☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

姉と弟

2009-09-13 09:49:09 | 名越左源太と家族
先週月曜日に亡くなった、東京の伯母は
父の5人兄弟の長女(長子)で、父は末っ子。


私の父はもともと左利きなのですが、
小さい頃、
「字を書くときとご飯を食べるときだけは
ちゃんと右手を使えるように!」と
厳しく躾けられたそうです。

その躾をしてくれたのが
長女である伯母だったそうです。



父と伯母は13歳違い。


以前、左源太の長女・イサさんの日記のことを紹介しましたが、
イサさんと末っ子である私の曾祖父・轟さんとは10歳違い。

川上家に嫁いだイサさんが明治23年4月に
お姑さんと弟の轟さんの3人連れでお江戸上りをされた時の様子を
その日記『都見物日記』から読み取ることが出来ます。

*関連日記
http://blog.goo.ne.jp/yuki_bins35/e/0c90b84a1b14660267ee5289fc7e088c
http://blog.goo.ne.jp/yuki_bins35/e/5a42c50ddcf25dfddfa2a86c6011eaff


姉の目から見る弟の姿が書かれていて、
面白いエピソードなどもあるのですが、
そんなひとつひとつの日記に
イサさんの姉としての愛情なのでしょう
なんとも温かいものを感じます。
(後々『都見物日記』のことも少し書いてみようかな、
 と思っています)


そして、一番上の姉と末っ子の弟、というところなどから
伯母と父の姿が重なります。

父自身も、遠くに暮らす姉と自分のことを
「イサさんと轟じいさんみたいなもんよ。」
と言っていました。
  
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気になってたこと

2009-09-13 08:40:31 | 名越左源太と家族
随分前から気になっていたのだけど、
Wikipediaで左源太さんの生年月日をみると、
文政2年生まれで西暦が「1820年」と書かれていたのです。
(BIGLOBE百科事典などはWikiにリンクしてるからなのか
 そのままそっくりコピーだし


内村さんがまとめられた資料には、
文政2年(1819年)の12月28日生まれで
明治14年(1881年)6月16日に亡くなった
と書かれていました。
(名越護さんの「南島雑話の世界」には
 ちゃんと1819年生まれと書かれていますね。)


なので、
これまでも釈然としないままに確認せずにいたのですが、
先週金曜日(今頃になってなんですけど
どうしても放っておけずに電子辞書で調べてみると
文政年間は1818年4.22から1830年12.10までとなっていました。

なので、Wikiの左源太さんのページ、
修正をかけておきました。


*******************


気になると言えば、
先祖・家族の生没年のこと。

資料などを読んでるときは分かったつもりになっていても
すぐに記憶が曖昧になるのが家族の誕生日と命日。

つい最近になって
携帯電話のカレンダーに書き込むことにしました。
命日だけでなく誕生日も
(誕生日も大事な日ですもんね

そこで、
左源太さんの生没年月日をハッキリ覚えてなかったので
確認作業をしたのでした。

ちなみに、父方の祖父(左源太の孫)篤彦が生まれたのは
明治14年(1881年)の5月16日。
そう!左源太さんが亡くなる1ヶ月前が誕生日なんです~



私が生まれた時に唯一健在だった母方の祖父の命日ですら
ちゃんと覚えていませんでした。。。
(ごめんね、栄おじいさ~ん

いえ、鹿児島では毎月のようにお墓参りをするのが普通なので、
母の命日23日前後にはお参りしているから
問題ないとは思うんですけどね


ところで、つい1~2年前まで
「祥月命日」の意味を知らなかった私。
てっきり「月命日」のことだと思っていました。

そんなこんなで明日は栄じいさんの月命日です。


最後は左源太さんとは直接関係ない話でした~


*次からは、左源太の4人の子供たちのことに触れようと思います。
では~
 
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