☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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初めての南方神社参詣('11.1.8)

2020-10-12 10:27:49 | 歴史探索

古い画像ファイルを見ていて、いつか上げようと思いつつそのままになっていたものを拾ってみました。

2011年1月8日、父と連れ立って鹿児島市上町五社の南方神社に行きました。

ここを訪ねたのは初めてだったと思いますが、その際に撮っていたのが

「島津山城 忠教(ただゆき)」の名が刻まれた石塔でした。

撮った当時は何となく「島津久光のことじゃないかなぁ‥‥?」と思った程度でしたが。

左に並んだ「島津〇〇」については読めませんし、わかりません。。

  

案内板に書かれているものを以下に書き起こしてみます。

『ー 最も古い島津氏の城下町 ー』

 島津氏が本拠を鹿児島に移したのは南北朝時代のことです。島津家第5代貞久は、東福寺城を攻め、鹿児島郡司 矢上一族を追い、鹿児島へ入りました。島津氏の城下町はこの城を中心に南へ南へと広がっていったのです。また、この時、出水山門院から移され、この地に建立されたのが南方(みなかた)神社です。南方神社は諏訪神社ともいい、建御名方命(たてみなかたのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)を祭り、上町五社の第一社として歴代藩主の信仰が特に厚く、諏訪市(8月28日)と呼ばれた市は、西田市(にしだいち)と並んで最近まで盛んでした。

 五社には他に、オギオンサァの八坂神社や流鏑馬(やぶさめ)の奉納で賑わった稲荷神社、藤原氏の氏神 春日神社、大隅正八幡の分社 若宮神社があり、いずれも島津氏に縁故が深く、正月、5月、9月は五社詣(もうで)と称して多くの人々がお参りして賑わいました。


三原氏について知りたい

2020-10-12 09:32:23 | 三原藤五郎と倉山藤五郎

おはようございます。ゆきです

 

さて、「三原経○」という名前を見かけるとつい気になってしまう私ですが、

(何故かというのはこちらを読んでみてください→『西村天囚と三原家の繋がり』)

先日読んでいた『島津歳久の自害 増補改訂版』、p.51の「殉死者について」の項で

27名の殉死者の中に「三原源六経用」という名前があったのです

 

そこで、「三原経用 島津歳久」でネット検索かけたところ、

「鹿児島県史料『旧記雑録』未収載文書補遺」が上がっていたのでザッと見てみると、

p.95下段に「伊作島津氏 家老になった三原氏」というのがあったことを知りました。

(お詫び&追記:上記リンク貼るのを忘れていましたので編集しました('20.10.12 12:55))

 

三原氏についてはまだよくわかっていないのですが、「旧記雑録」もこうやって読めることに改めて(今頃?ですが)気付きました。

 

ということで、大した中身のない記事ですみません。。