

そして、桐野さんともお知り合いのようでした。
上記・中村氏のブログの'09 1/16の日記をご覧下さい。

なんだか、つながってますよね~

いくつか読んでみると、
今年始めに鹿児島へもいらしたことが載っていました。
*同じく'09 1/3の「鹿児島の高城書房に感激したはなし」をご覧下さい。

そこで、思わぬ収穫があったので、メモしておくことに。

「鹿児島城下絵図散歩―新たな発見に出会う」(高城書房)
  編集:塩満 郁夫, 友野 春久


これ、ほしいな~~
でも、ちょっと値が張るから、、、
まずは県立図書館で見てみようかな

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「"ワイン王 長沢 鼎" というひと」mixi日記より

2008-10-07 19:26:08 | 歴史探索
先程、アメリカ・ニューヨークにお住まいのマイミクさんの日記から
関連記事へとんで、「NY永住組」というコミュを見つけました。
mixi内にも本当にいろんなコミュがありますね。
改めて、海外で暮らしている方々も多いのだなぁと感じること暫し。

そこから日系人のためのサイトへ飛んだら、
幕末の薩摩からイギリスを経て、アメリカへ渡った
「長沢鼎(ながさわ かなえ)」に関する記事がありました。
       ↓    ☆以下、リンク先が残っていないものが多々あります(追記 '17. 4.11)
   「グレープ・キング」長沢鼎の足跡

鹿児島出身の方ですから、当然名前も知っていましたし、「ワイン王 長沢鼎」としても有名ですが、イギリスに留学した後、アメリカで偉業を成し、彼の地に骨を埋めた、ということくらいであまり詳しいことは知りませんでした。
(「カリフォルニアの葡萄王」となっていたり、いろいろですが‥‥)

おそらく現地に残っている資料を元に書かれたのだと思いますが
このサイトの記事はとても興味深く、詳しいことが書かれていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


[長沢鼎(ながさわ かなえ)](1852~1934)
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/gunzon.html#nagasawa

>> 元薩摩藩士。藩の名門校、開成所で英語を学ぶ。1865年、藩費留学生として
森有礼、鮫島尚信らとともに若干13歳でイギリスに渡る。<<
                     ーー 上記記事より ーー


☆上記記事にもあるように、
長沢らがイギリスに留学した当時は鎖国中であり、
幕府に対して彼らは脱藩・密航して国外に出たという筋書きになっていた。
「長沢鼎」という名前はこのとき藩主から与えられた変名であり、本名は実は「磯永彦助」。



記事によると、
>> スコットランドの中学校に入学して英語を学んで2年が経ったころの長沢に、劇的な出会いが訪れた。宗教家トマス・レーク・ハリス。カリスマ的指導力を持つアメリカ人である。<<

宗教家が絡んでいたんですねー、知らなかった。

そこで、改めてWikiで「長沢鼎」を検索したのですが記載がなく、
そのかわり、「トーマス・ブレーク・グラバー」というスコットランドの商人の記事がリンクされていました。
長崎グラバー園の、あのグラバーさんですね。

グラバーさんは「政治的混乱に着目して薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長沢鼎らの海外留学の手引きもして」いたらしい。
そんな関わりがあったことは知りませんでした。



長沢鼎に関する記事のつづき ーー

>>このころ本国日本ではいよいよ倒幕の気分が沸騰し、その対応に忙しい薩摩藩は留学生の生活を一時的に見放していた。1867年、長沢ら留学生有志はハリスに同行して渡米。ニューヨーク州ブロクトンにある教団コロニーに居住し、ワイン醸造などの労働に従事しながらハリスの教えに従った自給自足の集団生活を送ることになる。
 1868年、明治維新の報に森らは帰国したが、ひとり長沢のみはハリスの希望により教団に残された。<<ということらしいです。


☆「長沢ワイン」でGoogle検索するといろんな記述があります。
http://www.sommelier.jp/higashikanto/CALIFORNIA14june2004_3.htm
↑ここからのリンク
http://www.sf-japan.or.jp/news/0407/0407-03.htm


「ナガサワワイン」
http://www.rakuten.co.jp/yamakataya/1821359/378185/


ちょうどNHK大河ドラマ「天璋院 篤姫」が、
次回辺りからこの頃を舞台に展開していくので、
想像をめぐらせると2倍3倍に楽しめます。


*ちなみに、薩摩藩留学生15名の中には、名越左源太の長男もいました。
私の曾祖父のお兄さんですが、こちらは薩摩に帰って来てからは
なかなか思うような生き方が出来なかった、と聞いています。

註: 渡航したのは総勢19名ですが、藩費留学生は15名で、
   新納久脩・松木弘安(寺島宗則)・五代友厚の三名と
   通訳:堀孝之(長崎出身)とともにイギリスに派遣。

☆ 鹿児島市のHPより「磯永彦助(長沢鼎)」(← '17. 4.11 追記 )

☆ 下の2枚の写真は2008年3月16日に訪ねてみた興国寺跡墓地で撮ったもの(← '17. 4.11 追記)

興国寺跡墓地で見つけた長沢鼎の墓への案内表示。


*墓地への入り口。

 
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5月の歴史探訪フォトアルバム-3

2008-08-05 18:35:35 | 歴史探索

5月の歴史探訪フォトアルバム-2」の続き

 

5月18日:谷山街道散策

春日神社 → 関連記事「谷山の春日神社と辻之堂地区



庭先の西郷サン


辻之堂前公民館


辻之堂後公民館/桜島爆発紀念碑(大正4年正月建立)



伝・豊臣秀頼の墓 → 関連記事「伝・豊臣秀頼の墓





かわいい田の神さぁ → 関連記事「木之下の田の神さぁ



上松崎公民館 → 関連記事「「是枝柳右衛門の碑」



谷山街道沿いの風景 → 関連記事「谷山地頭館跡


 

 以上、2008年5月の歴史探訪フォトアルバムでした。(2019. 10.1 個別の関連記事をリンクしてみました) 

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