FBをやっていると、過年の同日の自身の投稿記事を知らせてくれるのですが、
自分でも忘れていることが多々あります。
この「後醍員真柱誕生地」を訪ねたことも忘れていました。訪ねたのは昨年6月20日でした。
以下、1年前のFB記事よりコピペ(一部加筆しました!)
「後醍院真柱(ごだいいん まはしら)」
通称:彦次郎
国学者・大河平(おこびら)隆棟の二男、後醍院良次の養子に
従兄がTL(タイムライン)で誕生地碑をアップしていたので
「後醍院」という苗字も珍しいなと思い調べてみた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/後醍院宗重
なるほど!後醍醐天皇の子孫で「後醍院」なんですね〜
それも「懐良親王」の子孫!
☆夕方父と一緒に行ってみたら、草に覆われて石碑が見えませんでした。
おまけに説明板も無くなっていて、残念なことでした。。(写真5枚)
個人宅のようだったので、全体像は撮れませんでした。
『後醍院真柱誕生地碑』
http://meiji-ishin.com/godaiinmihashira.html
_______________________
以下追記:2020.6.20
上記リンクページの表示を改めて読んでみると‥‥、
「お由羅騒動」に関わった人だったんだ!と今更ながらに気付きました
でも、どう関わったのかまではわかりません。。。
以下、コピペ
「 後醍院真柱・・・薩摩藩士。国学者。
大河平隆棟の二男として生まれ後醍院良次の養子となる。
江戸で平田篤胤の門下生となり国学を学ぶ。
嘉永3年(1850年)お由羅騒動に連座し謹慎を命じられる。のち許され藩校 造士館の訓読士となる。
維新後は明治政府が設立した皇学所御用掛を勤め、明治10年に吉備国神社宮司となる。
文化2年(1806年)12月2日誕生。明治12年6月13日死去。 」
あ! 6月13日は命日だったようですね
以上、追記
_______________________
もうひとつ↓(かごしまデジタルミュージアムより)
『後醍院真柱の誕生地』 の解説から
「 文化2年(1805)国学者大河平隆棟(おこひらのたかむね)の次男として生まれ,後醍院家の養子となった。
平田篤胤(ひらたあつたね)に国学を学び,造士館訓導(ぞうしかんくんどう),明治政府の役人,吉備津宮神社の宮司を務めた。
著書として「神代三陵志」「参宮日記」「東行日記」などがある。 」