*2009年6月15日、桜島爆発直後
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以上、一昨年7月9日にブログ草稿のままだったものをアップしてみました。
上記タイトルからは、もはや何を書こうとしていたかは判然としませんが、鹿児島市易居町から名山堀界隈を散策したときのものです。
*その時の記事はこちら。
父は、終戦前年の昭和19年3月21日に台湾の高雄港から船で日本本土へ向かい、10日後の3月31日に大阪港へ。
翌日の4月1日に四国松山で海軍予科練に入隊し、宿毛(すくも)の辺りで終戦を迎えました。
戦後の残務処理で詫間に滞在した後、台湾に戻る船が佐世保から出るらしいと聞いて向かったものの、佐世保の手前で、もう台湾へは渡る必要はない、と(すでに中国本土から国民党が入ってきてたでしょうか)止められて、
家族が身を寄せている鹿児島へ移ってきたそうです。
昭和21年の頃の話です。
祖父・篤彦の姉が吉野の実方(さねかた)に居り、父は台湾から一足先に引き揚げて来た家族とそこで再会。その後、しばらくして家族で易居町へ移り、祖父は昭和23年1月25日、満66歳で亡くなりました。
〈追記:青文字については、その後2017年になってわかったのですが、父が先に引き揚げて来て、運輸局の仕事をしていた実方(さねかた)川上家の従兄から港湾の仕事を紹介され北九州・苅田港で一時期仕事をした後に鹿児島へ帰り、家族と合流した、ということらしいです。確認作業も一苦労です………。(2018.1.25 追記)〉
*その、実方の家は別府晋介生誕地のすぐ近くでした。
(写真は'09 10/27に散策して撮ったものです)
末の息子だった父はその時21歳。
祖父は台湾を引き揚げる時には既に病気を患っていたようで、易居町のバラックの家では治癒もままならず不自由だったことと思います。
当時住んでいた場所を訪ねての、父との名山堀散策でした。
*当時バラックがあったと思われる辺りの写真。
「錦城幼稚園」の敷地を引揚者などの住まいに提供していたそうです。
そこが、終戦直後祖父母と父や兄弟とが過ごした場所。
*父には、この近くの不断光院が目印となりました。
名山堀、最近徐々に注目されているようですね。
「かごしま探検の会」の事務局もここにあります。
近所のスペイン風居酒屋も人気だそうで、私も行ってみたいと思っているのですが、、、。
今度、ご無沙汰している友達を誘って行ってみようかな。