本日、
さてさて、明治23年の「都見物日記」には何が書いてある?
☆ 「5月6日 佐原芳どのを訪問、 天王寺の吉次殿とは?」
「天王寺の吉次殿」も「佐原芳(よし)どの」も、相変わらずどなたなのか判明しません。
「お筆どの知人」の「金杉の多田親愛さん」とありますが、
「金杉」はおそらくは地名、では、どこだろう?と思い、ネット検索しました。
上野の墓参の帰りに立ち寄った、とあるので、「東京台東区金杉、現在の下谷(したや)」 のことでしょうね。
Wikiの「地名の由来」を読むと、下谷村が先なのかと思うけど、
「沿革」には↓このようにありました。
- 1590年:領地替えで江戸に移った徳川家康により姫ヶ池、千束池が埋め立てられる。寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄える。江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現:金杉通り)沿いに発展する。江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担った。
ちょっと待って、「金杉」を検索した時に「金杉橋」というのもあった。
金杉橋 (かなすぎはし)
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- 現住所
- 港区浜松町~芝大門・芝
- 解説
- 現在の港区浜松町2丁目・芝大門2丁目と芝1、2丁目を結ぶ、金杉川(古川の地域称)に架かる橋。また、橋から南、入間川に架かる芝橋までの海側を金杉と称した。地名の由来は、「暗い夜に金色の光を発する杉に似た栴檀の木が沖合からの目印となったため、漁師たちの願いにより金杉大明神が建立された」、「金洲崎(かなすき)という洲崎の名称が転訛した」、などの説がある。
- なお、金杉橋を渡って南、芝田町1丁目には、幕末、勝海舟と西郷隆盛が会見し、江戸城無血開城を決めた薩摩藩蔵屋敷がある。
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そもそも「金杉橋」とは、何?
☆『港区観光協会の「金杉橋」の紹介』
東京の地理に疎い私はこういうところで躓くのでした〜
気持ちを立て直して、「上野 金杉」で検索 ポチッ
ここで新たに「金杉通り」というキーワードが!
リンクした「TAITOおでかけナビ」によると、
「金杉通りは昭和初年に開通しました。旧道は上野山下から入谷口通りを経由、昭和通りと並行して東北に延び三ノ輪で昭和通りと合流します。この道を俗に「金杉通り」と呼びますが、昔はこの街道を奥州街道裏道と呼びました。金杉の地名は、鎌倉時代に金曽木彦三郎という人物の姓から、初めは金曽木、それが金杉に変わったものとされています。」
同じく「TAITOおでかけナビ」の
「根岸・入谷・金杉エリア」の地図表示 を見ると、よくわかります
金杉通り近くに「金杉公園」表記がありました
実は6日の日記としてカテゴリー〈「都見物日記」と令和3年日記〉で書くつもりでしたが、
内容から〈「都見物日記」番外編〉と致しました