新京室町小学校。
母が通った小学校。
旧満州の新京(現・吉林省の省都、長春)にありました。
今日、ちょっと試しにインターネットで検索してみたら、
ありました、「新京室町会」のHPです。
新京室町会
ちょうど今年、創立100周年だったそうです。
思いのほか古くからの小学校だったんですね。
母が持っていた名簿をめくって見ると、
第13期の方々でも大正10年卒とあります。
ただ、残念ながら6月の総会で室町会自体は解散ということ。
でも、このHPとの出会いは嬉しかったな。
私を除く家族みんなで母の生まれ育った彼の地を訪ねたことがあり、
その時に撮った、今の町の様子を写す写真なども見てはいました。
上記のHPでも、おそらく創建当時だと思いますが
小学校の建物の写真も見ることが出来ます。
*上記HPより
「遠い日」
「長春小学校」
このほか、検索でヒットしたものに
第39期の方が書かれているブログもありました。
母が35期なので4つ下ですね。
ちなみに、澤地久枝さんも母と同じ35期。
偶然にも、8月のNHK『知るを楽しむ』の水曜版「人生の歩き方」では
澤地さんのお話を伺うことが出来ました。
水曜版「人生の歩き方』
心臓病を抱えていらっしゃるとのこと。
私の母も、僧坊弁が変形していて弁膜症のため人工弁置換手術をしました。
澤地さんは1994年、64歳の時に手術されたそうですが、
私の母も同じ頃ではなかったかと思います。
母は確か早産で仮死状態で産まれ、
取り上げたお産婆さんが逆さにして背中を叩いたりして何とか命をつないでもらったそうです。
その後も小児リューマチにかかったりした母は、小学校のプールの時間も見学していて
どうしても泳ぎたくてプールに入った時には途端に唇が紫色になり、
結局プールから上がらされたと言っていました。
満州では学校までスキーを履いて通ったのだとか。
スケートなどはお手の物。
私が小学生の頃には、家族揃って母から教わりました。
番組を全部通してみることが出来なかったので、書店で番組のテキストを購入して読むと
終戦の翌年に引き上げて来た頃のことも書かれていました。
母も幼かった弟妹を連れて、流れ弾が飛び交う中を命からがら走り抜け
鉄道の線路を辿って長い道のりを歩いたり、途中汽車に乗ったりしてロシア兵などから逃れ、
澤地さんと同じく、終戦の翌年、葫蘆島から引き揚げ船に乗って内地に初めて降り立ったそうです。
母の母親(私の祖母)は、引き上げの時には腸チフスに懸かっていてかなり衰弱しており、
接種を受ければ体がもたないのがわかっていましたが
規定の注射を受けなければ同じ引揚者全員船に乗れず帰国出来なくなるというので、
注射を受けた後、生きて祖国の土を踏むことは叶わないまま亡くなりました。
したがって母は、祖母を荼毘に付したあと、そのお骨を携えての帰国となりました。
その後は祖母の形見の着物なども泣く泣く手放し、食糧に替えてもらったりしながら暮らしたそうです。
まだ生きることの大変さがそれほどわかっていなかった学生の頃の私に、ことあるごとに語っていた母。
当時は「また戦後の苦労話か‥‥」などと思ったりすることもありましたが、
本当に大変だったんだなぁと、徐々に思いを致すことが出来るようになったものでした。
その母も9年前の7月、その年例年にない遅い梅雨明けの日に亡くなりましたが、
澤地さんのお話の中に、共通点を見いだし
思いを巡らせているこの数日間でした。
澤地さんが、力を振り絞って送り出すご著書のあとがきに
「これが最後の作品になるかもしれない‥‥」
と思いながら、その都度そのように書かれるため、読者からは
「今にも死にそうな人だと思っていたら、わりあい元気なのですね」などと声をかけられることもあったとか。
そのエピソードを読んでいたら、母も心臓が悪くおまけにひどい高血圧で
(のちには心臓肥大も指摘されるのですが)
私が小学生の頃から家で寝込んでいることも多く、具合の悪い時には人に会うこともないので
それを知らない知り合いに外出先などで会うと、「体調が悪くて寝込んでいた」などと言っても
全然わかってもらえない、と言っていたのを思い出しました。
やはり持病を持つ人の悩みは同じだったりするのですね(笑)
同じ心臓病をもっていた母を見ているだけに、
精力的に使命感にかられて仕事をされていた澤地さんのこれまでの取り組みを知るに付け、
ただただ「凄い!」と敬服致しました。
まだそのご著書は未読なので、追々読ませていただきたいと思っています。
母が通った小学校。
旧満州の新京(現・吉林省の省都、長春)にありました。
今日、ちょっと試しにインターネットで検索してみたら、
ありました、「新京室町会」のHPです。
新京室町会
ちょうど今年、創立100周年だったそうです。
思いのほか古くからの小学校だったんですね。
母が持っていた名簿をめくって見ると、
第13期の方々でも大正10年卒とあります。
ただ、残念ながら6月の総会で室町会自体は解散ということ。
でも、このHPとの出会いは嬉しかったな。
私を除く家族みんなで母の生まれ育った彼の地を訪ねたことがあり、
その時に撮った、今の町の様子を写す写真なども見てはいました。
上記のHPでも、おそらく創建当時だと思いますが
小学校の建物の写真も見ることが出来ます。
*上記HPより
「遠い日」
「長春小学校」
このほか、検索でヒットしたものに
第39期の方が書かれているブログもありました。
母が35期なので4つ下ですね。
ちなみに、澤地久枝さんも母と同じ35期。
偶然にも、8月のNHK『知るを楽しむ』の水曜版「人生の歩き方」では
澤地さんのお話を伺うことが出来ました。
水曜版「人生の歩き方』
心臓病を抱えていらっしゃるとのこと。
私の母も、僧坊弁が変形していて弁膜症のため人工弁置換手術をしました。
澤地さんは1994年、64歳の時に手術されたそうですが、
私の母も同じ頃ではなかったかと思います。
母は確か早産で仮死状態で産まれ、
取り上げたお産婆さんが逆さにして背中を叩いたりして何とか命をつないでもらったそうです。
その後も小児リューマチにかかったりした母は、小学校のプールの時間も見学していて
どうしても泳ぎたくてプールに入った時には途端に唇が紫色になり、
結局プールから上がらされたと言っていました。
満州では学校までスキーを履いて通ったのだとか。
スケートなどはお手の物。
私が小学生の頃には、家族揃って母から教わりました。
番組を全部通してみることが出来なかったので、書店で番組のテキストを購入して読むと
終戦の翌年に引き上げて来た頃のことも書かれていました。
母も幼かった弟妹を連れて、流れ弾が飛び交う中を命からがら走り抜け
鉄道の線路を辿って長い道のりを歩いたり、途中汽車に乗ったりしてロシア兵などから逃れ、
澤地さんと同じく、終戦の翌年、葫蘆島から引き揚げ船に乗って内地に初めて降り立ったそうです。
母の母親(私の祖母)は、引き上げの時には腸チフスに懸かっていてかなり衰弱しており、
接種を受ければ体がもたないのがわかっていましたが
規定の注射を受けなければ同じ引揚者全員船に乗れず帰国出来なくなるというので、
注射を受けた後、生きて祖国の土を踏むことは叶わないまま亡くなりました。
したがって母は、祖母を荼毘に付したあと、そのお骨を携えての帰国となりました。
その後は祖母の形見の着物なども泣く泣く手放し、食糧に替えてもらったりしながら暮らしたそうです。
まだ生きることの大変さがそれほどわかっていなかった学生の頃の私に、ことあるごとに語っていた母。
当時は「また戦後の苦労話か‥‥」などと思ったりすることもありましたが、
本当に大変だったんだなぁと、徐々に思いを致すことが出来るようになったものでした。
その母も9年前の7月、その年例年にない遅い梅雨明けの日に亡くなりましたが、
澤地さんのお話の中に、共通点を見いだし
思いを巡らせているこの数日間でした。
澤地さんが、力を振り絞って送り出すご著書のあとがきに
「これが最後の作品になるかもしれない‥‥」
と思いながら、その都度そのように書かれるため、読者からは
「今にも死にそうな人だと思っていたら、わりあい元気なのですね」などと声をかけられることもあったとか。
そのエピソードを読んでいたら、母も心臓が悪くおまけにひどい高血圧で
(のちには心臓肥大も指摘されるのですが)
私が小学生の頃から家で寝込んでいることも多く、具合の悪い時には人に会うこともないので
それを知らない知り合いに外出先などで会うと、「体調が悪くて寝込んでいた」などと言っても
全然わかってもらえない、と言っていたのを思い出しました。
やはり持病を持つ人の悩みは同じだったりするのですね(笑)
同じ心臓病をもっていた母を見ているだけに、
精力的に使命感にかられて仕事をされていた澤地さんのこれまでの取り組みを知るに付け、
ただただ「凄い!」と敬服致しました。
まだそのご著書は未読なので、追々読ませていただきたいと思っています。