☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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島津久敬と永吉島津家

2020-11-06 23:49:12 | 永吉島津家

 皆さま、こんばんは

 

今日は前回に続いて、気になる一枚の写真紹介ぃ〜

ということで、↓こちらです 「島津又七郎 久敬」と「永畠 琴」と読めます。この「永畠 琴」ってどなたでしょうね

 

「島津又七郎 久敬」は、これまでこのブログ記事(『島津 登について』など)にもちょくちょく名前が出ていますが、例によって、この時は「島津」とあるだけで写真に収めたように思います。「又七郎?……久、敬‥‥?」って感じです。

 

「島津又七郎 久敬」……今和泉島津家・島津忠剛の息子で、天璋院篤姫の兄のうちの一人です。

のちに永吉島津第13代として養子入りしますが、廃嫡となります。

 

『日置市立永吉小学校創立百五十周年 並びに坊野小学校統合四十周年 記念誌』のp.151~155に、

「百五十年前の永吉」と題して野田幸敬氏が書かれていますが、その中の「9.  島津久敬について」(p.154)の項で詳しく書いて下さっています。

(上記の記念誌を入手した経緯はこちらに書きました→『ブログでの嬉しい繋がりを得た6月』)

 

「篤姫が徳川十三代将軍家定に輿入れ準備中の安政二年、不祥事を起こし三年で隠居となりました。宇都山の今の招魂社の横に隠居屋敷を置きました。‥‥中略‥‥。」

島津久敬のお墓は日置市永吉の天昌寺の右隣に久敬単独で立っているそうですが、実際の久敬夫婦のお墓は近くにありご家族で管理されているそうです。

上記、「中略」の部分に書かれているのですが、家臣の娘さんを妻にし、五男二女、孫もたくさんと栄えたようです。

(これを読んでそのことを知ってホッとしました

そして、「永吉島津家の二男以下の分家の名乗る名字」は決められており、「九良賀野」だそうです!

実際、江戸時代には、九良賀野平八家、亘家、登家などあるそうです。

で、久敬の家は「九良賀野」→「九良ヶ野」→「九良野」となまって名乗られたそうです。

そんなこともあるのですね〜

 

九良賀野については以前『水上の野元彦十郎様も』などに書きましたが、

左源太の妻・タネの弟・島津久籌の息子が「永吉の九良賀野辰彦」さんです。

永吉島津家に養子入りした、左源太の妻・タネさんの実弟・島津久籌(島津登の長男)の四男(長男は早世なので、三男?)が、この「辰彦」さんで、「駅長 九良賀野六郎 嗣」とあります。

 

 

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薩州家のこと、島津仲家のこと

2020-11-06 17:42:28 | 薩州島津家と我が家の先祖

これまで度々目にしながら、分かったようでよく解っていなかった「薩州家」について

以下、Wikiの「薩州家」(←系図あり)より

『 薩州家(さっしゅうけ)は、薩摩国守護大名島津氏の分家。

島津宗家8代当主島津久豊の次男の島津用久(好久)よりはじまる。「薩州家」の名前は用久薩摩守を称したことに由来する。2代当主国久の死後に起こった御家騒動は、他の分家をも巻き込んだ騒乱となった。一時は半独立状態にあったが、5代当主実久は島津宗家当主の座を巡る争いで、一時的に宗家当主・薩摩守護に就いたと考えられている[1]が、最終的には同じく分家の伊作家に敗北した。以後は島津宗家を継いだ伊作家系に従う。7代当主忠辰はこうした経緯からか豊臣秀吉九州平定に対しては、宗家よりも先に降伏した[1]朝鮮出兵に際し秀吉の怒りを買い改易され、忠辰が朝鮮在陣中に病死したため、薩州家はその所領を失った。』

 

 最初に「薩州家」を意識したのは、『さつま歴史人名集』で我が家の名字を目にした時でした。

(こちらにその頃のことを書いています→『追いつけない。。

 

 

そこに書かれていたのが「薩州家島津仲」だったのです。 

ただ、そこにあったのは「栗川用次」で、「島津帯刀久元二男、今和泉島津家臣。」とありました。

確かに曽祖父が継いだ養父の名前にも「用」の文字があるけど、これだけではよくわかりませんでした。

なので、しばらくはそのまま目にすることもありませんでした。

 

そして、「島津仲」ってなんだろう?「島津用久」って?と調べてみましたが、、、

 

結局、赤鉛筆で傍線を引いて、そのままでした。

今でこそ、これを見て「島津仲」だ!「寺山」だ!「矢柄家」もある!

「島津薩摩守義虎」に「忠辰」か〜。。と感慨深いですが、ここまで何年も経て、ようやく理解できるようになりました。

    

 

では〜

 

 

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大野多宮久甫と関山糺金生(孚)

2020-11-06 01:09:04 | 今和泉島津家墓地

 いつもお読みくださってありがとうございます

 

さて、今年6月に『12年前の画像とブログ記事』を書いた頃、画像フォルダを眺める中で、

「この画像をピックアップして記事に上げたいなぁ」と思うものがいくつかありました。

 

その中の1枚。14年前の2006年8月4日に指宿岩本の「今和泉島津家墓地」で撮ったものです。

「大野多宮 藤原久甫」「關山 糺 日下部金生」とあります。

側面にあるのは建立年月日「嘉永七 甲 寅年 二月二十七日」(最初「卯」に見えたけど、別ので確認↓)

  

当時は薩摩の歴史も今和泉島津家のことも、島津家の各家系のことなども全く知識のない頃。

何と無く気になって撮ったものですが、その後、高祖父・名越左源太に関する(左源太の叔母婿と書かれている)本などを読んだり、諸先生のお話をSNSで伺ったりするうちに、関山糺が名越家とも繋がりがあることを知り、2年半前『關山糺の名があちらこちらに』に書きました。

 

そこで例によって『島津家家臣団系図集』を見てみました。

「關山 糺 金生」は「金咬(白編に交)」を継いだ「関山 糺 金生(孚)」で、

「初,岑九郎 糺 大目付」更には「実,島津対馬忠喬二男 室,喜入主水久高 妹」とありました

 

そう!島津対馬忠喬とは、私の曽祖父・轟の養母、スガの父  →『島津對馬の長女・スガ

なのでこの「関山 糺 金生(孚)」はスガの兄だったんです〜〜〜〜

 

 

そして、前回書いた『町田申四郎の妻』の中に、「大野多宮 久甫」の名前があるのです 

 

「(町田久長の)二男・町田実積(さねつみ)‥‥‥大助・猛彦・萬‥‥‥(候補となるも渡英せず)

      → 三崎平太左衛門久謐を嗣ぎ改 三崎平太左衛門久志 室、大野多宮久甫 女(むすめ) 」

 

この「大野多宮」とは?

同じく『島津家家臣団系図集』(下巻 p.199~200)を見てみました。

 「大野氏「薩州家二男家」(多宮家)一所持 」

祖・忠綱(薩州家初代用久長男薩摩守国久二男号大野)

 

大野氏も今回改めてしっかりと調べてみたわけですが、代々を見てみると、

「忠綱」ー「忠悟」ー「忠元」ー「忠宗」=「久行」=「久明」=「久矩」と続きます。(= は養子入り)

 

系図の中には「寺山」「三原」など気になる姓がありつつ、

時代が下って「久矩」ー「久丘 」=「久富」ー「久端 隼人多宮」ー

  ー「久昶」=「久甫 多宮 実,島津安芸 忠厚四男 室,小松相馬清猷(きよもと/きよみち) 姉」との表記

 

なるほどそれで、今和泉島津家墓地の献灯に名前があるわけですね。

 

 今和泉島津家墓地で写したものはいくつかフォトチャンネルにアップしています

PC画面では右サイドにフォトチャンネル一覧がありますので宜しければ他も合わせてご覧ください

 

 

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