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去年の4月23日の日記にも少し触れていますが、母から聞かされていた「高祖父=曾曾祖父(ひいひいおじいちゃん)」の名越左源太(時敏あるいは時行)のことを自分から「もっと知りたい」と思ったのは、皮肉なもので母が亡くなって5年以上たってからのことでした。
(*母は'99年7月に68歳で亡くなりました。)
母の遺品の整理は、父が気の済むようにと数年の間は任せていたのですが、その中でもウチの家系や祖先について調べて書き溜めたメモやノートを手にしては、父は「よくこれだけ調べたものだなぁ。」と私にも見せながら感心していました。
最初のうちは、「へぇ、凄いね。」と軽く相づちを打つ程度でじっくり目を通すこともなく過ごしていたのですが、何度となく見せられるうちに、「母がここまで熱心に調べたものなのだし、私もちゃんと読んでこれらの資料が一体どんなものなのか知っておかなくては母に悪いかな。」と思うようになったのです。
実は母は歴史が好きだったんだなんて、知りもしなかったのですが、残されたものを読むうちに、私も自分の祖先のことや左源太の生きていた時代の背景などにも興味を持つようになりました。
そうして調べていくと、「これについてはどうなってるんだろう?」と疑問に思えばそれに見合った資料や書物が母の残したものの中にちゃんと準備されていて、なんとも感心することばかりでした。
母は元々病気がちでずっと心臓病も患っていましたので、それを考えると尚更そう思えるのです。
母が生前、父を誘って指宿の今和泉島津家の墓地に行ったのも、我が家の名字が島津忠剛・忠冬さんのお墓にある対の燈籠(献灯)に刻まれていることを発見したのも、こうした調べものの中からだったのでしょう。
父はそうしたことにはとんと無頓着なので、母の探究心とその行動力に改めて感心しているのでした。
(*ウチでは島津家の方々にはいつからともなく「さん」付けで呼ぶ習慣がついてしまっているので、ここでも「さん」付けでと呼ばせていただいてます。)
そのうち、私は自分でも歴史に関する記事などにも目を止めるようになり、気になる新聞記事などを切り取っておくようになりました。
ふと思いついては父を誘って左源太に関するものを訪ね歩き、書物を読み、資料をまとめたりしていたのですが、そんな中、いつの間に切り取っていたのか、2001年4月11日の南日本新聞朝刊に載った「南島雑話 史料 名瀬に里帰り 名越左源太の子孫が寄贈」という見出しの切り抜きが出てきたのです。
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