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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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後醍院真柱(ごだいいんまはしら)誕生地碑

2020-06-20 12:57:34 | 歴史探索

FBをやっていると、過年の同日の自身の投稿記事を知らせてくれるのですが、

自分でも忘れていることが多々あります。

この「後醍員真柱誕生地」を訪ねたことも忘れていました。訪ねたのは昨年6月20日でした。

以下、1年前のFB記事よりコピペ(一部加筆しました!)

 

「後醍院真柱(ごだいいん まはしら)」
通称:彦次郎
国学者・大河平(おこびら)隆棟の二男、後醍院良次の養子に

 

従兄がTL(タイムライン)で誕生地碑をアップしていたので
「後醍院」という苗字も珍しいなと思い調べてみた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/後醍院宗重

なるほど!後醍醐天皇の子孫で「後醍院」なんですね〜
それも「懐良親王」の子孫!

☆夕方父と一緒に行ってみたら、草に覆われて石碑が見えませんでした。

おまけに説明板も無くなっていて、残念なことでした。。(写真5枚)
個人宅のようだったので、全体像は撮れませんでした。

『後醍院真柱誕生地碑』
http://meiji-ishin.com/godaiinmihashira.html 

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  以下追記:2020.6.20 

上記リンクページの表示を改めて読んでみると‥‥、

「お由羅騒動」に関わった人だったんだ!と今更ながらに気付きました

  でも、どう関わったのかまではわかりません。。。

  以下、コピペ

「 後醍院真柱・・・薩摩藩士。国学者。
 大河平隆棟の二男として生まれ後醍院良次の養子となる。
 江戸で平田篤胤の門下生となり国学を学ぶ。
 嘉永3年(1850年)お由羅騒動に連座し謹慎を命じられる。のち許され藩校 造士館の訓読士となる。
 維新後は明治政府が設立した皇学所御用掛を勤め、明治10年に吉備国神社宮司となる。
 文化2年(1806年)12月2日誕生。明治12年6月13日死去。 」

! 6月13日は命日だったようですね

     以上、追記 

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もうひとつ↓(かごしまデジタルミュージアムより)

『後醍院真柱の誕生地』 の解説から
  「 文化2年(1805)国学者大河平隆棟(おこひらのたかむね)の次男として生まれ,後醍院家の養子となった。
 平田篤胤(ひらたあつたね)に国学を学び,造士館訓導(ぞうしかんくんどう),明治政府の役人,吉備津宮神社の宮司を務めた。
 著書として「神代三陵志」「参宮日記」「東行日記」などがある。 」