*右端は桜島。
☆4月28日の日記
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=416834370&owner_id=10666577で
通りの名前について少し触れましたが、
これに関連して少し紹介してみます。
鹿児島には、可愛らしい通りの名前はちょっと思いつきませんが、面白いところで「ナポリ通り」や「ゴンザ通り」などがあります。
☆「ナポリ通り」は通りの向こうに桜島が見えるのですが、
その景色がまるでイタリアのナポリのようだ
ということでつけられたとか。
ナポリには海に囲まれたヴェスビオ火山があり、その風貌が
桜島とそっくりです。(観る角度にもよりますけどね)
https://jp.123rf.com/photo_2191201_イタリア%E3%80%82ヴェスヴィオ火山.html
それ故、ナポリとは姉妹都市でもあります。
*イメージはこちら↓のブログからお借りしました。
偶然にもどちらも'05年に書かれたものですね。
http://kanzi.blog4.fc2.com/blog-entry-75.html
http://diary.jp.aol.com/cfsqhj/582.html ←※リンク切れ
↑こちらではそのものズバリ、
姉妹都市について触れられていました。
☆「ゴンザ」は鹿児島の人物で270年近く前に(その時11歳)
父や伯父たちと大阪へ向け出港した際に嵐に遭い、ゴンザとその伯父のソウザだけが生き残り、のちに日露(正確には露薩)辞典六冊の編集を成し遂げました。
その船(ワカシワ丸) ←<これ、"若宮丸"だと思われます。>
には、島津継豊の正室のための米や絹織物など結納品と思われる20種位の品々が積まれていたそうです。
☆試しにゴンザ通りで検索したら、
通り会のサイトがありました。
http://www.tenmonkan.com/gonza/
*サイト掲載の由来説明より抜粋
出帆後嵐に合い約半年余りでカムチャッカに漂着したが、コサック隊とカムチャダル人に襲われ父を含む15名が殺され辛くも生き残ったのは11才のゴンザとその伯父のソーザだけであった。その財宝は山分けされていたが後に代官の知る所となり隊長は死刑となって財宝は国庫に収納された。2人は2年間酷使された後、3年かかってペテルブルグへ連行され、迎賓館にて接見した女帝アンナは、上手にロシア語で返答するゴンザに驚き日本語学校を建てその先生に任じた。間も無くソーザが43才で死亡、その数日後から日露(正確には露薩)辞典六冊の編集に挑み19才半迄で脱稿、歴史上かつて無かった寒さの中、クリスマスやお正月を目前に1739年21才でその生涯を閉じた。その語彙は12,000語とも16,000語とも言われ有名な東洋学者バルトリドを初め「天才少年としか言い様が無い」と言う学者が多い。
此の辞典には今や全く使われなくなった鹿児島弁やロシア文字、スラブ語も多く、特に鹿児島弁については特殊化して行く過程を研究するのに超一級の資料となっている。
☆以前、TVロシア語講座('05)の「文化コーナー」でも、
この「ゴンザ通り」とゴンザの功績についての紹介があったんですよ。
http://www.nhk.or.jp/gogaku/2006/russian/wee-02.html ←※リンク切れ